第6話
八月六日。その年の夏はロンドンオリンピックで盛り上がっていた。前の日に、ウサイン・ボルトが百メートルでとんでもない記録を出したとかで、朝のニュースはそればっかりだった。
「昨日のボルトすごかったな」
二階から下りてくるなり、そう言うお兄ちゃんを睨む。寝癖頭。部屋着のTシャツはヨレヨレだし。その中に手を突っ込んでお腹をかくのやめて欲しい。
「見てないから知らない」
「いや、お前、あの世紀の瞬間を見てないとかヤバいだろ。どうすんの、学校始まったら。ボルトすげーって話で持ち切りだよ、絶対」
「そのときは適当に話を合わせるからいいよ、別に」
「……なんだよ、朝から感じ悪いな。さすが反抗期」
俺にもあったわー、そんな時代。と笑うお兄ちゃんについムッとなってしまうから、余計にからかわれることは分かっている。それでも不機嫌を止められないのは、私が反抗期だからなんだろうか。今日は、それだけが理由ではないことは確かなのだけれど。
「お兄ちゃん、他に言うことないの?」
「なに? お前に?」
「うん」
お兄ちゃんは、唸りながら腕を組んで天井を見上げる。それから、「あ、」と声を上げて私を見た。
「昨日、冷蔵庫に入ってたゼリー食ったわ。あれ、お前の?」
「うわ、泥棒! 本当に刑事?」
「食われたくねーなら、名前書いとけって」
「食べる前に確認すればいいでしょ」
「夜中だったから、お前寝てたの」
起こしたら怒るじゃん。じゃあ、食べなきゃいいじゃん。と口喧嘩は止まらない。キッチンの奥でお母さんが「いい加減にしなさいよ」と声を上げたから、仕方なく口を噤んだ。イッと歯を見せれば、同じように返される。九歳も年が上の、アラサーの男がする態度だとは思えないんですけど。
「まぁ、いいや。私、出かけるから」
「雨降ってんぞ。送ろうか?」
「大丈夫ですー。傘さして歩いて行くから」
「ああ、あの花の人のとこ?」
「あ、それじゃあ、このお菓子持って行って」
よろしくお伝えしてね、とお母さんがカウンター越しに紙袋を渡してくれる。有名な洋菓子店のそれに、お兄ちゃんが「うまそう」と言った。
「お兄ちゃん、そんなに甘いもの好きだった?」
「刑事は頭も体も使うから」
疲れてんのかな、と冷蔵庫を物色しだしたお兄ちゃんのお尻を叩く。やめろよって振り向いた顔がなぜか笑顔だったから「気持ち悪っ」と返したけれど、その笑顔はいつも通り元気そうでどこか安心した。
「じゃあ、行ってきます」
「気を付けてね」
「あ、待て待て」
お兄ちゃんに呼び止められて振り返る。
「バッグ、こっちのほうが良いと思うぞ、俺は」
いつものほうが良い、とお兄ちゃんは私の手からバッグを奪うと中身を勝手に入れ替えて、いつも使っている黒のショルダーバッグを私に手渡した。
「ちょっと、勝手に決めないでよ」
「こういうセンスは俺の方が良いんだから、安心しなさい」
「安心できない」
「良いから。な、今日はこっち。良いことあるって」
じゃあ、気を付けて行って来いよ、とお兄ちゃんは強引に私の背中を押す。やけにご機嫌でちょっと気味が悪かったけれど、もう少し後で私はこの理由を知る。そして、私の苛立ちや寂しさもあっという間に吹き飛んでいくのだ。
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