第二章

漫画のプロ!①

 翌朝の目覚めは、動揺が走った。自分がどこにいるのか。一瞬、分からなくなる。すぐさま昨晩の事故を思い出して、漫然と起き上がった。

 向こう側がどうなっているのか。これから毎日そうした気配を探る生活を送るのかと思うと、落ち着かない。けれど、栞が嫌なわけではないし、仲良くしようと話したことに欺瞞はなかった。だからって、気疲れがなくなったりはしないのが困りどころだ。

 目覚めとともに、制服に着替える。シーツの向こう側に栞がいると思うと、やっぱり落ち着かなかった。それでも、もう慣れるしかない。

 そのままリビングに出ると、栞が制服に着替えてテーブルについていた。さっきまでの緊張感は徒労だ。しかし、同時に安堵もした。

 自分が着替えている分には、まだ自分のペースであるし、見られてもそこまでもダメージはない。気恥ずかしくはあるが、女性の肉体を見るかもしれないリスクに比べたら、どうということはなかった。


「おはよう、蒼くん」

「ああ、おはよう。栞」

「なんだ、仲良くなったのか?」


 透先輩は栞の斜め前に座って少女漫画の月刊誌を捲っていた。その手を止めてまで食いついてくる。本当に恋愛脳らしい。

 透先輩が月刊誌を持っている姿はよく見る。朝からよくもまぁと思うが、栞だって本を手にしているから透先輩だけをやり玉に挙げるつもりはない。そのうえ、僕だって本を片手にしている。他人のことを言えた義理はなかった。


「仲良くなっちゃ悪いんですか」

「へぇ? 夜中にどうしようか迷ってたくせに?」


 言いながら、千佳先輩が登場する。化粧をしていない顔は、昨晩よりも幼く思えた。そんな千佳先輩を目にした透先輩は、にやりと笑みを深くする。

 普段は息が合わないような態度でいるくせに、こういうときだけは共同戦線を結ぶらしい。たちの悪いタッグだ。


「ほっといてくださいよ」

「悩める少年いいなぁ」

「茶化すな」

「栞も許したの?」

「何をですか?」


 やはり、栞は性差に対して鈍いらしい。二人の勢いも、栞の緩やかな問いには興が削がれたようだ。二人揃って微苦笑になる。やはり、根本は似ていた。互いにその部分を毛嫌いしているようでもあったが。


「純情で何より」

「栞ちゃんらしいよねぇ」


 二人は説明をしやしない。

 そうして放っておくものだから、栞は無垢なままなのでは? という気もしたが、僕から説明できることはなかった。既に昨日、性差に触れているのだ。これ以上を僕がやる義務はない。繊細なことだし。

 それは言い訳だっただろう。だが、誰に責められることもないはずだ。栞だってこうした遠回しな匂わせに鈍いだけかもしれない。本当の知識量は分からないものだ。下手すればセクハラなので、僕も知らん顔で本を捲ることにした。

 そうしていれば、ナツさんが朝ごはんができたと声をかけてくれる。ナツさんが朝食で作ってくれるのは味噌汁だけだが、十分過ぎる用意だ。

 僕らはそれぞれにご飯と味噌汁をよそって、海苔や納豆、明太子などをテーブルに並べた。各々好きなものを食べている。僕は海苔で、栞も今日は同じらしい。透先輩はちゃちゃっと卵焼きを焼いている。


「砂糖でよろしく」

「何でお前の好みにしなきゃならないんだよ。食いたきゃ自分で作れ」

「いいじゃん、一切れくらい」

「だから、俺は卵焼きはしょっぱい派なの」

「ケーキとか大好きなくせに、そのこだわりなんなの? たまにはいいじゃん」

「じゃあ、ウインナーを寄越せ」

「いいよ。どうせだし」


 所帯じみた交渉をしながら、二人でキッチンに立っていた。そこだけ切り取れば、ひどく仲がいいようにしか見えない。恐らく、栞の感想も同じだろう。そして、口にすれば揃って否定に躍起になることが想像できるのも一緒だ。僕らは無難に無言を貫いた。

 大学生の羽奈さんは僕らよりも朝に余裕があるので、いないことが多い。四人でいるのが日常だった。奇っ怪な同室生活が始まっても、何も変わらない。その日常に、僕はいくらか気を落ち着けた。




 その日の帰り道。フラフラと緩慢に前方を歩く姿を発見した。思えば、図書館までの道中。今まで会わなかったことが不思議なくらいだ。

 前を行く栞は、手元に目線を落としていて、前を見ていない。いや、時々見上げているが、ほとんどが手元だ。そんな危なっかしい動きなものだから、自然に歩みが遅くなっている。

