僕が恋する夏目な彼女④
和やかな土曜日の午後だった。明日には部屋が戻るという。僕はノートを広げながら、執筆に向かっていた。
恥ずかしながら状況は栞にも筒抜けで、
「できたら見せてね」
とごく自然に話を持ちかけられている。
重みはない。ただ、そこに小説があるから、とばかりの軽さは僕にはありがたいものだった。変なプレッシャーがない。それがないだけ、僕の筆は自分のペースで進んでいけていた。
まぁ、順調とは言えないけれど。進んでは戻り、戻っては進む。一歩進んで二歩下がりながら、僕はスマホに向かい合っていた。栞も読書にかまけているのだろう。他の住人が何をしているのかは分からない。けれど、荘は静かだった。
とても和やかな午後だ。そこに、にわかな賑やかさが漂ってきた。閉じた扉の向こう側から、女性特有の高い声が跳ねるように届いてくる。
顔を上げて窓のほうを向くと、隣からも身動ぎをする音がした。
「何だろう?」
向こうも僕の物音が聞こえているのだろう。呟いた栞に導かれるように窓を開くや否や、声が飛び込んできた。
「だから、しつこいって」
千佳先輩の声に、思わず隣を見てしまう。そこには衝立があるだけだが、思ったことは同じなはずだ。
今、千佳先輩には問題がある。あれ以来……といってもたったの二日前のことだが、あれ以来一切の音沙汰がなかった。
だが、抱えている問題がなくなったとも聞いていない。ここで該当するのはそれしか思い浮かばずに、僕は状況を確認しようと腰を上げた。部屋を出ようとすると、入り口で栞と鉢合わせる。
やはり、思ったことは同じだったようだ。
「どうしたんだろう?」
「つきまといの人が来ちゃったってことじゃないかな?」
「やっぱり?」
僕らは二人揃って廊下へ出た。縁側からサンダルをつっかけて中庭へ下りる。栞も僕の後ろをついてきていた。そうして、玄関と門への間にまで状況を見に行く。
ただの野次馬だっただろうが、荘内で起こったことだ。気になってしまうのもやむを得ない。何より、僕らは当事者になりかけていたところだ。
そうして顔を出したところで、千佳先輩の前にはすらっとした男が立っていた。有名私立の制服を着た真面目そうな人だ。それこそ、透先輩が騙すんじゃないぞと口にしそうなタイプだった。
付きまといになるのが信じられない。だが、千佳先輩とその男の距離感は、訪ねてきた相手に取るものではなかった。この人が、付きまといなのだろう。千佳先輩のしつこいという叫びを聞いても明らかだ。
そして、男の目が僕を捉えて、眼鏡奥の瞳が鋭くなった。敵視されて、身を固めてしまう。相手が不良でないことが、余計に強い敵対構造を印象づけた。
男はギラギラとした瞳のまま、僕のほうへとやってこようとする。その間に千佳先輩が立ち塞がった。
「何するつもりなわけ?」
「その男がいるから、俺の話は聞くこともできないわけだろ?」
「だからって、この子に何かを言ったところで何も変わらないけど」
千佳先輩はとてもドライだ。荘で見せているようなラフさも、冗談めいた口調も消えている。
透先輩が言うように、千佳先輩は可愛い。その見た目から冷酷な言葉が出ると、冷え冷えとした空気が漂う。
男だって、千佳先輩の言葉が見当違いなことを言っているわけでないことは理解しているようだ。有名私立の真面目男子らしく、賢いのだろう。理性的であるようだった。
だが、理性的でありながら荘まで付きまとってきたというのなら、それはそれで厄介極まりない。
「大体、あたし断ったよね?」
「理由を聞きたいって言ってるだけだろ」
「だから、品田と付き合うとか考えられないって言ってんじゃん。それ以上に何か必要なことってある?」
「じゃあ、なんで連絡先を聞いてきたりしたんだよ」
面倒なやつを引っかけてるな、というのが素直な感想だった。品田という男には悪いけれど。
「それくらい、誰にだってするでしょ」
「だって、千佳さんってそういうつもりで連絡先を聞いて回って聞いてたよ」
「……そうやって、噂だけを真に受けて、勘違いしてるだけでしょ」
微妙に空いた間には、少し遠い目になってしまった。
