活字少女とラノベ少年⑤
無意味に繰り返してしまうのは、やめようにもやめられない。そうして、どれくらいの時間が経っただろうか。真っ暗な中を見つめていても、眠気はやってこない。もう眠るのは諦めてもよかったが、大路さんがどうなっているのかは気になった。
そういったものが、不意を引き込むのかもしれない。
「……蒼くん?」
小さな。本当に小さな声が部屋に落ちる。びくんと身体が震えた。恐らく、大路さんも僕に声が届くかどうかは賭けだったのだろう。実際に眠っていたら、僕は気がつけなかったはずだ。
「どうした?」
「……ごめん。起こした?」
「ううん。大路さんこそ、眠れないの?」
その理由はどこか。それを考えると、自分のせいという可能性もあって、心臓が縮み上がりそうになる。
「蒼くん、大丈夫だったかなと思って」
「僕は平気だよ。大路さんこそ、大丈夫? 落ち着かないんじゃない?」
「……思い出すと、ざわざわするけど、自分のせいだからしょうがないと思う」
「それこそ、本はしょうがないだろう」
かなりの量が落下してきていた。大路さんの蔵書が相当なのは分かっている。だが、一階で待ち受けてぶちまけた僕の蔵書も相当だった。僕が二階に住んでいても、早々に大路さんと同じことをしでかしていたのではないか。その線は拭えない。
「普通はそう思わないと思う。天井ぶち破られてるんだよ?」
「僕の部屋も本だらけだからね。大路さんと同じことになってたかもしれないし」
「……蒼くんも、いっぱい読んでるよね」
「大路さんほどじゃないと思うけど」
思えば、大路さんはいつだって本を読んでいる。それが、僕らの会話が少ない理由のひとつかもしれない。
食事前も本を手放さなくて、ナツさんにお叱りを受けたりもしていた。僕もナツさんを手伝ったことがあるが、手放すまでに時間がかかって大変だったのだ。
「蒼くんだって負けてない。いつも違うの読んでるじゃん」
「節操がないって言うんだよ」
読書家、と便宜上そこに分類される自覚はある。だが、正直なところ、そんな立派なものではないような気がしていた。
読書家と言うと、実用書などで勉学に勤しむような。自己を高めるための読書を主にしているものの雰囲気がある。もちろん、そんなことはないことは分かっているけれど。けれど、どうにもそうした印象が拭えず、自分がそこに名を連ねているとは思えない。
何より、僕の主戦場はラノベに寄っている。人によっては、それを読書と認めないものもいるだろう。そんなマウントを直接取られた経験はないが、読書が趣味というと高尚なものに持ち上げられることはままあった。
趣味は趣味だ。あくまでも娯楽であるし、崇高な理念なんてありはしない。ハーレムだろうと俺TSUEEEEEEEEだろうと悪役令嬢だろうと、面白ければ読むだけのことだ。
僕は特にその傾向が高い自覚があった。自分の好きなものを好きなときに好きなように読むので、存外名作を読んでいなかったりする。それを言語道断という趣味人もいることだろう。卑屈になっているつもりはない。ただ、そういう目線もあった。
大路さんがそういう考え方をするようには思えないが、違うとも言い切れない。逃げ道を作るかのように先回りしてしまうのは、やっぱりどこか卑屈になっているのかもしれなかった。
「そうかな? 色々読めるのは面白いから、いいんじゃない? ラノベだと、ジャンルごった煮だよね。蒼くんは特に何が好きかってあるの?」
「頭脳戦が好きかな」
まさか、僕がラノベに傾倒していることまで把握されているとは思わない。
もちろん、読んでいる姿を見ていれば分かることだ。けれど、大路さんは自分の読書に夢中だった。僕の読書の細やかな部分に目を配っているとは思わなかったのだ。
「じゃあ、ミステリなんかも好き?」
「ああ。日常ものでもサスペンスホラー寄りでも好きだよ」
「探偵ものってワクワクするよね」
「職業ミステリもあるし、幅広いからな」
「でも、ラノベだとファンタジーのほうが主流じゃない?」
「ファンタジーも好きだよ。大路さんもラノベ読むの?」
「私はラブコメが多いかな? 最近はサイト発のやつも多くて平和的なものも多いから安心して読めるよね」
「ハラハラするのは苦手か?」
「ううん。それはそれで好きだよ。青色の恋も好きだよ」
