美術教師(仮)③

 そうこうしていると


「お前、何やってんの?」


 と心底呆れたような声が頭上から振ってくる。

 いつの間にか体育座りになっていた僕を透先輩がこちらをじっと見つめていた。不審丸出しの目をされて、こほんと咳払いして姿勢を正す。


「今更」

「いや、それでも間は悪いんで」


 咳払いを続けて、髪の毛を雑に手ぐしで整えた。


「どうかしたか? 居間でじたばたして」

「……いえ、ちょっと」


 内容は自分でどうにかするしかないことだ。透先輩は励ましてくれるかもしれないが、相手はプロである。そう簡単に尋ねてもいいものか、という遠慮があった。

 濁した僕に、透先輩は意味深に目を細める。そして、その視線が僕の周りをじっと舐めていった。

 場の雰囲気から、僕の状況を読もうとしているかのようだ。探るような目つきは、元来なら気持ち悪さしかないだろう。しかし、僕は僕で誤魔化している自覚があるために、苦笑いをすることしかできなかった。

 透先輩はそれを見ると、テーブルの対面に腰を下ろす。


「で? どうしたって?」


 透先輩は誤魔化したことや探りを入れようとしてきたやり取りなどまるでなかったかのように、話を続けた。僕の返答すらなかったかのような切り出し方に、戸惑うことしかできない。

 透先輩が何を考えているのか分からなかった。


「……書いてたんだろ?」


 その声は、音程が低く静かだ。

 真剣であるかのような。重要なことを打ち明けるかのような。透先輩も、これが一長一短に解決する話ではないと分かっているかのようだった。


「行き詰まってます」

「みたいだな」


 書いていることが分かれば、わざわざ言わずとも明白だろう。頭を抱えて悶えていたのだから、よっぽどの鈍感じゃなきゃ気がつくものだ。透先輩は勘が鋭いほうだから、気がつかないほうが難しいくらいだろう。


「何に行き詰まってんの?」


 透先輩は、僕が愚痴ると思っていないようだ。先手を打つかのように、次の問いが投げられた。

 この辺り、手抜かりはない。だからこそ、透先輩は用意がよく隙がなく見えるのだろう。実際、隙はそうない。羽奈さんにどれだけくたびれた姿を伝えられたところで、想像することはできないくらいには、隙はなかった。


「……色々と」

「話す気ないって?」


 透先輩はのんびりと答えて、手のひらを身体の後ろにつく。天井を見上げている姿は、とても自然だった。責める気もなさそうだ。


「気がないっていうか、どうにもこうにも、全部直したほうがいいんじゃないかって感じなんですよね。大体、透先輩プロでしょ」

「プロでしょ、って何? なんか、関係あるか?」

「素人の身で、内容で具体的過ぎるアドバイスくださいとは言えないでしょ」


 透先輩は僕の意見に目を瞬いてから、からっと笑った。


「蒼汰はとてもしっかりしてるな」


 感心したように漏らす透先輩に首を傾げる。

 事実を口にして、しっかりと言われても意味が分からない。そんな僕をよそに、透先輩は身体を前のめりに姿勢を変えて、テーブルに肘をつく。


「そこまで気が回るってのは珍しいと思うぞ。そりゃ、まったくいないってことはないだろうし、大抵の人は気を揉むかもしれないけど。でも、やっぱり気になって聞いちゃうもんだろ? 探る意図がなくなっても、技術を聞いているって認識が薄くても、興味はあるだろうしな。他意なく聞いちゃうってことは往々にしてあるよ」


 つらつらと語られる内容には、ごく自然に頷いた。

 だが、透先輩はプロなのだから、その技術は容易に明かされるべきものではない。今までだって十分だったかもしれないが、ここから先は、作品を見て評価して欲しいと同等だろう。だから、自重する。それは僕の中ではきちんと筋道立っていた。

 だから、理由を説明されたとしても、しっかりしているという分析になるのには納得しかねる。僕が理解できてないと分かったのか。透先輩はますます愉快な顔になった。

 そうして、テーブル越しに手のひらで僕を呼ぶ。透先輩はスキンシップに躊躇いを持つほうではないが、不必要にパーソナルスペースを割ってこようとする人じゃない。同じ空間にいる人間をわざわざ呼びつけるなど、あまり見たことがなかった。

 むしろ、距離があっても近しいものであるかのように振る舞う。そうして、千佳先輩の精神を逆撫でしているのをよく見た。

 特に品田の事件があった後は、しばらく自分たちが特別だとばかりの言い方をしていたものだ。近づけば拳が飛んでくると分かっているから、距離を取っているようだった。そういう距離を見定めて生きている。

 その透先輩へ呼ばれて、じりじりとテーブルのそばに膝で移動した。


「弁えている蒼汰くんには、プロの大先生がアドバイスしてやろう」

「はぁ」

「プロット、作ってただろ」


 とんとんとテーブルの上を叩かれて、呼ばれた理由に気がつく。

 僕はそばに置いてあったノートをテーブルの上に置いた。中身は試行錯誤でぐちゃぐちゃになっていて、透先輩に見せるのは気恥ずかしい。僕は置いたノートの上に、手を置いたままでいた。

