第4話

 あの空き家には、遺体の人物含めて誰の指紋も残されていなかった。

聞き込みに行っていた同僚の糸部の話では、管理人は、あの家の鍵は自分が保管している一本以外は知らないと言ったそうだ。五年前に管理人が変わっていて、先代は死去。それまでの資料は何も引き継がれず、十年前に誰が居住していたのかも分からないらしい。


 「その管理人のアリバイは?」

「三日前から今日の昼まで妻と一緒に温泉旅行に行っていたそうです。宿にも確認してアリバイ取れています。死亡推定時刻は出ていませんが……まぁ、三日より前の遺体とは思えないので、管理人は犯人じゃないと思いますよ」

「鍵はちゃんと管理人のところにあるのか?」

「はい。さっき一緒に事務所の保管庫を確認しましたが、ちゃんとありました。一応事務所の防カメも見てきましたけど、侵入された形跡もなさそうです」


 沢田さんは腕を組み、小さく唸った後に、糸部に「ありがとう」と返した。それから俺と山内へ視線を移す。


 「そっちは?」

「はい。防カメの範囲を広げて探してきました」


山内がハキハキとした声で受け答える。開いた手帳の表紙があまりにもファンシーで、一瞬全員の視線がそちらへ向いた。今朝使っていたものも、こんな可愛らしいものだっただろうか。


「南側の商業施設がある、」

「山内、ちょっと待て。その手帳、どうにかならないのか」


眉間に深く皺を刻んだ沢田さんが、山内の言葉を遮って止めた。山内は、「何がですか?」と言いながら、自分のメモ帳へと視線を落とす。それから、「あ!」と声を上げて、慌てて表紙が見えないように手帳を半分に折り込んだ。


「すみません。カバー付け変えるのを忘れてました」


続けていいですか、と言う山内の耳は赤い。こういう部分は気まずいと思うのか、と今度はそっちのほうへ興味が引かれた。このメモ帳が特別今だけこうなっていることに納得いったようで、沢田さんは山内へ話を続けるよう促す。山内は一度咳払いをした。


 「商業施設がチラホラあるところまで広げたところ、とある店から五日の二十時頃に、空き家のある方向へ出たことが分かりました」


「店の防カメに映っていたのか?」

「いいえ。二車線の道路を挟んだ、向かいのコンビニにある防カメに映っていました」


 山内に代わって俺が答える。ホワイトボードに貼られた地図に赤のマジックペンで丸印を付けた。

「男が出てきたのは『bloom in profusionブルーム イン プロフュージョン』という、フラワーショップです」


沢田さんは店の名前を繰り返す。それから右の親指の爪を噛み、考え込むように黙り込んだ。


「沢田さん? 何か気になることありましたか?」

「いや、何でもない。梓と山内は、その店の聞き込みに行ってくれ」

「はい!」


すぐに行きましょう、と促す山内に頷く。山内の張り切る背中を追いながら、様子が気になる沢田さんを振り返れば、腕を組んだまま貼られた地図を眺めていた。何でもないって言っていたけれど、絶対何かあるだろうと思いながら、俺たちは捜査本部を出る。



 自動ドアが開く。程よく冷やされた空気と共に店内からは花の甘い香りが漂ってきた。先に一歩足を踏み入れた山内が、店内を興味深そうに見回している。


「すごいですね。お花屋さんっていうよりは、展覧会の会場みたい」


山内の言う通りだ。一般的な花屋とは雰囲気が全く違う。小洒落た照明。花はアートのように飾られ、花の美しさと強さが全面に押し出されている。


「いらっしゃいませ」


高すぎることも低すぎることもない落ち着いた女性の声。上品さを感じるその声に振り返れば、フォーマルな紺地のワンピースを着た女性がこちらに頭を下げた。艶やかに長い黒髪が、彼女の肩を滑る。赤い唇をキュッと結び、引きあがった口角は計算されたように美しい。年齢は三十代後半といったところだろうか。女優のように綺麗に着飾っているその姿は、囲む花々に負けないくらいの雰囲気を醸し出していて、彼女がここのオーナーであることを一瞬で俺たちに理解させた。


 「私たち、こういう者ですが。オーナー様はどちらに」


 山内がずいっと警察手帳を彼女に見せつける。いつもよりシャンと伸びた背筋に、女の意地を感じた。それから俺へと視線をじろりと動かして、「飯島さんも、見惚れていないで早く」と急かした。見惚れてなどいない、と言い返そうとして、こんな醜態を晒すべきではないと思い直し、胸ポケットから手帳を取り出し開く。彼女は交互にそれを見ると、落ち着いた様子は崩さないまま、「奥へどうぞ」と右手を伸ばした

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