「青色?」
「あ……」
スムーズに続いていた会話が躓く。いかにも余計なことを言ったというような感嘆詞に、疑問は膨れ上がった。
青色の恋。青春ってことだろうか。ならば、ラノベでのラブコメは青春ものが多い。あえて限定される意味はなんだろうか。
「……小説の色が見えるから、それで。ごめんね。変なこと言って」
「共感覚ってこと?」
今まで自分の周りにそういった人間がいたわけじゃない。けれど、世の中にはどうやらそういう人がいるらしいと言うのは知っている。謝られるようなことだとは思わなかった。
「多分、それだと思うけど、混乱させちゃうから」
「それ自体は気にしないよ。どういう話がどういう色になるのかは気になるけど」
「……蒼くんはちょっとおかしいね」
「おい」
透先輩に辛辣な口を叩いていた。だから、大路さんが丁寧一辺の性格じゃないことは分かっている。だからって、おかしいはあんまりだ。
低く突っ込んだにもかかわらず、大路さんからは柔らかい雰囲気が漂ってきていた。どういう感情なのか分からない。僕と大路さんの交流具合では、シーツ越しのそんな間合いを読もうなんて難易度が高過ぎる。
「ごめん。そうじゃなくてね、普通、そんなに早く共感覚を理解して納得してくれないから」
「それはもうちょっと違う言い回しがあるだろ、読書家さん」
「私は読むの専門だもん。語彙力を学ぶとかそういうのとは無縁だよ」
「無縁ってことはないだろ。ていうか、そこまで難しい言い方を求めてないよ。せめて、最初からおかしい理由を言ってくれ。誤解を招く」
「じゃあ、嬉しかったよ」
じゃあ、のかかり方が雑だ。どこに引っかけた、と突っ込みたいところだが、嬉しいと言われてしまうと強くは出られない。
共感覚なんて、確かに怪しい感覚だ。個人にしか分からないし、分かり合える感覚があったとしても、個人個人で見え方は違う。自分とまったく同じ感覚の持ち主がいないというのは、奇妙な感覚だろう。
そして、そんな異質な能力を持つ人間は爪弾きにされることもあるはずだ。そんな経験があるのだろうか。
「信じてくれて、ありがとうね」
もしかすると、本当に何かがあったのかもしれない。
「ううん。面白いっていうのもあれだけど、面白いと思うよ。今度、どんな本がどの色をしているのかとか、教えてよ。気になる」
「じゃあ、蒼くんの読んだことのある本を教えてね。蒼くんは、言い回しなんかに注目するの? 好きなの?」
「……どうして?」
いきなり読み方に着目されて間が開いてしまった。別に、それが悪いわけじゃないし、法外に会話が飛んだわけじゃない。
けれど、僕には心当たりがある。思わず疑問を返してしまった。大路さんは違和感を覚えなかったのか。淡々とした口調を崩すことはない。
「さっき、そんなようなことを言ってたから、興味があるのかもと思って」
「……そうだね。表現はついつい気にしちゃうかな」
それだけに着目しているわけじゃない。面白いものを面白いままに読んでいるだけだ。
けれど、記憶に残ったり、意識に引っかかったりするのは、大筋を除けば表現の部分が大きかった。たとえが幹から枝葉までに通っていて、うまく重ね合わせられていると、とても好きな本になっていく。
そうして収集するのが楽しい。何かとメモしてまで収集している習慣を思い出して、ほんの少し遠い目になった。
「好きなんだね。書いたりするの?」
どういう動線で繋がったのか。大路さんのそれはよく分からなかった。
そして、そこはできれば気がついて欲しくなかった点だ。書いたりしていたことはある。ただ、今はもう書いていない。
表現をメモするのだって、癖で続けているだけで、今や糧とはなっていなかった。好きなものを集める。ただそれだけのコレクションだ。
以前は、そこから工夫や調理を考えていた。今となってはその活力はなくなっていて、書いていたのは過去の遺物だ。
答えにまごついたことを、大路さんは難なく受け止めたらしい。
「書いてるのは、とってもすごいことだよ」
恐らく、僕が言い渋った理由を、気恥ずかしさか何かだと勘違いしたようだ。確かに、それを茶化される経験をする人間もいるだろう。
僕だって、悪意で持って叩かれたことがあった。だからこそ、そういう意味で渋るものもいるだろうことも、それを大路さんが想像したことにも違和感はない。現実には、ちょっと真実がズレているけれど。
