第59話 「復活」①

「観世音菩薩……」ラウラの口が小さく開いた。

「カンゼオンボサツ……?」

「世の中で苦しむ人々の声を、心眼で受けとめ、救いの手をさしのべてくれる菩薩さまだ」


 真弓はそのあまりの美しさに、我を忘れてボーっとしていたが、光り輝く神々しさに、いつしか跪いていた。


「ラウラ、何処の世界に我が子を見て、気分を悪くする母親がいるでしょう」


 観世音菩薩は、片膝を付いてこうべを垂れているラウラに諭すように話し始めた。

 真弓は、観世音菩薩が誰かに似ていると、先程からずっと考えていたのだが、次の言葉でやっと思い出した。


「真弓、あなたならわかりますね」


(そうだ!修学旅行でお会いした「霊開寺」の妙心尼さんだ!)


「はい」

 真弓は、神妙に返事をした。

(お母さんは、お兄ちゃんを堕ろすと決まった時、すごく動揺していたわ。すごく辛そうだった。わたしには、お母さんの気持ちが伝わってきた)


「例え、身ごもった子供が愛する男の『子』でなくても、その子に流れる半分の血は、母親のものなのです。どの母親も辛い思いを抱えながら、子供を堕ろすのですよ。母親の辛い決断を、水子もわかっています。だから、水子が何で悲しみに耐えている母親を呪ったり恨んだりするでしょう」


 観世音菩薩の最後の言葉は、まるで『闇鬼』に言っているようだった。


「その逆なのです。辛い決断を下さなければならなかった母親を、水子は霊界でそっと見守り続けているのです。……ラウラ、だからあなたも母親とその子どもたちを守るために、人間界に来たのでしょう?」


 ラウラは、黙っていた。


「素直におなりなさい。母の気持ちをわかっておやりなさい」


「……だって、あの女は俺のことを一度だって思い出したことなんてなかったんだろ」

 ラウラは、ポツリと呟いた。


「それは違います。……あなたのために清恵は祈り続けていたのですよ」


 観世音菩薩がそう言った途端、真弓とラウラの目の前に二十八年前の過去が、まるで映画を見ているように鮮やかに甦った。




 そこには、ラウラの中絶が終わり、麻酔から醒めた清恵が現れた。

 看護師が優しく、清恵に声を掛けている。


「赤ちゃんの体を少しずつ外に出したのよ。でもね、そうすると赤ちゃんの体の一部が、どうしても子宮に残ってしまうことがあるの。あとからそれが出てくることがあるわ。でも決してびっくりしないでね」


 清恵は、看護師の説明を聞きながら、涙をいっぱい溜めていた。

(お母さん、かわいそう)

 真弓がそう思う間もなく、場面が翌日の家のトイレへと切り替わった。


 清恵が、愕然と便器の中を眺めている。おりものを見ないようにしていても、自然と目はそちらにいってしまうものだ。

 清恵は、血と一緒に浮いている黒い塊が目に入ってしまったのだ。


「赤ちゃんの体……!」清恵が小さく呟いた。

「ごめんね、ごめんね」

 そう言いながら、レバーを引いて水を流そうとするが、清恵にはできなかった。


 清恵は、赤ちゃんの肉片を摘み、ちり紙に包んだ。部屋に戻り、半紙に包み直している。


(どうするんだろう?)

 真弓はジッと瞬きもしないで、見つめ続けた。


 清恵は、家の裏山に上り、大木の近くに穴を掘って、半紙を埋めた。そして、牛乳の空きビンに入れた花を供えながら、手を合わせた。


 目の前には、手を合わせて拝み続ける清恵の姿が、何十回となく映し出された。

 ある時は雪の降りしきる中を、ある時は嵐で傘が飛んでしまいそうな中を……。


 中学生の清恵が、いつしか高校生になり、紺のスーツを着込んだOL風の時もあった。着物姿は、きっと成人式なのか。


 そんな中、真弓は「あっ」と思わず、声を上げた。

 一度だけ、赤ちゃんを抱っこして大きな木の場所に佇む清恵。抱かれているのは、まぎれもなく「わたしだ!」と真弓は思った。


 赤ちゃんの体を埋めた日を、きっと命日と決めたのだろう。毎月二十日、通い続けてきた母の姿がそこにあった。


(お母さんは、毎月私たちに何も言わず、二十日になると必ずどこかへ出かけていた。ここだったのね)