 まったく効率的ではないが、効率を求めているわけではないのだろう。わずかな移動時間でも目が文字を追いかけてしまって、止まらないだけだ。栞がそういうタイプであることは知っていたが、外でまでやっているとは思わなかった。

 これがまだ、夏目荘内部のことなら、僕だって微笑ましく見守っていられたかもしれない。危険は危険だが、外よりはいくらかマシだ。公道で見かけた心臓の悪さと言ったら他にない。

 しかも、栞は集中すると浮上してくるのに時間がかかるタイプだ。何かあって声をかけてからでは、間違いなく遅い。とても見て見ぬ振りなどできなかった。

 僕は大股で栞へと追いついて、その襟首を掴まえる。事故以外にも、こういう心配もしたほうがいい。

 栞は危機感なく、ワンテンポ遅れてこちらを振り向いた。その黒い瞳が驚きに見開かれている。強引に過ぎたかもしれないと少し反省した。


「どうしたの? 蒼くん」


 のんびりとした口調に、これでもまだ可愛いものだったかもしれないと思い直す。あまりにも危機感がない。

 性差の意識のなさが、こうした防御力も下げてしまっているのだろうか。ならば、恥を忍んで行動に移したほうがいいのか。そんな勇気もないのに吟味が浮かぶ。

 先輩たちに任せてしまいたかったが、あの遊び人たちに任せてしまったら、栞が要らぬ不純さに塗れてしまう気がして憚られた。


「危ないよ。ながら読書はやめたほうがいい」


 やっぱり勇気はなく、肝心な部分は伏せながら注意を促す。

 栞は苦い顔で目を逸らした。しまったとばかりの仕草は、叱られるのが初めてではないことを悟らせる。これは、今までに何度もやらかしているのだろう。もしかすると、怪我までやらかしに含んでいるのかもしれない。

 反省のなさは褒められず、眉を顰めてしまった。


「だ、だって、面白いから!」


 険しく言い募られる案件だという自覚もあるらしい。そのうえの所業は、より罪深い気がしてため息が零れる。

 呆れが含まれたそれに、栞はすっかり項垂れてしまった。そんな顔をさせたいわけではない。ただ、初犯でもなさそうなので、これを見逃していいものかも怪しい。

 だからといって、僕は別に栞の保護者ってわけでもないのだ。そりゃ、同室者として仲良くしようと挨拶を交わし合った。だが、それからまだ二十四時間も経っていない。そんな程度の相手だ。どこまで過保護な態度を出してもいいのかさえも、手探りだった。

 遠慮なんていらないと言われても、口うるさい存在になりたくはない。かといって、看過できない過失なのが困りどころだ。


「どれだけ面白くても、一人のときはやめたほうがいいよ」


 あ、これ言質取られたな、と思ったのは栞が即座に顔を上げたからだった。萎れていた瞳がキラキラと光っている。


「じゃあ、蒼くんがいるから今はいいよね?」

「……そうは言ってないけど」


 苦々しく零しても、栞は食い入るように注視して意見を押し通そうとする。普段はそれほど自己主張を強くするほうじゃない。それだというのに、読書に連なることは譲らないようだった。それも無言で押し切ろうとする。

 黙り込んで見つめ合うことになったが、音を上げたのは僕のほうだった。つっと目を逸らしても、栞の輝かしいオーラが消えることはない。どこまでも譲る気はないようだった。

 声をかけなければよかったと思うほどの後悔が襲ってくる。かといって、放っておくことはできなかったのだから、仕方がない。根負けした僕は、顔を覆ってはーっと長く息を吐き出した。


「……分かったけど、今だけだからな。次はないよ」

「ダメ?」

「ダメだ」


 ここできっぱり言っておかなければ、次もまた持ちかけられることが明白だ。まさか栞がこんなに押してくるとは思わなかった。

 断言した僕に、栞は不貞腐れる。意外に子どもっぽい仕草もするらしい。本ばかり読んでいていて、大人しい印象だったから、意外に思えるのだろう。そういう面を見られるのはいいけれど、事故に繋がりかねないことで知りたくはなかった。

 栞は不貞腐れながらも、今だけの許可を謳歌するつもりらしい。止まったままになっていた読書を再開させた。反省の色がない。

 僕はブレザーの肘の辺りを掴んで、栞を誘導した。触れるのもセクハラが過って躊躇したが、そのまま一人で歩かせるほうがよっぽど躊躇する。栞は僕の誘導を受け入れているというよりも、なすがままになっているような気がした。

 信頼してくれているのはいいし、裏切るつもりもない。だが、やっぱり口酸っぱく引き止めなければならなかったように思う。次はないと再度念押ししておこうと心に留めながら、図書館への道を進んだ。

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