活字少女とラノベ少年④

 くわりと欠伸が零れる。時計の音がかちこちと深夜の居間に鳴り響いていた。僕は住人全員が揃える大きなテーブルの真ん中辺りに座り込んで、ぼーっと天井を見上げる。

 真っ暗な居間に、縁側とも呼べる廊下から月の光が入り込んでいた。薄暗い夜は、爽やかで気持ちのいい夜だ。だが、今夜ばかりはこの穏やかさに身を委ねていられなかった。

 眠れずに部屋を出てきたのは、今から三十分前のことだ。大路さんが本当に寝入ったかどうか、僕には分からない。何にせよ、彼女と同じ空間に居続けることができずに、逃げ出してきてしまった。

 血の繋がりのない女性と部屋に二人っきりで眠った経験なんて一度だってない。そして、相手はただのルームメイトで、同級生というだけだ。これがまだ、恋人だというのなら、気持ちの折り合いもつくのかもしれない。けれど、ただの女の子。しかも、同じ家に祖母がいる。その気まずさといったら、段違いだった。

 大路さんはどうとも思っていないのだろうか。寝息すら聞こえてこないシーツの向こうは計り知れなかった。どちらにしても、僕の気が楽になるわけじゃない。はぁーと深いため息が零れ落ちた。

 今日はもうここで寝てしまおうか、と居間をぐるりと見回す。いい時間だ。もう誰も来る気配もない。気温だって暖かくなってきたころで、一日くらいならここでうたた寝していても問題ないような気がしてきた。

 ぱたりと上半身を倒して、床へ大の字になる。すーっと息を吐き出すと、眠気が呼び起こされた。けれど、寝入るには微妙な理性が残っている。

 自宅ならリビングで眠るのに抵抗を覚えたりしない。だが、共同生活の中では気を回す。羽奈さんは大学生で、いつ帰ってくるか分からない。今日も帰ってきているのか不明だ。だから、いつ居間にやってくるかどうか読めない。人の生活にお邪魔するかもしれないと思うと、ここで眠っていていいものかと冷静さが胸に巣くう。

 とはいえ、眠さはあった。僕が眠れなかったのは、大路さんのことが気になっていたからに過ぎない。眠気はちゃんとある。目を閉じると、うとうとと意識が遠のいた。

 このまま、と思ったところで


「うわっ」


 と悲鳴が飛び込んできて、かっと目を開く。いつの間にかついていた電灯の眩しさにぎゅっと目を瞑ってしまった。


「何やってんの、蒼汰」


 そう言って顔を覗き込んでいるのは、千佳先輩だ。ふんわりとセットされた茶髪が揺れている。お化粧をバッチリ決めていて、睫毛はばさばさ。唇はうるうる。

 いい時間なのに、と薄ら浮かんだが、帰ってきたばかりなのだろうから、決まっていてもおかしくはなかった。


「……うとうとしてました」

「なんでここで寝てんの。寝るならちゃんと部屋戻りなよ」


 できるなら、そうしている。黙り込んだ僕に、千佳先輩は不思議な顔になった。僕は今日の出来事を掻い摘まんで伝える。

 一番の問題点である部屋の件を伝えると、千佳先輩も悪い笑みになった。透先輩も大概恋愛脳だが、千佳先輩も同じようなものらしい。似ていると言うと不機嫌になるだろうから、口には出さなかった。

 僕は透先輩とは違うので、千佳先輩相手に余計なことは言わない。


「なるほどね~それで純情な蒼汰は逃げ出してきちゃったわけだ」

「僕だって、男子高生なんですよ」

「別にそんなところ責めやしないって。いいじゃん、旺盛なのは」

「さすが、千佳先輩」

「おい。透に影響を受けてるんじゃないぞ」

「理解があるって話じゃないですか。大体、千佳先輩が遊び歩いてるのは事実でしょ。こんな時間に帰ってきてるんですから」

「生意気」

「いらい」


 頬を抓る力は、まま強くて容赦がない。呻き声を上げると、千佳先輩は仕方がないとばかりに手を離してくれた。なんで譲歩されているような態度を取られなくてはならないのか。理不尽だ。


「まぁ、いいけど。あんたがそう思ってる先輩からアドバイスしてあげようか?」


 何を言い出すのかまるで見当がつかない。かつ、僕に都合の悪い話が投げられそうな気がして食いつきたくはなかった。

 けれど、だからといって、他にいいアイデアがあるわけでもない。口を噤んだ僕に、千佳先輩は猫のような笑みを浮かべた。やっぱり、嫌な予感しかしない。


「部屋に戻りな」

「……なんでそうなるんですか」


 端的なアドバイスは、動線が見えなかった。素直でいるつもりはないが、つらっと疑問が零れ落ちる。

 千佳先輩は、はぁと吐息を零して、僕の隣に腰を下ろしてきた。呆れたような態度を取られると、自分が出来損ないの子になってしまったような気がしてくる。それほど妙な問いかけをしただろうか。


