第3話
まだ幼稚園生だった頃、母方の祖母が亡くなった。ちょうど、祖母が亡くなった時刻に「おばあちゃんが来た!」と自宅でテレビを見ていた俺が言って驚いたという話が、随分長い間、家族の間で話題になった。当時、孫は俺しかいなかったから、祖母はとても俺を可愛がってくれていた。だから「最後に梓に会いに来てくれたんだね」と母がよく言っていたのを覚えている。でも、当時の記憶は今の俺にはとても曖昧なもので、祖母がいつもの優しい笑顔で笑いかけてくれていたような気がするけれど、それがその時の記憶かどうかは分からない。
それっきり、幽霊や不可思議な体験とは縁のないまま俺は大人になったし、霊感なんてものはないと思う。祖母のこの話だって、もう長いこと忘れていたし。でも、急に思い出してしまったのは、窓の近くに立つ、少女の姿を見たからだろう。
男の手から抜き取ったシルバーチェーンの先で、小さなガラス玉が揺れている。その中には薄桃色の桜の花びらが一片閉じ込められていて、ハートマークが浮かんでいるようだった。そのガラス玉に、窓から入り込んだ陽の光が反射する。それが壁に当たってキラキラする様子を目で追った時だ。壁に背を預けるその姿を見つけて、体が固まった。
セーラー服の黒い襟よりも濃い黒髪が、絹のように柔らかにその肩を流れている、胸まで伸びたその髪は、白い生地によく生えていた。黒いスカートに反射した光の粒が散らばっている。綺麗な肌のことを陶器のようだと言うけれど、少女のその真っ白な肌はまさしくそれを表していた。
勝手に事件現場に入り込んだのか。それとも、最初からここにいた事件関係者か。そんな考えは全く浮かんでこなかった。確かに彼女の姿は、俺たちと何ら変わりない人間に見える。けれども、直感で、今、視えるべき人間ではないと理解してしまう。それほどまでに、その子が纏う雰囲気は異質なものだった。
同僚や鑑識たちは、少女の存在などないように忙しなく動いているし、少女もまた興味がないような顔でそれらを見ている。横顔からでも分かる丸く大きな瞳がゆっくりと瞬きをして、ふとその視線が動いた。
「飯島先輩、防カメ探しに行きますよ」
「あ、ああ。その前に、これ。鑑識に渡しといて」
「随分可愛らしいネックレスですね」
女性ものかな、と山内が俺の手からネックレスを受け取る。山内に話しかけられ、金縛りが解けたように、ホッと息を一つ吐き出した。
目が合いそうだった。脈打つ心臓を誤魔化すように踵を回す。目が離せなくなりそうだったことに少しだけ焦った。
それは、恐怖からではなく、そこにいた少女の儚げで素朴な美しさに魅了されてしまいそうだったからだ。
近隣の住宅には防犯カメラはなく、時間帯も悪かったことから目ぼしい有益な情報は出てこなかった。早期解決は難しいだろう。泊まり込みが続くことも予想され、数日分の着替えを見繕いに一度自宅へ戻る。アパートの錆びた外階段を上りながら、キーケースを開く。二階へ到着すると、そのまま一番奥へと通路を進んだ。少し回りにくくなっている玄関の鍵を開け、中へと入る。黒の革靴を脱ぐために、靴紐へ指を掛けた。
「おかえりなさい」
凛とした、涼やかな声が耳を触る。あまりの自然さに「ただいま」と返しそうになり、そのおかしさに気付く。一人で暮らしている部屋に、あるはずのない声。勢いよく顔を上げた俺は、うわ、と情けない声を出して後ろにひっくり返った。
玄関から直線でリビングへと続く廊下。その真ん中に、あの少女がニコニコと笑って立っている。
「な、んで、ここにいる?」
そう問いかけるだけで精一杯だった。少女はさらさらと髪を揺らして首を傾ける。
「あなたの後をついてきただけ」
後に続いて玄関も入ったのに、あなたが全然気が付かないから、と何でもないことを言うように少女は言う。それから、丸くて大きな目を弓なりに細めて笑った。
「やっぱり私のこと視えてたのね、あのときから」
