僕が恋する夏目な彼女③
その日の夕食は、全員が揃い、羽奈さんは早速千佳先輩の状態を伝えた。
「またかよ」
呆れ半分、怒り半分で零した透先輩は渋面になる。その顔を見るや否や、千佳先輩も同じような顔になった。
僕らは男女に分かれて長机に着席している。二人と三人なので、正面と言っても、微妙に正面にはならない。だが、先輩たちは正面切って睨み合っていた。不穏な空気がピリピリと流れる。
しかし、羽奈さんはその空気をものともしない。慣れている人間というのは、こういうとき頼りになる。
「とにかく、気をつけてよ。蒼汰くんと栞ちゃんもね」
「なんで?」
僕らが俎上に載せられると、透先輩は強い眼差しでこちらを見た。
栞はご飯を食べていて、口が塞がっていて答えられない。僕も虚を突かれて口ごもってしまい、透先輩は事情を知っているだろう羽奈さんへ視線を戻した。千佳先輩に聞かないのは、真相が明かされるかが不明だったからだろう。
「千佳ちゃんが巻き込んだんだって」
羽奈さんは二人がギスギスしかねないことに、気を回すつもりはないらしい。気を遣ったところで変わりないと諦めているのかもしれないが。
「……お前なぁ」
「目の前に蒼汰がいたから合流しただけだって」
嘘とまでは言わない。だが、正式ではなかった。透先輩は訝しげな顔をする。千佳先輩の言葉が真実でないことは、予想済みであるようだった。
「腕、組んでましたよ」
口中のご飯を嚥下したらしく、栞がぽろりと告げ口をする。栞に悪意はなかっただろう。真相を口にしているだけに過ぎない。透先輩が呆れ顔になった。
「場当たり的な対応するなよ。蒼汰が巻き込まれたら面倒だろ」
「蒼汰はあたしを放ったりしないもん」
「だから、迷惑をかけていいってことにはならない。栞に悪いと思わないのか」
「そりゃ、腕組んだのは悪いと思ってるよ? 栞も気になったみたいだし」
「なってません!」
否定する声は上擦っている。頬が薄ら赤くなり、目が逸らされた。透先輩は栞のあからさまな反応にわずかに目元を緩めたが、千佳先輩に視線を戻すころにはその緩さも消えている。
「反省してるなら、もうちょっとちゃんと相手して断れって」
「断ってるけどしつこいんだもん」
「そういう男を引っかけるなよ。いい加減、分かるだろ」
「今回は大丈夫だと思ったの。真面目くんだったし」
「そういう遊び慣れてない男を騙すのをやめろって言ってんの」
「別に騙してはないもん」
遊び人の会話とは、これほど不穏当で意味不明なものなのか。だが、二人は何の疑念もなく、トントン拍子に言葉を交わしていく。テンポがいいので、聞き心地はよかった。
「千佳子は遊びだろ? 真面目くんがそんなことを知っているわけじゃないんだから、騙したも同じだろうが」
「透だって、遊びに行くときに一切合切説明しないでしょ」
「それとこれとは別。そもそも、俺は最初に遊びだって言ってるもんよ。お前とは違います」
「あたしだって、期待持たせるようなことしてるつもりないもん」
しれっとした千佳先輩に、透先輩が深いため息を零す。それから、じろりと千佳先輩の容姿を睨みつけた。じっとりと身体を舐め回すように見られれば、当然不快だろう。千佳先輩の顔が歪んだ。
「遊んで回って相手をしてもらえるくらいには、自分が可愛いって自覚があるんだろうが」
「はぁ?」
「可愛い女の子が自分に絡んでくるだけで、十分気を持たせてるからな。勘違いもさせるし、騙してるのも一緒だ」
「え~、そんなことないし。蒼汰は勘違いしなかったよ?」
「そりゃ、蒼汰だからだろ」
「僕を何だと思ってんですか」
当たり前みたいに納得されて、呟かずにはいられなかった。胡乱な目になった僕に、二人がこちらを見る。
「千佳子の性格、分かってるだろ」
「栞のことがあるからね」
揃って寄越された返事は想像の範疇だったので、
「……そーですね」
と流しておいた。
二人とも、今は僕をからかうことに主軸を置いていない。もしかすると、千佳先輩はこのまま僕に流したかったのかもしれないが、透先輩はそう易々と千佳先輩を自由にはしなかった。
