第四章

美術教師(仮)①

 小説が好きだった。だから、書いてみようと思った。今の話じゃない。中学生のころの話だ。

 そうして、書くまでの時間はそう長いことはかからなかった。最初ってのは、腰が軽いものらしい。今の自分とは違うアクティブさだった。だから、書いてすぐにできあがった短編をネットに上げることへも抵抗はなかった。

 今はどこにだって上げられる。より取り見取りのひとつを選んで、僕は軽い気持ちで小説を上げた。

 だからって、早速多くの人に見てもらえるわけではない。ぽつりぽつりとPVがあった程度で、コメントなんてものはなかった。星やお気に入り、ブクマだってひとつふたつあればいいほうで、とても微々たる反応しかなかったものだ。

 それでも、反応があるのは楽しかった。ただ一人で黙々と書いているよりは、ずっと面白さを感じられていたと思う。

 そして、あるとき一本の短編がランキングに載った。ラッキーパンチ。またはビギナーズラック。そういった類で、本当にたまたまだった。僕自身、今までと大きく違う作品を上げた自覚もなかったし、ランキングに入ったと言っても、何とか中くらいに食い込んだというくらいのものだ。

 だが、今までが細やかだった分、十分過ぎるくらいの反応をしてもらえた感触があった。少なくとも僕には初めての経験で、浮かれていただろう。

 PVは無論、お気に入りやブックマークもいつもよりも数があった。コメントは短くて簡易的な感想も多かったけれど、何もなかったことを思えば、それだけで舞い上がれる。評価がすべてじゃない。けれど、自分の価値で創ったものを他人に共感して面白がってもらえる。その体験から得られる充足感はかけがえのないものだった。

 そして、僕は長編へ挑戦し、毎日のように小説を更新した。先人にならった投稿の仕方を覚え、長くなり過ぎない分量で投下していく。

 たくさん書き進められたときは、一日で何話か一気に更新したこともあった。毎日必ず続けていると、閲覧者は少しずつ伸びていく。決して、爆発するようなことはなかった。地道な伸びであっただろう。

 だが、それが三ヶ月以内に起これば、当人にとっては紛れもない変化だ。調子に乗っていたわけではない。いや、多少は乗っていたのかもしれない。見てもらえていることが当たり前と呼べるくらいには、胡座をかいていただろう。

 それでも、内容で妥協したつもりはなかった。自分の世界を書くことに、誠心誠意真心を込めていた。それだけは、胸を張って言える。

 だからこそ、僕は何気なく残された罵詈雑言の荒らしコメントに打ちのめされてしまったのだ。

 もちろん、ネットと悪意は切り離せない。そうでないにしても、自分に勝手がいい世界の妄言を吐いているのだ。気に食わないと対立意見を持つ人はいるだろう。そして、ネットの匿名性はその反発心の制御力を弛ませてしまうと、分かってはいた。

 実際、SNSでそうした悪意を撒き散らす人を目撃したこともある。そのときだって、不快感はあったし、すぐにブロックをかましたり、内容如何によっては報告をしたりしたこともあった。

 だが、それはあくまで他人を標的にしたものだった。僕はどこまでいっても第三者で、だから不快感なんて言葉に取りまとめてしまえる感情で済んでいたのだ。

 覚悟がなかったわけじゃない。それでも、初めて向けられた言葉の刃は、僕の深いところに突き刺さって大量出血の原因を作った。その刃は抜けずに、じくじくと身体を蝕む。毒でも塗られているかのように、日に日に精神を削った。

 たいしたことじゃない。罵倒してくるのは一人で、もっと色々な人が褒め言葉やブックマークで意思を示してくれている。

 そんなふうに励まし合える創作仲間なんてものがいたら、事態は違ったのかもしれない。それこそ、透先輩のような存在がいれば、僕はもう少し気楽に物事を受け止めることができていたはずだ。

 けれど、そのときの僕にそんな存在はなかった。そして、鬱々と一人で悪意を煮詰めて飲み込んでしまうばかりになってしまった。

 思い悩んだ僕は、最終的に撤退を選んだ。小説を非公開にしてしばらく、アカウントまで削除した。パソコンの中に投稿した小説は残している。それを消すまでの無謀さはなかった。自分の作品は嫌いじゃなかったのだ。

 だからこそ、傷ついて、それ以降書くことに回ることはなかった。……正式には、書いてみようと試みたものの、筆が進むことはなかった。

 面白くない。整合性がなくて何が言いたいのか分からず意味不明、などと罵倒込みで指摘されたことが脳内を駆け回り、すぐに運動神経を止めてしまった。

 そして、その機能が回復することはないままに時が過ぎていたのだ。だが、栞に出会い、透先輩に背を支えられ、僕は今になってようやく動き出せるようになった。

 まだ恐怖がないわけではない。栞に読んでもらうことに、緊張感を抱くこともある。それでも、今は書いてみようという気持ちが動いていた。傷が癒えたのか自信はない。けれど、時間が解決することもある。

