第2話

 八月六日。高校三年生の夏休み。その日は朝から、少しだけ機嫌が悪かった。


 テレビも家族も、朝からロンドンオリンピックの話題一色だった。前日、陸上の男子百メートル走でとんでもない記録を出した選手がいたとか何とかで。確かにそれはすごいと思うし、私だって話を聞いて興奮した。でも、ちょっとだけ、注目を集めるその人に嫉妬もした。何も歴史に残るような記録を昨日出さなくてもいいじゃないか。よく知りもしない外国人選手の顔を思い浮かべながら、水滴のついていた淡いピンク色の傘を閉じて、怒りをぶつけるようにぐるぐると振った。


 自動ドアが開く。冷房の風が、甘やかな花の香りを乗せて、私の湿った腕を撫でていった。濡れた服も冷やされて少し肌寒い。


 「おはよう、サクラちゃん」

 慌ただしく動いていた男性が、私を見つけてその目を細めた。サラサラとした黒髪がとても綺麗な人に、その笑顔はとてもよく似合っている。


「おはようございます。手伝います」

「悪いね、来てもらって早々」

「いえ。大事な展覧会ですから」


準備を手伝えて嬉しいですと答えれば、彼――大鳥紫苑くんは、「それは良かった」と柔らかく表情を緩めた。その安堵したような、少しだけ気の抜けた顔が、私は好きだった。


 「これ、そっちの受付カウンターに置いてくれる?」

「はい」


受け取った、三輪の花で作られたブーケがたくさん入った麻のカゴを入り口横にあるカウンターに置く。


 「雨の中、大変だったでしょ」

「家、近いので。全然、これくらい大丈夫です」

「いや、でも、頑張って来てくれたお礼に。ゲストブック、一番に名前書いていいよ」

「え、良いんですか?」

「もちろん。サクラちゃんは、仲間でもあるし、大事なお客様でもあるからね」


どうぞ、と差し出されたゲストブックには、ピンクゴールドの桜の花の飾り枠が装飾されている。まだ誰の名前も記されていないまっさらなそれに、悪かった私の機嫌はすっかりと直っていた。


 「それに今日、誕生日でしょ。まぁ、これがプレゼントになるかは微妙だけど」

「えー、覚えててくれたんですか?」


さすが紫苑くんですね、と言えば、彼は照れくさそうにしたまま、私のペンを走らせる手元から目線を上げない。


「紫苑くんだけですよ、今日私の誕生日覚えててくれたの」

「そうなの?」

「そうですよ。家族なんて、起きてきてからオリンピックの話しかしてなくて」


忘れてるんですよ、私の誕生日。と返せば、顔を上げた紫苑くんと目が合う。


「それで朝から機嫌が悪かったんだね」

「顔に出てました?」

「すっごく出てた」


唇がずっと尖ってた、と唇をわざと尖らせる紫苑くんの顔がおかしくて、私たちは笑い合った。笑いすぎて、頬が痛くなるくらいに。


 一頻り笑ったあと、紫苑くんが私の肩を指差す。荷物をずっと持っていたら邪魔だろうからスタッフルームに置いてきてくれると言う。それじゃあ、と肩からショルダーバッグを下ろし、カウンター越しの紫苑くんへ渡そうとしたときだ。受け渡しに失敗して、バッグが床に落ちていく。口の開いていたバッグからは中身が飛び出して、慌ててしゃがみ込んだ。


「うわ、ごめんね。大丈夫?」

「全然! こちらこそすみません」


キャラクターもののスケジュール帳。まだ折り畳み式の私の携帯。長さの調節できるイヤホン。見慣れた私物の中に、一つだけ見慣れないものがある。薄茶色のラッピング用紙に包まれた細長い何か。赤いリボンがゴールドの丸いシールで留められている。なにこれ、と拾い上げて、まじまじと見て気付く。ああ、と自分の口元が綻んでいくのを、止めたくても止められない。私、忘れられてなかったんだ。そう、紫苑くんに言おうとした私の肩にふわりとした柔らかなタオルが被せられた。


 「準備を手伝ってくれるのは有難いけれど、まずはしっかり自分のケアもしてね」


振り向き顔を上げれば、優しく微笑む女性がいる。白い肌に切れ長の瞳。グレーのアイシャドウと赤い口紅はとても強いのに、よく似合っている。紫苑くんが「玲子さん」と彼女の名前を口にした。


「ほら、寒かったんじゃない? 肌の色が少し悪くなってる。裏で温かいものでも淹れてあげて、大鳥くん」

「あ、はい。分かりました」

「あの、私、大丈夫ですよ。準備も忙しいですから」

「大丈夫よ。もう、昨日のうちに準備もほとんど済んでしまっているし。いつもありがとう」


玲子さんが私の体を支えるようにして立ち上がらせてくれる。ね、と微笑むその顔はとても優しい。だからこそ、拒否権がないように感じてしまうのは私だけだろうか。


 玲子さんから視線を外すようにそっと工房の中を見渡す。いつもはフラワーショップとしての色が強いそこは姿を変え、数えきれないくらい、綺麗に造形された花たちに彩られていて圧倒される。まるで異世界に迷い込んだような感覚。強い色彩のそれらからは『生』を感じる。私は、そんな玲子さんの作品が大好きだった。


 半年前に偶然この前を通り掛かった私は、吸い込まれるようにして玲子さんに出会った。元々花が好きだったこともあって、それから毎日のように通い、夏休みを機に玲子さんの手伝いをするようになった。そんな中で、芸術大学に通う紫苑くんにも出会った。


 今日は、フラワーアーティストとして玲子さんが初めて展覧会をひらく。玲子さんだけでなく彼女が雇うスタッフたち全員、とても力が入っている。玲子さんのこれまでの人生の集大成。きっと、そう言っても過言じゃない。その瞬間に立ち会えることが、誰かが百メートルで世紀の大記録を出すことと同じくらい……もしかしたら、それ以上に嬉しいことだった。


 そう、感じたところまでは覚えている。八月六日。私の誕生日。

 私の、最後の記憶。

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