恐らく、そう違わない事実の噂があるのだろう。そこまで爛れていたとは知らなかった。透先輩が再三再四言うわけだ。こうして対峙しているのを見るとよく分かった。
「今ちゃんと断るからそれでいいでしょ」
千佳先輩は淡々とし過ぎている。品田は眉間に皺を寄せて、不服を訴えかけていた。体温が低いほうも、体温が高いほうも始末に負えない。
僕だって来てみたはいいものの、これ以上何ができるわけでもなかった。栞なんて、もっと部外者だ。僕と栞は目線を合わせて、困惑を分かち合う。こんなアイコンタクトがうまくいったところで、ちっとも嬉しくない。
「……でも、遊んでるんだよね?」
「遊ぶにしたって、人は選ぶわよ」
「じゃあ、どうして俺は遊ぶにも不適切と判断したのか具体的な可否の理由を教えてくれないか」
生真面目というのは、こんなに厄介なのかと頬が引きつった。
僕でさえそう思うのだから、千佳先輩の煩わしさは桁違いだろう。しかし、千佳先輩の表情は揺れない。その無表情が何よりの拒絶だっただろうが、品田も引く気配がなくて揺らがなかった。頑なな空気は息苦しい。
僕と栞は、再び目線を合わせる。もう荘の中へと戻りたくなったが、下手に顔を出したせいで戻るに戻れない。せめてもの救いは、まだ距離があることだろう。だが、その半端な距離が自分たちの首を絞めている気もした。本当にただの役立たずだ。
千佳先輩は無表情が通じないことに観念したのか。肺の奥からすべての息を吐き出そうとするかのようなため息を零した。そうして、吐き出した分の空気を吸い込んだ。話し出すための前置きのような仕草に、品田だけではなく、僕まで身構えてしまう。
だが、すぱんと切れ味よく振り下ろされたのは、千佳先輩の斧ではなかった。
「そういう細かいことをぐちぐち言うところが千佳子を煩わせてるって気がついてないのか?」
すっと品田の後ろに姿を現したのは、透先輩だ。出かけていたのだろう。いつもよりもバッチリ決まっているイケメンは凄まじい。
僕を見たって敵視するだけだった品田が、透先輩のルックスには慄いていた。シックなジャケットにパンツ姿の透先輩は、高校生に見えないというのもあるだろう。
品田は慄いていたが、それでも完全に身を引いたりはしていなかった。そこまで食い下がることかと思わざるを得ない。どれほど千佳先輩に魅了されているのだろうか。こればっかりは、当事者でなければ分からないだろう。
ただ、こうした付きまといのような真似が悪手であることは確かだった。
「聞いてるか?」
突然の登場人物に面食らった空気は停滞している。誰も喋らないものだから、透先輩が言葉を重ねて空気を引っ掻き回した。
「……貴方は千佳さんの何なんですか」
「同居人?」
言いながら、透先輩は軽快な調子で品田の横を通り抜け、千佳先輩の肩に腕を回す。馴れ馴れしいスキンシップに顔を顰めたのは、品田も千佳先輩も同じだった。
「それ以上かもな」
飄々とした態度で補足して笑う。目を細める透先輩は泰然自若としていた。
「嘘はやめてください」
毅然と言い放った品田の声は、千佳先輩を相手にしていたときよりずっと低い。威嚇と呼べるそれを、透先輩は身長を盾に見下ろしている。
「嘘? どうして、そう思った? 千佳子がこういう顔をするのはただ照れてるだけだよ」
「透」
半目で透先輩を睨み上げた千佳先輩を、透先輩が意味深に見下ろした。
その目線がアイコンタクトになっていることは分かる。何を通じ合ったのかは分からなかったが、千佳先輩はひとまずそれ以上の言葉を続けることはなかった。透先輩に主導権を渡したのだろう。
意外な心地がしたが、以前にも助けているということだった。いくらか寄せる信頼があるのだろう。二人の関係性は僕にも推し量れない。
品田なんてたった今出会ったばかりの人間が、見極めるなんて到底無理だろう。
「……千佳さんを千佳子って呼ぶ時点で、よく知らないんでしょう」
勝ち誇るにしては、浅い。
だが、品田の着眼点は悪くなかった。千佳先輩は初見の人にさえ、千佳と呼ぶことを求める。千佳子と呼ばれることを好ましく思っていないことを知ることになるのだ。それを無視して千佳子と呼び続ける透先輩の異質性は間違っていない。