「僕なんて、まだまだだよ」
「やっぱり書いているんだね」
「秘密な。大路さんが共感覚を教えてくれたから」
「分かったよ。秘密ね。この部屋でなら話せるから、よかったね」
「……大路さんはいいの?」
趣味の話を共有したい気持ちもあった。それが会話のきっかけになるのならば、それに越したことはない。だが、今の要点はそこだ。
そして、タイミングを逃してしまえば、再確認はしづらい。既に確認はしているといえど、こうして二人きりの事態に直面すれば、また話が変わってもおかしくはなかった。
この現実にぶち当たってもなお、大路さんは意見を翻すことはないのか。それを確認するとしたら、今だろう。眠れていなかったという事実があるのだから、聞かずにはおれなかった。
そして、それは大路さんからしてみても同じであるということを、僕は失念していたのだ。
「蒼くんのほうが、やっぱりダメなんじゃないの? 抜け出していたし、嫌なのかと思ってた」
「……眠れなかったら、ちょっと息抜きしてきただけだよ。大路さんのことを嫌う理由なんてないだろ。信頼は揺るがない?」
「揺らいでないよ。ただ、やっぱり事故にあったから、落ち着けなかっただけ」
「そっか」
大路さんがそれでいいなら、僕から言うことはなかった。
相槌だけになると、会話が途切れてしまう。圧倒的に気まずい。このままやっていけるのかという不安は、山のようにある。今までスムーズだった分だけ、僕の口火が引き金でこうなってしまったのは不安を助長させるものだった。
そんな反省をしている間に、大路さんは先へ進んでいたようだ。単に僕が気にしすぎているだけなのだろうけれど。
「あのね、せっかくだから、秘密も共有したし、仲良くなりたい」
静かな言葉は、夜の帳に溶け込む。そして、それは僕の心にもすんなりと溶け込んできた。
大路さんの声は、涼しげで柔らかい。そのことに、今更ながら気がついて、気持ちが解れた。それで性差を感じなくなるわけではないけれど、少しは気持ちが落ち着く。
「うん。僕もそう思うよ。趣味の話ができるのは嬉しい」
「じゃあ、仲良くしようね。床が……天井が? 直るまではお互いに気遣いながらの生活になると思うけど、一方的に遠慮することはしなくていいから」
「分かった。大路さんも遠慮しないでね」
大路さんとの生活は想像できない。どんな気遣いをしなければならないのかも。どれくらい自分が遠慮してしまうのかも。だから、きっとこれは安請け合いだ。けれど、へどもどしたくもなかった。
僕だって、大路さんと当たり障りのない状態で不仲でいたいなんて思いやしない。同室でなかったとしても、ルームメイトなのだ。こんな機会がなかったとしても、これから交流を深めたいと願う気持ちはあった。それを持ちかけられているのだから、あえて退ける理由はない。
「じゃあ、ひとつお願いしてもいい?」
ぽつんと願われて、少し心が怯む。何? と返した言葉は、震えそうになった。自分の気弱さにへこむ。
「栞でいいよ」
「……分かったよ、栞」
決して、強い言い分ではなかった。いきなりそうする理由はないような気もした。けれど、仲良くしたいという流れであったのだから、おかしくはない。
僕は相槌を打って、名を呼んだ。その響きが、自分の内側で揺れる。一息に距離が縮まったような気持ちになるのだから、僕はチョロい。けれど、それで満足げな吐息を漏らす大路さん……栞も、それなりにチョロかった。
「ありがとう。改めて、よろしくね。蒼くん」
それは、今から始まる生活へのけじめだろう。
「こちらこそ、よろしく。栞」
「じゃあ、もう寝るね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
よろしくの後に、すぐにおやすみが続くというのは不思議な環境だ。けれども、けじめのおかげで気持ちの整理をつけることができた。
ずっと見つめていた天井を瞼で閉ざす。眠れるのかどうかの疑問はまだ残っていたけれど、そうしているうちにゆっくりと意識が薄れていった。
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