花の色は うつりにけりな いたづらに
月野志麻
第1話
赤いパトランプを後目に、規制線を潜る。早朝の住宅街は、日頃の上品さを崩し、野次馬で賑わっていた。
「暇人の集まり。セレブも庶民も関係ないですね」
軽く後ろを振り返った山内梅子は、寝癖のついた髪を隠すように黒いゴムで髪を後ろで一つに括りながら言う。その声は呆れを含んでいるようだった。
「物々しい雰囲気があったら見に行きたくもなるだろ」
「飯島先輩は、家の近くで事件があったら見に行きます?」
「ん。うーん、どうかな」
「行くタイプなんですね」
強く否定はできないけれど、決めつけられるのも癪に障る。冷ややかな目で見る山内に「気にはなるから」と答えた自分の声はあまりにも情けなくて、口元が引き攣った。
先に現場に到着していた地域課の警官に家の中へと促され、玄関を上がってすぐの右の部屋へと通される。おそらくリビングとして使われることを想定された作りのその部屋は、家具も何もなく伽藍としていた。既に鑑識が忙しなく動いているその真ん中に、男がうつ伏せで血だまりの中倒れている。遺体に近付きしゃがみ、手を合わせれば、山内も続いて手を合わせた。
「そういえば、さわらんさんの噂って本当なんですか?」
「え、なに? 触らん?」
脈絡なく吐かれた山内の言葉に、遺体に触れてはいけないのかと白手袋をはめた手を引っ込めた。
「沢田さんのことですよ。沢田蘭、略して、さわらん」
「ああ……なるほど。なるほど、じゃねぇわ。くそダサいだろ、それ」
なにそのあだ名、と思わず呆れて笑ってしまう。
「覚えやすくないですか?」
「沢田の『だ』がないだけだろ。覚えやすいとか、覚えにくいとかじゃなくて、俺ならそんなあだ名付けられたくないね」
「えー、そうですかね」
「絶対そのあだ名で沢田さんのこと呼ぶなよ」
はぁい、と山内は不満そうに唇を尖らせる。よく先輩をそんなあだ名で呼べるな、とその神経の図太さには関心してしまう。
「沢田さんも飯島先輩も、可愛らしい名前ですよね。蘭と梓」
「男らしくないって?」
「別にそこまで言ってませんよ」
反省の欠片も見えないその話題に山内を睨む。そういえば、初任務のとき初めて見る遺体にも動揺していなかったっけ。山内はきっとそういう奴なのだと、妙に納得してしまった。
「それで、何だっけ。沢田さんの噂? どんな?」
「妹さん? が、いなくなったとか。それで、裏でこそこそ私的捜査してるっていう」
開かれたガラス戸を挟んだ隣の部屋で機捜と話をしている沢田さんを山内が振り返るから、俺も同じように視線を向ける。シャツの袖を捲り、緩く結ばれたネクタイの先を胸ポケットに入れている沢田さんはいつもと変わらない。沢田さんが視線に気付いてこちらを振り向く前に、山内の肩を叩いて前を向くように促した。
「それ、誰から聞いた?」
「同期の生活安全課の子です。飯島先輩、沢田さんと仲良いから何か知ってるのかなって」
「別に友達とかってわけじゃないから、そういうプライベートな部分までは知らないけど」
「刑事になった理由も、妹さんが関係してるって」
「俺は何にも知らないから、何とも言えない」
俺が刑事になった六年前にもそういう噂は聞いたことがあった。妹が行方不明になっていて、でも事件性がないから本格的な捜索はされていない。だから、沢田さんが個人的に調べて探している。でも、そんな話を本人から直接聞いたわけではないし、真実かどうかも分からない。家族構成すら知らないから、そもそもそんな妹がいるかどうかも定かではない。
「もし、本当に私的捜査してるって分かったら、お前どうすんの」
告発するの、と山内を見る。山内は「まさか」と即答で笑い声を上げた。
「だって、もし自分の家族が行方不明になったら、私だって使えるものは使って探し出しますよ」
飯島先輩だってそうでしょ、と言われ、拍子抜けしてしまう。よほど間の抜けた顔をしていたのか、山内は「違いました?」と首を傾げた。
「いや、違わないけど」
「私たち二人にバレても沢田さんは大丈夫ですね」
「そう思うなら、むやみに誰かに聞くなよ。そんなこと」
「だから飯島先輩に聞いたんじゃないですか」
そういう噂にも左右されないし、色眼鏡で見ないですよね。と山内が言う。一応、褒められているのだろう。返事をしにくいな、と溜息が出た。
「っていうか、お前がやってることも外の野次馬と変わらないからな」
「あ、本当だ。ブーメランですね。人間、興味心には勝てないってことか」
「沢田さんの前でその噂の話、絶対するなよ」
「しませんよ」
あくまで私は噂話に興味があっただけ、と彼女が俺に答えた直後。背後から投げかけられた「おい、」という沢田さんの声に心臓が跳ね上がった。
「沢田さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
ひっくり返りそうな俺に比べて山内の態度はいつもと変わらない。スンと澄まされたその横顔にまた自分の口角が引き攣った。
「何を絶対するなって?」
「え? あ、あー……食べ物の好き嫌い、ですかね」
「はぁ?」
無駄口叩いてないで仕事しろよ、と沢田さんが眉間に皴を寄せる。嘘下手すぎでしょ、と山内がこそっと俺の脇腹を肘で小突いた。地味に痛く、うっと小さな声が漏れ出る。沢田さんが「今回の件、情報共有」と先ほどよりも低い声で言うから、俺たちは立ち上がって背筋を伸ばした。
「男の身元が分かるようなものは何もなかった。背中を刺されているが、その凶器となったものもまだ見つかってない」
「家の中に何もないんですけど、空き家だったんですか?」
ジャケットの裏の内ポケットから出した黒の手帳を開きながら問いかければ、沢田さんは「そうだ」と頷く。
「十年前から空き家だったらしい。隣の住人が今朝、散歩に出るときにこの家の門が開いていることを不審に思って庭から窓越しに部屋を覗いたところ男が倒れているのを見つけて通報している」
「玄関の鍵は?」
「掛かっていた。裏の勝手口、二階の窓も含めて鍵が開いていたり、ガラスが割られていたところもない」
「犯人は、この家の鍵を持っているってことですか?」
山内がメモを取る手を止めて顔を上げる。
「今、他の奴が管理人に話を聞きにいってるところだ」
「死後そんなに時間は経ってなさそうですね」
連日猛暑だけれど、傷んでないので。と、山内が男の遺体に目をやる。確かにこの数日、朝も昼も夜も関係なく暑かった。冷房もついていないこの部屋なら、遺体が傷むのも早いだろう。
「ああ。だから、梓、山内は近隣の家にある防カメの映像漁ってこい。昨日の朝からの映像でいい」
「分かりました」
頬を流れる汗をスーツの袖で拭う。手帳を仕舞いながら山内が「うちもクールビズにしましょうよ」と文句を言っている。
ふと視線を下ろしたとき、倒れている男の手が不自然に握られていることに気付いた。しゃがみ込み覗き見れば、握られた指の隙間から細長いシルバーの何かが見える。
「チェーン……? 鑑識、気付かなかったのか」
男の、握りこまれ、そのまま固まっている手に手を伸ばした。
閑静な住宅街で、一人の男性の遺体が見つかった。八月六日のことだ。
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