「栞を置いてきたんでしょ?」

「そっちのほうが大路さんだって安心でしょ」

「栞はあんたに気を遣われるほうがよっぽど気にするタイプじゃないの? 自分のために居間で寝てるってのは居心地悪いと思うし、戻ったほうがいいって。栞は蒼汰のこと信頼してるんでしょ?」

「僕が僕を信頼できないんですけど」

「あんた、そんなに栞のこと意識してた?」

「そんなつもりなかったですけど」


 そこが疑問点ではある。

 今まで、そこまで大路さんを異性だと認識していなかった。読書の趣味を持っているルームメイト。そちらの意識のほうが強くて、女性という部分は弱かった。それが、たった一度の接触で、ここまで意識が昂るとは思っていない。吊り橋効果というものだろうか。


「まぁ、そこはあんたが頑張るしかないでしょ。栞を不安にさせるのはやめてあげなよ。大体、怖い思いしたんじゃないの? 二階から落下とか普通に怖いけど」

「……それは確かに」


 大路さんは恐怖に震えていたりはしていなかった。会話に違和感もなければ、透先輩をからかうこともしていたくらいだ。だからといって、恐怖がなかったとは思えない。

 僕だって、落下してくる大路さんのことを思い出すとぞっとする。無事に抱き留めることができて、僕だって怪我をしなかった。無事だったからよかったようなものの、そうでなければ大事故になっていたかもしれないのだ。

 そのことを、ちっとも考えられていなかった。


「だから、戻ってやりな。余計な心労はさせないほうがいいでしょ」


 失礼な話だが、アドバイスに期待はしていなかった。千佳先輩から、ここまでまともなものが出てくるとは思わない。ニヒルな笑みで近寄ってくるのだから、その失礼さも仕方がないというものだろう。

 千佳先輩は僕をじっと見つめて返事を待っていた。変に追撃がやってこないことが、僕の思考を深くさせる。はぁと吐息が零れ落ちた。


「戻ります。戻ればいいんでしょう」

「別に強制してないからね」

「そんな目で見ておいてそれはないでしょ」

「蒼汰が栞を放っておけないってだけでしょ」

「……大路さんに迷惑かけたくないだけですよ」

「はいはい。そういうことにしといてあげる」


 アドバイスはまともで頼り甲斐があったのに、すぐにその影をなくす。そういうところまで、透先輩に似ていた。それを指摘すれば、一矢報いることはできるだろうか。勝負事ではないので、そんな無謀な挑戦には踏み切らないけれど。

 のろのろと起き上がると、気合いを入れるかのように背を叩かれた。千佳先輩は、僕より先に立ち上がって伸びをしている。スカートの丈がとても短くて際どかった。


「じゃ、頑張って」


 その応援はいくらだって邪推ができる。恨めしい気持ちが浮かぶが、一度言われてしまえば大路さんの心理状態が気になってここに居座ることもできない。

 千佳先輩に背を押されるように、部屋へと戻った。一〇二号室が僕の部屋だ。今は木材と本が溢れ返っていてとても過ごせない。その隣の扉をそっと開く。

 戻ると決めたはいいが、大路さんがどうしているのかと思うと心音が速まった。部屋に戻るだけに、ここまで緊張するとなるとこの先に不安しかない。安らぐことができるのだろうか。不安を抱えながらも、忍び足で部屋へと滑り込んだ。

 まるで大路さんの部屋に潜入しているような気持ちになる。抜け出すべきではなかったのかもしれない。粛々と自分の敷いた布団の中へ潜り込む。

 シーツの向こうは相変わらず無音だ。寝息ひとつ立てない大路さんは、やはり眠れていないのかもしれない。戻ってきて正解だったのか。それは分からないし、口を開くこともできなかった。

 居間では襲われていたはずの眠気も、すっかり去ってしまっている。目が冴えて仕方がない。零れそうになる吐息は、どうにか胸の中に飲み込んだ。ぼーっと天井を見上げる。

 そこが抜けてくる映像が、浮かび上がっては消えていた。大路さんの髪の毛がふわりと浮かんで重力に逆らっているのをよく覚えている。触れ合った体温や重さ。思い出すべきところは、そこではないだろうに。けれども、すべては連なっている。

 大路さんは大丈夫だろうか。本当に怪我はしていなかっただろうか。落下の瞬間を何度も繰り返して、異常がなかったかを探ってしまった。そんなことをしても、細部までは思い出せやしなくて、無駄なことではあったけれど。

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