第34話 「ラーフラ」②

 ラウラは、頷くだけで真弓たちを見ようともせず、煮込みをパクついている。

 奪衣婆は、シワシワの顔に薄笑いを浮かべ、真弓をジッと見た。


「ではゆこうぞ、28年前の世界へ! そこでおまえは、真実と向き合って来い!朝河清恵あさかわきよえの細胞の一部となって……!」





 (朝河清恵? どこかで聞いた名前だけど……。あっ、お母さんの旧姓だ!)


 そう思い出した瞬間、真弓の心と体はグルグルと回転して、あっという間に目の前に目映いばかりの光の世界が広がっていた。


「眩しい! ……ここは何処?」

「13歳の清恵の体の中じゃ。おまえは清恵の細胞の一つとなって存在しておる。だから、清恵の喜びも悲しみもすべてを受け止める事ができるぞ」


 そう語る奪衣婆の姿は見えなかった。代わりに奪衣婆が喋る度に、小さな光が目の前で明滅していた。


(13歳のお母さん……! ダツエバさんは、いったいわたしに何を見せようって言うの?)


 清恵の体の一部となった真弓は、自分の体が揺れていることに気がついた。どうやら、清恵は急ぎ足で歩いているようだ。いや、走っているのだ。

 目の前に広がる暗闇の中に、ボンヤリと遠くに光る家々の電気が、上下に動いている。


 清恵は、いきなりつんのめって倒れた。教科書や筆箱が、鞄から思い切り畦道に飛び出していった。


(どうしたの、おかあさん! 何をそんなに慌てているの?)

 その瞬間、真弓の体に物凄い痛みが走った。起き上がろうとした清恵の頬を誰かが平手打ちしたらしい。


 恐怖に引き攣った清恵の心臓の鼓動が、真弓にも伝わってくる。

(一体、何があったの?)真弓は想像した。


(お母さんは、きっと部活の帰り道なんだ。子供の頃は、家のそばにたくさんの畦道があると言っていた。日が沈んでからの帰り道。そこを誰かに追いかけられて、逃げていたのね。お母さんをぶつなんて! 誰なの?)


 倒れながらも振り向いた清恵の瞳を通して、真弓の目に飛び込んできた人物。それは紛れもなく、数日前に八成はちなりスーパー・小戸吹店ことぶきてんで女子事務員を刺して、自殺した男だった。


 ……宮崎努!


 しかし、真弓はこの男の名前までは知らない。名前は知らなくても、あの頬のこけた惨忍な顔は脳裏に焼きついていた。


 28年前。真弓の母・清恵はまだ13歳。宮崎努は十代後半だった。真弓は奇しくも、清恵が宮崎に強姦される現場にタイムスリップしていたのだ。


 真弓は、すべてを思い出した。益子先輩に「突き」を食らって剣道場で気絶していた時。


(あの時、わたしは夢の中でお母さんになっていたんだ! あれは、この男にやられるところだったのね。あ~っ、何とか助けなくては! でも、どうやって?)


 清恵の体の一部となっている真弓に、何もすることはできない。

 草むらに引きずりこまれた清恵は、仰向けに倒された。男が首に巻いている汗臭いタオルが、清恵の口の中に無理矢理詰め込まれる。

 清恵は必死で足をバタつかせるが、両腕を大の男に押さえ込まれているのだ。ついにのしかかられてしまった。


(くそ~っ! やめろ~! お母さんの上からおりろ、バカ野郎!)


 真弓は精一杯の声を出しているつもりだったが、何の力にもなれなかった。

 たった中学2年の清恵が、宮崎努に強姦される恥辱を共に涙を流しながら、耐えるしかなかった。


(ちくしょ~、ダツエバー! 何でわたしにこんな残酷な場面を見せるんだよ! わたしはお母さんを助けることができないのに……! ウッウッウ……)


 清恵の抵抗する力がなくなった。まるでデパートのマネキン人形のように無表情になり、月の出ていない空をジッと見つめている。


 上にのっている宮崎の腰が動くたびに、清恵の体も自分の意に反して動いていた。

 近くの田圃で鳴く蛙たちの大合唱が、まるで地獄のメロディのように聴こえた。


 すべての儀式が終わり、満足そうに惨忍な笑みを浮かべて立ち上がる宮崎。

 その顔を見た瞬間、今やちっぽけな細胞になってしまっている真弓の体に戦慄が走った。


 『闇鬼』!?


 ズボンをはきながら、清恵を見下ろしているその顔には、額から小さな角が生え、薄ら笑いを浮かべている唇からは二本の小さな牙が見えていた。


「さぁ、これで『闇の儀式』は終了だ。早く、カワイイ子を生んでくれよ。俺様の最高の入れ物としてな」

 小さく呟いた『闇鬼』の独り言を、真弓は聞き逃さなかった。

(『闇鬼』……。きさまぁ!)


 こういうことだったのね! 真弓は始めて母・清恵と『闇鬼』との遭遇を知ったのだ。

(お母さんの仇を討たせるために、ダツエバさんはわたしにこんな場面を見せたんだ。そして、助っ人としてラウラをよこしたんだわ)


 真弓は改めて『闇鬼』に対する恨みが膨らんできた。

(お母さん! 絶対に『闇鬼』をやっつけるからね。お母さんの体に乗り移らせるもんですか!)


 清恵は、誰もいない真っ暗闇の畦道を唯一人、ポツリポツリと重い足取りで歩き出した。

 母一人子一人の家庭環境で育っている清恵にとって、家に帰っても誰も「お帰りなさい」を言ってくれる人はいない。


 それもその筈、清恵の母親は鉄工所で、朝早くから夜遅くまで油まみれになって働いているのだ。

 清恵は、汗と泥で汚れたセーラー服を着たまま、シャワーを頭から浴びた。額から頬にかけて流れる冷水が、清恵の止めどない涙をいつまでも洗い流し続けた。


 清恵の体の一部となっている真弓も涙が止まらなかった。

 清恵は今夜の出来事は言わないつもりでいたらしい。母親に心配をかけたくなかったからだ。


 しかし、母親にわからない筈がない。帰宅した母親は、清恵の異常にすぐに気がついた。問い詰められれば、清恵は泣くだけだ。まだ13歳なのだ。


 その晩は母娘二人で夜通し抱き合って泣いた。真弓は、初めて見る祖母の姿にやはり涙していた。


「いつまでも感傷に耽っている場合ではないぞ。今おまえは、清恵の過去を見ているだけじゃ。これらの出来事を変えることはできん。ただ見ているだけじゃ」


 奪衣婆のしわがれた声が頭上から響いてきた。

「ここからは、時間を短縮しての旅になるぞ。気持ちが悪くなるかもしれんが我慢せぇよ」


 奪衣婆の言葉が終わるか終わらないかのうちに、体中が高速回転するようなプレッシャーが真弓を襲った。まるで洗濯機の中に放り込まれたような気分だ。目が回って気持ちが悪い!


 次の瞬間、真弓は太陽のような眩しい光に包まれた。気を失いかけたが、何とか持ちこたえた。

 気がつくと目の前では、大きな光が小さな点へと変わっていくところだった。そして、真弓の瞳に飛び込んできたものは小さな物体だ。


「何、これは?」

「清恵が『闇鬼』の子を宿したのじゃ」

 奪衣婆がポツリと言った。




(闇鬼は毎月1日、4日、8日、12日、16日、20日、24日、28日に更新予定です)

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