第8話 「ラウラの忠告」 ①

 真弓は眠い目を擦りながら、パジャマのままキッチンへ向かった。顔を洗ってもまだ頭がボーッとしている感じだ。洗面所では父親の勝彦が、ジョリジョリとシェーバーの音を響かせている。


 昨日、誰も手をつけなかった五目寿司を真弓は急いで椀に盛った。サラダをテーブルに置いて、冷蔵庫から出した『鯵のカルパッチョ』を嗅いでみる。


「これ、大丈夫かな〜?」

「平気、平気。ラップを掛けて冷蔵庫に入れといたんだろ。大丈夫さ」

勝彦は真っ白なタオルで顔を拭きながらテーブルに着いた。


 父親と2人きりの朝食は1年ぶりかなぁ。1年に1回はこれが恒例行事のようになっているな、と思う。


 勝彦は五目寿司を右手でかき込みながら、左側の空いたテーブルに新聞を広げた。

時折「う〜む」と唸りながら読んでいる。たまに箸の動きが静止する。母の清恵がいたら絶対にやらない光景だ。


「お父さん、ごはんこぼさないでよ。ほら〜、言ってるそばからぁ」

 真弓は結構うるさい。あなたは結婚したら世話焼き女房になるね、といつも清恵に言われている。

永谷園のお吸い物を啜りながらも、目の前の勝彦の食べ方が気になってしょうがない様子だ。


 勝彦の視線が一点に止まった。やけに気むずかしい顔になっている。そんな父の姿を見ていて、何か静かなことに気がついた。

 真琴がいないこともさることながら、テレビが付いていない。何でもいい。音がしていないと寂しかった。


 真弓は手を伸ばして、テレビのリモコンを取り、スイッチを押した。

 丁度朝のニュースをやっている。女性キャスターが神妙な面持ちで画面に映し出されていた。


「……怖いです、本当に。わたしたち女性ばかりを狙う暴行事件が、9日間で5件も起きてしまいました。皆さんもどうか暗がりでの一人歩きには、十分ご注意ください。えー、では次のニュースです。先日行われた……」


「ウーム」勝彦はテレビと新聞を見比べて、また唸った。

「お父さん、どうしたの?早く食べないと、会社に行く時間になっちゃうよ」

食べ終わり椅子を引いて立ち上がろうとした真弓を制するように、勝彦が喋り出した。


「今テレビで言っていたニュースが、新聞に大きく取り上げられている。『連続婦女暴行事件』だ。9日前に青梅市で起きたこの事件だけど、事件発生現場がどんどん南下しているんだ。見てごらん。この順序でいくと今度はこの町になってしまう」


そう言われて勝彦から見せられた『連続婦女暴行事件』の事件発生現場の地図は、① → ② → ③ と事件が起きた順番通りに現場に番号が付いていた。

 勝彦の言う通り、ものの見事に綺麗に南下している。


 この事件はとても残忍なものだ。女性に猿ぐつわを噛ませ縛って弄んだあと、鋭利な刃物で腹を切り刻むのだという。その後、女性の携帯電話から犯人自ら警察に電話を掛け、犯行現場に警官と救急隊員を誘導するのだ。だから襲われた5人の女性はすべて出血死寸前で助かっているのだが。


 警察が現場に到着した時にはすでに犯人はおらず、不審な人物を見たという有力な目撃証言もまだないらしい。防犯カメラにも手掛かりがないようだった。


 この9日間、マスコミは警察の不甲斐なさを連日叩き、この異常な犯人像を多くのコメンテーターが描き出していた。


 最初の犯行があった日など、わざわざ美香がメールで教えてくれたものだった。

 多くの人がそうであるように、真弓も美香も正義感が強く、かといってこのような事件が起きた時に何をして良いのか分からず、いつも憤りを感じている人間だ。


 近頃では、何の罪もない子供を虫けらのように殺す事件が続き、真弓も美香も学校からの帰り道などああでもない、こうでもないと良く話していた。


「こういうことをする人間の心理状態がわからない!」と、あの日も携帯から聞こえる美香の声は怒りに震えていた。

「そもそもさぁ、人を殺すなんて正常な人間がやるわけないんだからさ、犯人の精神鑑定なんてやったって意味ないと思わない?正常な数値が出るわけないじゃん」


「えっ、あれって数値で決めるの?」

「そんなの知らないけどぉ。とにかく、精神鑑定なんてやってる暇があったら、こんな奴ら、2度と社会に出てこられないような法律作って欲しいわよ!真面目に生きてる人間が堪らんわ!」あの日の美香はいつもよりヒートアップしていた。


