美術教師(仮)②
「蒼くん?」
今日もまた、図書館通いだ。仮に一緒に登下校していなかったとしても、変わらない日常であったかもしれない。ぼうっとしていた僕に、下から見上げてくる栞の瞳がぶつかった。
「どうした?」
「蒼くんのほうがどうしたの? 私よりもゆっくり歩いてるよ」
「そう?」
栞の公道読書よりも遅いというのだから、かなり遅かったはずだ。それを空惚けられたのは、奇跡にも等しい。そうなっていたのは、考えつつ栞を見つめていたのが原因だろう。中身を伝える気は更々なかった。
「大丈夫? 調子悪いとか?」
「平気だよ」
実に白々しい。二つ返事ができたと思ったが、それでも栞の怪訝は消えないようで、不審そうな顔を消さなかった。
「でも、最近悩んでるっぽいよ」
追い打ちをかけられて、今だけを切り取って疑念を抱いているわけではないことに気がつく。僕はそれほど分かりやすいのか。だが、今のことを追及されるよりも、日頃のことを取り沙汰されるほうが僕には都合が良かった。
「小説がうまく進んでないんだ」
創作の話をするのは、どこかこそばゆいところがある。それでも、透先輩がいるからか。夏目荘ではそうした話は日常に寄り添っていた。常日頃から雑談のネタにしているわけではないけれど、憚ることでもない。
僕がそう漏らしても、栞も別段驚きもしなかった。ただし、心配は別物らしい。
「結構、順調に書いてなかった?」
それは自室に戻ってすぐのことだろう。確かに、僕はそのとき絶好調となっていた。透先輩にも調子を聞かれて、堂々と答えられるほどには誇れる進捗だったのだ。しかし、そこから少しずつ蹴躓く時間が増えてきていた。
苦笑いになった僕に、栞はへにょりと眉を下げる。
「うまいこといえないけど、息抜きしてね」
ほろりと零される間合いは心地が良い。何の解決にもならないけれど、それが心を支えることもある。
「うん。こうして図書館に行くのも息抜きになってるよ」
「今日はどんな小説を借りたの?」
僕の気を雑談で逸らそうなんて意図があるのかは分からない。栞にしてみれば、自分も楽しめる話をしようとしているだけなのかもしれなかった。
けれど、このタイミングで振ってくれるには、多少なりとも気持ちがあるのだろうと身勝手に思っておく。僕も少しは図太くなれているのかもしれない。
「今日はWeb発信の単行本」
「分厚いやつ?」
「うん。ようやく五部に到達して、かなり佳境なんだ。面白いよ」
「私も二部くらいまでは読んでいたんだけど、そこから積んじゃってるんだよね」
「図書館で借りてシリーズ追ってると積みが結構発生するよな……」
「借りるんじゃなくっても、揃えるのに時間がかかることもあるよ。一度積んじゃうとなし崩し的に全部伸びちゃうよねぇ」
「そのわりに新しいシリーズに手を出したりしちゃうんだよな。節操ないっていうか」
「自制心は持つべきだよねぇ」
のんびりとした口調ではあるが、苦々しさが含まれている。近頃、千佳先輩が散々言われていた。そのことが思い出されてもいるだろう。僕も苦笑いになってしまった。
「エアで増えていくのは本当にやめたい」
「エア?」
「実質に本を積むんじゃなくて、読みたいなって脳内にメモが増えていくっていうか……延々と増えていかないか?」
「わ、わかる」
感銘を受けたような相槌を打たれて、笑いが零れる。同じ趣味だからこその同意には、胸がくすぐったい。
「なんでこんなに覚えていられると思う? 英単語はぼろぼろ落ちていくのに」
「嫌なこと思い出させないでくれよ」
「蒼くん、そんなに成績悪くないでしょ?」
「それで言えば、栞だって上位だっただろ。透先輩は焦ってたみたいだけど」
「山下先輩は締め切りとバッティングしたんだって言ってた」
「なるほど」
月刊誌に連載をしながら学生生活を送っている。考えてみても、余裕はちっともなさそうだった。
そのくせ、透先輩は飄々と過ごしていて努力を見せない。そりゃ、あえて努力を見せつけようとするものは少ないだろうけれど。一緒に生活しているのだ。何かに追われているかそうでないかくらいは、動きで悟ることはできる。
実際、羽奈さんがバイトで忙しくしているときだとか、千佳先輩が試験勉強に追われているのだとか。明確に感じることができた。自分一人ではないと感じられるほどに。
その中でも、透先輩は生活が激変している様子はなかった。試験が大変だと口にしてはいたが、口だけのことであるかのような生活だったのだ。スマートが心底身についている。千佳先輩のことがあってから、尊敬する部分が際立っているような気がした。
栞が透先輩の事情を把握していることには、思うところがないわけじゃない。ないが、食い下がる関係性なんてひとつだってないのだ。僕が栞を想っていることは、僕の心のうちのことでしかない。何も伝えていないのだから、食い下がれるわけもなかった。
伝えていたとしても、僕が嫉妬心を口に出せるとは思えないけれど。
