4

 翌朝の俺の顔がここ最近で一番酷かったことは言うまでもない。

 昨日のことが頭をよぎり続け結局一睡もできず、腫れぼったい目の下にはクマが浮いている。

 あまりの惨状についに普段は何も言わない両親にすらどうしたのか聞かれたが成績のことでといえば納得したようであんまり塾が辛かったらやめてもいいと言ってもらえた。


 できるなら学校を休みたかったが休んでも結局ベッドの中で悶々とするだけなのだ。

 俺は普段通り登校することにして支度を整えた。


 登校する道すがらぼんやりと考える。


 あまりにも気を遣って言われたからついカッとなっ冷静に考えればあれは先生の回答として正解なんだと思う。

 結局、俺は失恋したんだよな。


 ローファーのつま先に目を落とす。

 俺の恋は終わった。

 先生にあんなことを言ってしまったがとてもじゃないけど先生の姿すら今はまともに見れないだろう。

 幸い先生は養護教諭だから保健室以外ではあまり顔を合わすことはない。


 もう恋は終わったのだ。

 いい加減気持ちを切り替えなければならない。

 そのためには彼を頭の中から追い出さなければ。


 正門の前まで来て俺は校舎を見上げた。




 それからの俺は学校行事や勉強に周りが若干引くほど力を入れた。

 その甲斐あって成績は復活したし、なんだかとっても青春というものを謳歌した気がする。

 気付けば卒業もひしひしと近づいてきていた。



 だから、もう先生に会っても大丈夫だと確かめたくなってしまった。


 未練たらしい言い訳だと思いながら俺は久しぶりに保健室へと足を向けた。


 しかし保健室に明かりはついておらず、扉には退出中のプレートが下がっている。

 そのプレートには付箋が貼り付けられていた。


 何かあれば備品倉庫まで。



 備品倉庫のドアは開いており、中を覗けば相変わらず独特のダンボールの匂いが漂っている。

 そこに先生はいた。

 いつか見た背中を目にして思わず足を止める。

 もう、大丈夫な、はずだ。


「先生」


 できるだけさりげない声で声をかければ先生が振り向いてこちらを見た。

 なんの感情も感じさせないようないつものどこか怠そうな目が眼鏡の奥にある。


「おう、久しぶり。どうした?」


 まるで何もなかったような素振りの声に安心と少しのもやつきを感じながら俺も同じように何もなかったような素振りで口を開いた。


「手伝おうか、それ」


 ダンボールの山の上に置かれたチェックシートを指さして言うと先生は「おう、助かる」と言って中へ招き入れた。


 いつかと同じように俺は先生の手伝いをし、チェックシートを確認してゆく。

 今回は不備なしだった。


「ありがとな、お礼にコーヒーでも淹れるから飲んでけ」


 作業が終わると先生は俺を保健室に誘った。

 ソファを見たとき、ふいにあの罵詈雑言を浴びせた記憶が蘇り冷や汗が流れたが俺は努めて平静を装った。 


 コーヒーを俺の前に置いた先生は向かいのソファでなくソファの隣のデスクのイスに腰掛けた。

 そして自身のマグカップに口をつけるとほうっと息を吐いて話しかけてきた。


「最近どうだ」


「どう、って…まぁいいんじゃないすかぬ」


「そか」


 なんだか久しぶりに会った父と子の会話みたいだなと思いつつ聞いていると先生はぼそっと妙なことを言い出した。


「お前たちの世代ってさ、マッチングアプリとかで出会うのって普通にある?」


「は?」


 余りに脈絡がなくて心の底から「は?」となった。


「まぁ、あるんじゃない?知り合いにもそれで彼女見つけた奴とかいるし…あ、別の学校の奴ね」


「そか」


 そう言って先生はまたマグカップに口をつける。

 何だ、一体。


「…なに、最近の若者についての調査的な?」


「…だな」


「ふーん」


 沈黙が流れる。

 時計の針のカチカチという音がまた嫌な気分にさせる。



「三井はそういうの使いたいと思わないのか」


 マグカップを持つ手が強ばる。


「俺は今のところは…だいたい俺は彼女とか欲しくないし…俺と同じようなやつなんてそうそう」