一聴すれば、仲が良くないと取れるだろう。だが、透先輩にとっては何の隙でもなかった。
「なんで?」
あっけらかんと首を傾げた透先輩に、品田が表情を顰める。それは、引き続き千佳先輩にくっついて離れない透先輩の行動も含まれているはずだ。
千佳先輩は透先輩のなすがままになっていて、振り払うこともしない。いつもなら、とっくに離れているだろうに。肩を組んだままの透先輩の指先が、宥めるように肩を叩いていた。そういうのが神経を逆撫でしているような気がする。それは、品田だけでなく千佳先輩のほうもだ。
千佳先輩は腕を組んで、指先で二の腕をタップしていた。苛立っているのが、品田へのものなのか。透先輩へのものなのか。どちらにしても、透先輩が場の感情を手玉に取っていた。
「千佳さんは千佳子って呼ばれるのを好みません」
「だからって、俺が千佳子を千佳子と呼ばない理由にはならない。千佳子は千佳子だろ?」
少なくとも、今の周囲では透先輩だけが呼ぶ名前を連呼する。それが特別であると知らしめるかのようだった。透先輩は柳のような態度を崩さない。
気さくに告げれば、敵対者は煽られるものだ。
「何ですか、それ。本人が嫌がる名前を呼ぶってのは、嫌がらせじゃないですか」
「千佳子が嫌がってるのは、らしくないって思ってるからだろ? 俺は別にらしくないなんて思ってない」
「は?」
そう言ったのは千佳先輩のほうで、心底怪訝な顔で透先輩を見上げていた。肩を抱いているのだからかなりの至近距離だが、二人揃ってその距離に動揺する様子は見受けられない。
僕なら、相手が誰でも耐えられそうにもなかった。そもそも、肩を抱くなんて大胆なことができないだろうけれど。
にたりと笑った透先輩は不遜で、品田を煽ろうとしたのだろう。肩を掴んでいた手のひらが、千佳先輩の頬に伸びる。大きくて角張った透先輩の指先が、千佳先輩の頬を覆った。その男らしい指先が、千佳先輩の小顔を際立たせている。
美男美女の二人は、映画の一場面を演じているかのようだった。
「俺にしか分からない千佳子らしさがあるんだよ。君が知らないことも俺は知ってる」
「意味深な言い方しないでよ」
「何か間違ったことを言ってるか? その男よりも俺はお前を知っている自負がある」
「言い方ってものがあるでしょ」
「事実を取り繕うことないだろ」
結局これは、いつも通りの攻防であるのだろう。含みを持たせて口喧嘩しているだけだ。
だが、そうすることで、二人だけの会話になる。元々、二人の会話には二人のテンポと理屈があった。内容はさておき、特別と言えば特別だ。それを今、わざとらしく使ってみせている。
そして、それは品田に痛烈なダメージを与えていた。自分と対峙しているはずなのに、会話から弾き出されている。それは不服と屈辱を生み出して、品田の表情を歪ませた。顰めっ面だったものが、今や鬼の形相と言ってもいい。
そこまでか、という感心と疑問に押されながらも、気持ちに心当たりがないわけではなかった。
それは、千佳先輩がどうの、という話ではない。透先輩のラフさが、やたらと目に留まって無視できないほうだ。
栞と意気投合して、にこやかに笑っていた爽やかさが思い返される。何の悪意もないその態度でさえも、人の心をざわめかせるような部分が透先輩にはあった。少なからず、意識している人間には、近づいて欲しくないものだ。
そして、その卑しさと狭量さに落胆する。そうすることで、透先輩のほうがよっぽどできた男のような気がするのだ。ずっとお似合いで、釣り合っているかのように。
それは僕の一方的な感情でしかないけれど、品田の感情の一端くらいは理解できることだった。
ただ、僕と品田とではその思惑の有無に差がある。透先輩は今確実に蹴散らすために品田を煽っていた。そうしなくたって、人の気持ちをざわめかせる人が本気を出してくれば、人心を操作するくらい赤子の手を捻るようなことだろう。
二人から弾かれている品田の表情は歪曲していた。
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