「この事件だってそうよ!何考えてんの? この犯人! 私たちの家の周り、空き地がまだまだ多いからさ、怖いよ」

 「早く捕まらないかしら」


 真弓はそんなことを言っていた自分を思い出していた。美香が言う通り、真弓たちが住んでいるこの地域は空き地が多い。


 この周辺はすべて同じ不動産屋が一挙に売り出した建て売り住宅だ。一軒一軒違うタイプの家が並んでいるので、救われた気はする。


 でも区画整理されただけの空き地が、建て売りと同じくらい残っていた。

 犯人がもしここに現れたら…なんて考えただけでゾッとしてしまう。


 勝彦から気をつけてくれよ、と言われ「うん」と真弓は頷いた。

 お皿を2人で手分けして片付けると、勝彦は壁時計を見るなり慌てて出かけて行った。


 真弓も急いでTシャツから、白のブラウスに着替える。胸のリボンの色は学年によって違う。真弓たち3年生は深緑だ。

チェックのスカートは、濃いブルー系で、モデルのようにヒラリと真弓は玄関先で回転した。スカートの裾がフワッと広がり、これをいつも真琴が喜んだ。


 戸締りをしっかりと確認して「さぁ、出発! いってきま〜す」と誰もいない家に向かって敬礼する。

小さく微笑みながら、通り過ぎる犬の散歩のおばさんに軽く会釈をして、ちょっぴり肩をすぼめて真弓は足早になった。


 学校へは、近くに住んでいる美香と毎朝一緒に行くことになっている。朝はバス通学と決めていた。少しでも寝坊していたいからだ。


「おっはよ♪」2人でバス停まで歩き出す。バス停は美香の家から、ほんの1分だ。バス停には、すでに10人位の先客がいた。

家がまばらとはいえ、始発がこの街の奥にある団地なので、いつも満員状態だった。バスにはいつも座れない。


 2人はいつもと同じように吊革につかまり、いつもと同じように同じ方向に揺られる。それがおかしくもあり、楽しくもあった。


 あっ、そうだ!と、真弓は夕べの話を始めた。

「昨日、変な夢見ちゃってさ。もう、昼も夜も最低!」そう言いながらも真弓は笑っている。どうせ夢なんだから……、という安心感があった。


「それって座敷わらしじゃないの?」真弓の話をひと通り聞いた美香が呟いた。

「あっ、それ、どこかで聞いたことある。でも、詳しいこと知らないわ」真弓が残念そうな顔をすると、まかせなさい!と胸を張って美香が説明を始めた。


「座敷わらしはね、子供の妖怪で、いろんないたずらをするのよ。例えば、寝ている人の布団の中へもぐってきたり、枕の位置を変えちゃったりとか。寝ている人の胸元へのってきて、おどかすんですって」


「そういえば、それされた!」

「でしょ! でしょ! やっぱり、そうよ。座敷わらし!」美香は勝手に決めつけている。

 「でも、やけに美香、座敷わらしに詳しいじゃない? もしかして、友達?」真弓が吊革にぶら下がるような格好で笑っている。


「だって……。わだすのおっとぅもおっがぁも岩手出身だべさ。だがら、おぼこの頃にばぁちゃからよぉく、この手の話は聞いたんだぁ。つっても、標準語で育っだわだすには、これが岩手弁か何かわがんねぇけどな」


 周りの人がクスクス笑っている。真弓はちょっぴり赤くなりながら、また尋ねた。

「でも、そいつ悪い妖怪なの?」

「ううん、座敷わらしがいる家は、幸せが訪れるんだって。だから、いいことなのよ」


 じゃあ、あいつは違うな、と真弓は思った。だって、マコが死ぬなんて言うんですもん。真弓が夕べの嫌な気分を思い出して、ちょっぴり暗くなったその時だった。


(ヒ〜ッ!)

 真弓を襲ったこのゾクゾクッとした気色悪い感触!誰かにお尻を撫でられた。

(痴漢!)真弓は、キッと後ろを振り返った。


         ……つづく



 (闇鬼は、毎月1日、4日、8日、12日、16日、20日、24日、28日に更新予定です)

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