 アドバイスをくれる先輩もできた。その先輩は自分よりもずっと厳しい世界で、日夜しのぎを削っている。競い合うなんて傲慢だろうが、励まされることは多い。僕は透先輩の姿に勇気をもらっていた。

 そうして、元の自室に戻ってからも、僕はしこしこと執筆を続けている。栞とともにいなくなれば、活力がなくなってしまうのではないか。そんな心配もあったが、杞憂に終わっている。

 ただ、だからといって、進捗が順調かと言われれば、それは別問題だった。プロットの半分以上を進んだところで、行き詰まることが増えてきている。

 パソコンの前に座ったまま、ぼーっと天井を見上げていた。ここで、ネットに走らないだけマシだと捉えるべきか。天井というものが栞に繋がっていることに苦い気持ちになるべきか。半々な気持ちで立ち往生していた。

 ただ、投げ出してしまおうという気にはなれない。その感情の火が消えていないことを意外な気持ちで俯瞰している。それが少し嬉しい。

 過去の挫折を乗り越えられたような気持ちがしている。作品への懊悩はなくならないけれど。それはそれで前進しているように思える。随分簡単に考えているのかもしれない。ただ、ポジティブに考えられているのもまた、成長のひとつだと納得することにしている。

 今はとにかく、小説を書くことに夢中になっていた。苦しさも多いが、楽しさも見出せている。

 順調に進めているときは、トリップしているかのように昂っていた。脳内麻薬が出ているというのはこういうものか。

 以前にも感じていたこともあるが、今のほうが幸福なこととして受け止めることができている。遅々として進まないことも、贅沢な悩みであると思えていた。

 今までとは違って、一人で悶々と悩んでいても、人の気配を気にすることはない。これだけは、自室に戻れてよかったことだ。他にも常に栞の気配へ神経を配る必要がなくなったのはよかった。

 けれど、後ろ髪を引かれる気持ちもある。前日に千佳先輩のことがあったこともあり、当日はあっけなく部屋へ戻ることになった。

 そうでなくても、何か情緒めいたことが起こると期待していたわけじゃない。それでも、名残惜しさはあったし、もう少し何かあってもよかったのではないかといじましく思ってしまうことはやめられなかった。

 ただ、そんな一方的な感情で、栞に何かを持ちかけられるわけもない。だから、あっさりと離れることになった。同時に、一人になれる時間が持てるようになって、気持ちが安らいでいることは事実だ。

 息苦しいとは思っていなかった。そんなことを思う暇もなかったし、思うのは悪いとさえ思っていたのかもしれない。だが、こうして一人になると、やはり気が張っていたのが分かる。僕はその安息を手にしながら、日々邁進していた。

 そして、栞と接する時間が僕の癒やしになってもいる。僕らは千佳先輩の言葉を軸にして、一緒に登下校をしていた。図書館通いも含まれ、その点では僕らは以前と同じ日々を送っている。

 部屋に戻ったからといって、今までの関係値がゼロに戻るわけではない。その事実にぶち当たって、名残惜しさも少しずつ薄れていった。

 おかげで、栞との距離感は、穏やかに固定されてきたように思う。このくらいがちょうどいい、というのは強がりもあるだろう。

 近しいことに誇らしさを抱いていることもあったのだ。それがなくなった欠落感はあった。だが、それよりも現状を大切に思う気持ちのほうが大きい。不相応に近づき過ぎていないほうが、好意とも冷静に向き合える。

 そうして、感情にけりがつくと、僕は現状に胸を撫で下ろせた。好きだと強く認めると、どうして同じ部屋に住んでいられたのかと疑問を抱く。それほどまでに、異常な空間であった。

 天井が落ちてきたというとんでもないアクシデントからの流れのせいで、神経が鈍っていたのだ。他の誰も当たり前のようにしていたのだから、そこに慣らされていたとも言える。

 とにかく、距離ができたことは、僕にとっては感情を認めて自覚を固めるにはちょうどいいものだった。何にせよ、直った以上戻ることには決定的だったわけだが。

 おかげで、僕は落ち着いていた。栞との雑談もただただ楽しめている。僕の隣で読書しているのも、前よりもずっと貴重なものと思えるようになっていた。

 公道で読むのも引き続いている。甘やかすのもほどほどにすべきだとは思っているが、それを認めてしまったのは僕だ。あの甘酸っぱいやり取りが守られていることが、僕を甘くしていた。

 千佳先輩に大義名分を与えてもらえていたのはよかったかもしれない。それを拠り所にしながら、僕は栞との距離を平穏に受け止めて生活していた。

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