立てる? と未だに尻をついたままの俺に彼女は手を差し伸べる。情けないながら、腰を抜かしてしまっていた俺はその手を掴もうとして空を切った。その様子を見て、少女はまじまじと自分の掌を見つめる。顔の前でひらひらさせたり、透かしてみるように天井に向けて、「すり抜けちゃった」と言った。
「幽霊なのか、やっぱり」
「幽霊かどうかは、分からないけれど」
でも、すり抜けるってことはそうなのかな、と少女もまた不思議そうにしている。ようやく力が入るようになった手足を踏ん張って立ち上がる。スラックスについた砂埃を払って、靴を脱いで部屋の中へと上がる。すり抜けられるのかは気になったが、少女を避けるように脇を通り抜けて、リビングへと入った。少女はその後を音もなくついてくる。
「なんで、俺についてくるんだよ」
「だって、私のことが視えてたみたいだから」
ボストンバッグをクローゼットから引っ張り出して、その中に下着やらワイシャツを詰め込んでいく。
「だからって、なんで?」
「私のこと、探して欲しいの」
脈絡なく言われた言葉に振り返る。少女はジッと俺のことを見ている。蛍光灯の灯の下にいるのに、彼女の足元には影が一つもないことに気付く。なんだか普通に会話してしまっているけれど、お祓いか何かに行ったほうが良いのだろうか。
「私を探してって、どういう意味?」
「だから、私の死体。探して欲しいの」
たぶん死んじゃってるから、と少女は真面目な顔で言う。
「自分が生きてるか、死んでるか、分かってないの?」
「記憶がないの。覚えてるところもあるんだけど、肝心なところは忘れちゃってて。気付いたら、あの家にいた」
私もさっき、たぶん自分は幽霊なんだろうなって気付いて、と困ったように下がる眉。状況が飲み込めず、痛むこめかみに指を当てる。
「飯島さん、刑事なんでしょ?」
「刑事だけど……って、名前なんで知って、」
「そう呼ばれているの、聞いてたから」
そんなことは良いから、と少女はわがままを言う子どものように体を揺らす。
「刑事の力を使って、私の死体を探してよ」
「その、死体死体って言うの、やめてもらっていい?」
いつ死んだのか、どこで死んだのかも分からない奴をどう探せっていうの、と返せば、彼女は拗ねたように唇を尖らせた。
「生きてるかも死んでるかも分からないのに、探しようがないだろう」
そろそろ、なんだかこの存在を受け入れて話をしている自分が嫌になってくる。
「あの男。今日死体で見つかった奴。あいつとは面識あったりするの?」
「全然。あの家のことだって知らないし。だから、なんで私もあの場所にいたのか分からなくて」
「あいつに殺されて、恨みがあって化けて出たとか」
「もしかしたら、そうかもしれない」
覚えてないから分からないけど。と、少女は悩むように腕を組む。
「私が呪い殺したとか」
「オカルトは管轄外」
詰め込んだ荷物をジッパーを閉めて飛び出てこないようにする。それを持ち上げれば、少女は「どこに行くの?」と首を傾げた。
「署に戻る。捜査があるから」
「私のことも何か分かったら教えてくれる?」
私も何か思い出したらあなたに言うから、と少女が続けるから溜息が出た。何も分からないと思うけど、と呆れ気味に返せば、少女はそこに希望を見出したのかコクコクと頷いている。
「名前は? それくらい分からないと」
それならちゃんと覚えている、と少女はパッと表情を明るくした。
「サクラ! 私の名前。ごめん、覚えてるって言ったけど、サクラとしか教えられない」
自信満々に喋り出したくせに、最終的に眉を下げるその顔は可愛らしい。最初に受けた、どこか無機質な美しさよりも、人間らしさを感じる。セーラー服がよく似合う、学生らしい溌溂さが眩しかった。
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