「でも、蒼くんも試験中にも書いてたでしょ?」
「……あれは息抜き」
つっと視線を逸らした僕に、栞がクスクスと笑いを零す。
「行き詰まってるのに息抜きにするくらいには好きなんだね」
さらっと言われて、何ともなしに心臓が飛び跳ねた。
栞に意図はないだろう。僕が書くことに一物抱えていることは、誰にも言っていない。だから、励まそうという気持ちはないはずだ。そして、好きだということに何のてらいもない。
それこそ、当たり前だ。創作のそばにいれば、余計に機会は多い。だから、たったこれだけでまんまと心臓を跳ねさせている僕がチョロいだけに過ぎないだろう。
「栞だって小説、好きだろ」
口にすると、好きだということも普遍的になった。
僕らはそういう感情を分け合って生きている。創作畑にいれば、好意を示すことがどれだけ大切かよく分かっていた。僕はかつてそこに目を向けることができなかったことがあるが、今にしてみればそれがどれだけ貴重なものであったのかとしみじみ体得している。
「私の好きと蒼くんの好きは違うでしょ?」
ちゃんと創作のための会話だと理解していた。邪推する隙間など欠片もない。しかし、まるで友情と愛情の違いを口にされているかのような気分になった。
苦笑になったのは、そういうところが大きかったかもしれない。
「一緒だろ。栞だって、試験中だろうと読書してたし」
「書くのとは力の使い方が違うでしょ。私は読むだけだもん」
「時間を使っているのは同じだよ」
正式には違うのかもしれない。だが、その差をここで明確にしたところでどうしようもない。僕らは小説に熱を上げている同志ということが合致していればそれでよかった。
栞は「ふーん」と、その違いに納得いない空返事みたいなものを寄越す。確かに違いはあるだろうから、納得できないこともあるだろう。
だが、僕はそのまま押し切って、雑談を進めた。栞もそこにこだわるつもりはなかったのか。それとも、雑談の楽しさを優先したのか。しつこく差を詰めることもなく、会話を楽しみながら荘への帰途へついた。
千佳先輩に言われたからってわけではない。僕らの図書館通いは日常と化していた。
自室へと戻ってから変わったことは、居間に顔を出すことが増えたことだろうか。
元々、僕は部屋に引きこもっていることが多かった。とはいえ、荘に来て一ヶ月も経たないうちに栞と同室になったのだから、元々も何もないかもしれないが。だが、以前よりも居間に顔を出すようになったのは間違いなかった。
栞から逃げるための手段になっていたことが、息抜きのひとつとしてカウントされるようになっていたのだろう。今となっては、居間に顔を出すのも日常になっていた。
今日も僕は居間の壁に背を預けて、足を投げ出してスマホで執筆する。部屋でもいいのだけれど、栞と過ごしている間に変な癖がついたのか。居間だと筆が進むような気がした。気がしているだけで、さっきから書いた分を全消去することばかりを繰り返しているが。
小説は一向に進まない。青春ラブコメ。その修羅場となるところで、ぴたっと話が止まってしまっていた。感情が爆発するための事件が甘くて、勢いがない。読ませるためのフックが見当たらなくて、僕は頭を悩ませていた。
やはり、かなり前から話を差し替えなければならないかもしれない。だとすると、どこから……と、頭の中で段落を確認して精査していく。そうして振り返ってみると、粗ばかりが脳に引っかかってきて、直すところしか思い至らない。
ぐしゃぐしゃと髪の毛を引っ掻き回した。どこもかしこも直すしかないかもしれない。とはいえ、全部を直すには惜しいという気持ちもある。
部分部分では、気に入っている表現もあった。それを軒並み消す果敢さはない。直せば、その余波で色々なところを整理しなければならなかった。そうして整合性がちゃんと取れるのか。それを考えると、腰が引けてくる。直すにも技術がいるのだ。
僕は前から、直すことが苦手だったように思う。考えたまま足踏みばかりをしていて、結局直すものも直さずに突貫していた。もちろん、それが破綻するほどの確実な手落ちであれば話は別だ。
だが、少々話が盛り上がらない程度であれば、プロットの道を大きく外れることはない。ゆえに、直すに踏み切れずに押し進めても問題はなく完結させることができていた。なまじ、完成させることができているだけに達成感はある。そのために、うやむやにしてきた弱点だった。
僕は今、躓くことではっきりとその弱点と向き合うことになっている。逃げようにも逃げられないのは、どうしたって自分のことでしかないからだ。どうにもならない。
僕はうんうん唸りながら、スマホと睨めっこをしていた。それで改善すれば、苦労はしない。だが、分かりやすく懊悩してでも、うちに溜まっていく澱を吐き出さなければやっていられなかった。
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