 透先輩は強引に言葉を投げることもあるが、人の機微が分かる人だ。僕の心情を察したようで、苦笑になった。


「まとめたところとか。蒼汰が見せてもいいと思うところだけでいいよ。もしくは、説明してくれ」

「……修羅場の書き方が分かりません」


 見せるには勇気がいって、だから妥協の部分に乗っかって一言にまとめる。透先輩は困り顔になって、指先をテーブルに叩きつけていた。視線が天井をうろうろしているので、苛立っているというよりは考えているようだ。


「結局、青春ラブコメを書いてんだっけ?」

「はい」

「つまり、三角関係的な修羅場ってことか……」


 テーブルを叩いていた指先が離れていき、顎に当てられる。考える人のポーズのまま、透先輩は固まってしまった。

 やはり、情報量が少な過ぎるだろうか。途中で作品を他人に見せるのは、抵抗感が拭えない。きっと、透先輩は半端であることにケチをつけたりしないし、無茶苦茶なアドバイスで僕を掻き乱したりはしないだろう。

 日頃はからかわれているが、その場面を間違うほど軽率だとは思っていない。この抵抗感は、相手が誰であっても起こる僕の問題だ。だから、どうしても戸惑って、透先輩の出方を窺うしかできなかった。

 透先輩はしばらくそうしていたかと思うと、ゆっくりと顔を上げて僕のほうを見る。さっぱりした顔ではなかったので、解決案が出たわけではないのだろう。

 だが、真正面から見据えられると、目を逸らせない。それくらい神妙な顔をしていた。


「蒼汰はたくさん本読むだろ? 修羅場のレパートリーだって色々見てるんじゃないのか」

「どうしても似てくると、似てるなと思って手が止まるんですよね」

「独自のアイデアを含ませれば、似てるくらいは気にしなくても大丈夫だぞ。ラブコメなんて、言ってしまえば男女の仲について書く王道を延々と繰り返しているくらいだからな。そこはキャラクターやアイテム、シチュエーションで中身が変わっていくものだろ」

「……もちろん、それは分かってるんですけど、それとは別に修羅場のキリキリ具合が足りないっていうか」

「最終地点は決めてるんだよな?」

「透先輩がアドバイスしてくれたんじゃないですか」


 だから、何度も考えて設定し直した。修羅場の後、どこに落ち着くのかはちゃんと考えてある。だが、そこを見定め過ぎていて、無難に着地してしまっている節が否めない。予定調和であるような、そんな先が透けているのだ。


「じゃあ、それと逆のことをしでかせばいい」

「逆?」

「倒れたと思ったヒーローが生き返って相手を打ちのめしたら燃えるだろ? 逆張りすることで、修羅場を演出できるってことだ」

「ラブコメだとすると、仲が引き裂かれるってことですよね」

「そうだな。自分か相手か第三者によるものか。その違いで収集の仕方が変わってくるけど、落差があればあるだけ修羅場らしくなるだろ?」

「透先輩も少女漫画だし、修羅場書きますよね? どんなの書いたりしているんですか?」


 聞くのは悪いと思っていたが、導かれるように口が動いていた。ここまで読み切ってのことであれば、透先輩はあまりにもうまくできすぎではないだろうか。信じたくないくらいだ。


「俺はなぁ。今んとこ、まだもだもだしているっていうか、両片想いなのがすれ違ってる状態の話だから、とんでもない修羅場って書いてないんだよな」

「すれ違いも立派な波じゃないですか」

「まぁ、そうだな。でも修羅場が書きたいんだったら、すれ違いだけじゃ弱いかもな。プラスアルファがあったほうがいい」

「すれ違いの間に入ってくる他の人間の影とかってことですか」

「単純に言えばそうだな」


 話すことで見えてくることはある。自分でもそういう考えはあったが、こうして会話をしていると少しずつ開けてくるものがあった。それだけで話が進むとは思えないけれど、一人で鬱々としているよりはずっといい。


「今の流れが気に食わないときは書き直したほうがいいですか?」

「一端放ってみれば?」

「え?」

「まぁ、長く放ると完全に行き詰まるかもしれないからやめといたほうがいいけど、ちょっと息抜きするだけでも随分変わるぞ。散歩でも図書館でも銭湯でも何でも行ってくればいいし、荘の連中と話すだけでもいいだろ」


 息抜きなんてのは、僕だって思いつく。

 だが、こうして改めて離れることを他人に認められると、焦りが軽減された。そうか。休んでいいのか、とわけもなく追いつめられていたことに気がつく。

 別に僕は仕事で行っているわけじゃない。何かの締め切りに向かって投稿しようなんて考えているわけでもない。栞は待ってくれているかもしれないけれど、締め切りを切られてはいなかった。だから、異常に根を詰める理由はない。

 僕はふーっと息を吐き出して、どっと力を抜いた。テーブルに頬を寄せると、ひんやりとした冷たさに溶けていく。

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