 横にいるラウラが(本当か?)というように真弓を覗き込んだ。真弓は小さく、しかし、しっかりと頷いた。


「ラーフラ(障碍)という名前をわたしがつけたのは、あなたが抱いている心の障碍に気がついて欲しかったからなのです。もっと、素直におなりなさい。ラーフラを乗り越えるのは、今ですよ」


 観世音菩薩が、蓮の蕾に添えていた右手をそっと下ろした。すると、蓮の花がフワッと美しく開いた。


 ラウラに何の躊躇いもなかった。スッと立ち上がると、清恵に向かって歩き始めた。


 そこには下を俯いたまま嗚咽している清恵がいた。ラウラは、そっと清恵の背中から肩に手を置いた。

 ラウラの細く小さな手の甲を、清恵は握りしめながら、「ごめんね、ごめんね」と囁き続けている。


 そして、何を思ったか、清恵は振り返るなりラウラをギュッと抱きしめた。これには、ラウラも面食らっていたが、ゆっくりとラウラの本数の少ない指が清恵にしがみついた。


「わたしに顔をよく見せて……。わたしたちに会いに来てくれたのね」

 清恵は、ラウラの顔を見ながら、もう一度抱きしめた。


「ありがとう……」


 ラウラの互い違いの目から、涙が一滴こぼれた。ラウラも、清恵に固く抱きついていた。


「ごめんね、痛かったでしょう。ごめんね」

 しがみつくラウラの口が小さく開いた。

「お母さん……。お母さん……」


(ラウラは、お母さんに抱かれたことがなかったんだもんね)

 真弓は、二人の光景に見入っていた。


「お母さん、お母さん……。会いたかった。一度でいいから、こんな風に抱っこしてもらいたかった」

 ラウラが呟いた。


 すると、どうだろう。

 清恵に抱かれているラウラの体が、観世音菩薩と同じように、光り輝き出したではないか。そして、デコボコの崩れた顔と体に変化が起こり始めた。


 土色の皮膚は肌色に変わり、高さの違う頭と目、そしてひん曲がった口、穴だけの鼻……、すべてが整った顔立ちになっていく。


 あっという間に、可愛い七歳くらいの男の子に変わっていた。

(マコにそっくり!)

 これが、本当の兄の姿なんだ!


(ラウラは……、お兄ちゃんは、こんなに可愛い顔をしていたんだ)

 真弓は、涙で溢れた目を拭った。


 そんな二人の様子を見守っていた観世音菩薩が、囁くように口を開いた。


「ラウラ、これで心残りはありませんね?……あなたの願いを叶えます」


 観世音菩薩はそう言うと、軽く手の平を返し、ラウラの方に差し出した。


 さっきまで涙でいっぱいだったラウラの顔が、穏やかな笑顔に変わっている。清恵もとても優しい顔でラウラを抱いていた。


 突然、ラウラの体が一瞬、ビクンと震えた。一体何が起きたのだろう?真弓は、清恵とラウラを見つめ続けた。


 ラウラの口が、小さく動いた。

 それが真弓には「さようなら」と言っているように見えた。


「うそ!お兄ちゃん、行っちゃうの?」


 ラウラの体が、清恵に抱かれたまま透明になり始め、そして、静かに消えかかっていく。


「お兄ちゃん!」真弓は叫んだ。


 ラウラは、最後まで笑みを絶やさないまま、金色の粉になって昇天していった。




 遠くから、パトカーのサイレンの音が鳴り響いてくる。

 しかし今の真弓には、何も耳に入らない。ただ呆然とその場に立ちつくしていた。




闇鬼・最終話「復活」 完  へ つづく

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