 そこまで言ってはたと舌が凍りつく。

 マッチングアプリを使う気はないのか。

 先生は俺の性的指向を知っている。


「…なに、俺がマッチングアプリ使って男漁るとでも思った?」


 俺のコーヒーの水面が揺れる。


「気をつけろって話だよ」


「余計なお世話なんだよ!」


 これはさすがに俺は怒っていいと思う。

 声を荒らげたが先生には何も響いてないのかコーヒーを涼しい顔で啜っている。

 確かにそういう専門のマッチングアプリを使えば出会いのハードルは低くなる。

 アプリによる出会いが恒常的にある世の中で、しかもその手のことに興味津々であろう自分たちの年齢だからこそ注意をしておいたほうがいいと思ったのかもしれないがよりによって俺に言ったのは失敗だ。


「そんな、誰でもいいわけ…」


 もう怒りを通り越して泣きたくなってきた。

 声が段々と小さくなる。


「…悪い」


 今気付くのか、遅いよ先生。

 ちくしょう


 俺はスマホを取り出して操作し始めた。


「何やってんだ」


 先生が眉を顰める。

 うるさい


「その手があったなって思ったんだよ」


 わざわざ目の前でマッチングアプリに登録してやるなんて俺はなんて病み系なんだ。


「やめろ」


「うるさい」


「やめろっての」


 先生の手が俺のスマホにのびてくる。

 取り上げでもする気か。


 俺はソファから立ち上がり先生と距離をとる。

 会員登録画面に情報を打ち込んでいく。

 すると先生もそれを追うようにイスから立ち上がり距離を詰めてきた。


「三井、落ち着け」


「うるさいってんだよ」


「三井!」


 背中に衝撃が走ったかと思えば先生に壁に抑え込まれていた。

 スマホを握る手を押さえつけられ俺はすぐ近くにある先生を睨みつけた。


「何だよ、俺が誰と付き合おうと先生には関係ないだろ!離せよ」


 しかし先生はその力を緩めることはなく、ただただ険しい顔で俺を見つめていた。


「ほんと…何…何なんだよ…」


 暗にそれで恋人見つけて落ち着けとでも言いたかったんじゃないのか。

 なのにどうしてそんな目で見てくるのか。


「三井、今のは俺の言い方が悪かった。お前に軽率な行動をとらせたくなくて」


「俺そんな信用ないのかよ。誰とでもなんて…俺は…」


 駄目だ。涙が零れそう。


「…俺だって」


 先生がぽそりと呟いた。


「お前が…よくわからん奴と付き合うのは嫌だ…」


「は…」


 顔を上げると相変わらず近い位置に先生の顔がある。

 ただ険しい表情を浮かべながらもその目には熱が揺らいでいるように見えた。


「教師と、して?」


「…それもある。だけどそれ以上に…」


 す、と先生の目が細められる。

 そこにはいつもは感じられない強烈な色香を感じて俺は思わず息を飲む。


 先生の顔が近づいてくる。

 その薄い唇が間近に迫ってきて、正直キスされると思った。


 しかし直前で先生は顔をそらしてかわりに俺の耳にそっと囁いてきたのだった。


「…今は言えない」


 毒の蜜を注ぎ込むような吐息が耳にかかり俺の体に痺れが走る。


「卒業式のあとここに来たら今の続きを言う」


 そう言って俺から離れた先生は先程までが嘘のように平然とした表情をしていた。

 俺はといえばスマホを握りしめたまま、かろうじて落とさなかったにしろ解放された腕をでろんと垂らして力なく壁に寄りかかっていた。

 そんな俺を背にして先生はデスクの上を片付け始めた。


「さてそろそろ帰るか」


 帰るか、じゃねーよ。

 俺はスマホを握っているのとは反対の手で未だ熱い耳に触れながらすごすごと保健室を後にした。



 帰宅して自室に入った瞬間にそのままずるずると扉を背にして床に座り込んでしまった俺が腕に顔を埋めながら先ほどを思い出してまるで蜂が飛び交うような脳内を鎮めるのに苦労したことは言うまでもない。











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