「こうして納得している蒼汰じゃない限り、勘違いさせるって言ってんだよ。自覚しろ」
「わざとじゃないし、それは仕方なくない?」
「だから、真面目なやつを騙すなって言ってる」
「だから、騙そうなんてしてないってば。ていうか、透ってそんなに嘘を嫌うたちだっけ?」
「いや? それはまったくない」
対立していたはずの透先輩が、突発的に同調する。暖簾のようにするっと抜けていく透先輩の態度に、僕は間が抜けたが、千佳先輩は気にした様子もなかった。
「だよね。嘘とか方便だもんね、透は」
「おい。語弊を招くようなことを言うなよ。俺の嘘はそういうんじゃない」
「じゃあ、何なわけ?」
千佳先輩の横柄な態度に、透先輩は飾り気なく答える。そのくせ、確固たる様子だった。
「漫画家だから」
千佳先輩は意味を取りかねたのか、睫毛を瞬く。二人の会話は衝突し続けているように見えて、応酬が成り立っていた。どういう親交なのかさっぱり読めない。
「物語は創作ってことですか?」
誰もが透先輩の会話に取り残されているところに、栞の声が忍び込む。
僕はすぐに合点がいった。透先輩も通じたことを嬉しそうに目を細めている。こういう顔をすると、本当にイケメンだ。うっかり見惚れるくらいには、色気がだだ漏れている。騙そうとしなくても女の子が寄ってくるはずだ。
「創作って言葉を使えば随分高尚に聞こえるし、間違いなく悪ではないけど、要はこの世のどこにも存在しない人間のどこにも存在しない物語を書き連ねてるわけだからな。偽りといえば偽りで、嘘と言えばそうだろ。実際。現実と混同しないでください、っていうくらいには夢物語だ」
「でも、それは嘘って言うんですか」
「突き詰めれば、そう変わらんって話」
「所謂、いい嘘ってわけ?」
「そういうもんだろ、ざっくりな」
透先輩の持論に反論するところはない。
むしろ、僕個人としては納得できるものだった。嘘だと確言はできないけれど、現実にない話を滔々と書き連ねているのだから、同じようなものだろう。栞も同意のようで、こくこくと頷いていた。
「栞ちゃんは俺のことよく分かってくれて嬉しいなぁ」
「あんたのそれも大概だからね」
透先輩の口からそういう言葉が出ると破壊力がある。僕だって引っかかったところに、千佳先輩からの冷淡な突っ込みが入った。半眼を向けられた透先輩は軽々しく肩を竦める。
「それこそ、ただの感想だし、栞相手にそんなことするわけないだろ」
「どうだか」
「蒼汰に殴られるよ」
「蒼汰にそんな甲斐性があるわけないだろ」
「殴るのは甲斐性って言わないんですよ、ていうか、僕を何だと思ってるんですか」
何かある度に、僕をやり玉に挙げるのをやめて欲しい。それを話の切れ目にしたように、会話が収束していくのもどうしたものかと思う。
二人にはそれが普遍であるようだが、僕としては釈然としなかった。そして、流れはそのまま放られる。最後には羽奈さんの元へ戻っていった。
「とにかく、気をつけなきゃダメだからね。他人を弄ぶような自己弁護の嘘はほどほどに」
「はーい。小縣先生」
呑気な千佳先輩の返事は本気で通じているのか分からない。それでも、羽奈さんはこれで話を畳んだ。今までもこうして取りまとめてきたんだろう。
千佳先輩と透先輩が矛を収めれば、僕らがわざわざ掘り返すこともない。自分をだしにされているのは釈然とはしないが、それを深追いしても僕にいいことはひとつもないだろう。
そうして場に流されるままに、僕らは食事を終えてバラバラに動き出した。いつかのように、銭湯に一緒に行こうという発言はそう何度もない。今日はそれぞれやりたいことがあるのか。見事な解散だった。
僕と栞も、揃って部屋へと戻る。意図があってそうしたというよりも、解散の流れに沿ってしまった感じだった。
僕も栞も、帰りに別れたきりだ。二人きりには気まずさがある。衝立のほうへと移動するのは、いつも通りだった。にもかかわらず、あえてそうしているような気がして落ち着かない。
それは栞も同じなのか。しばらくすると、物音がごそごそとテーブルのほうへと移動した。テーブルの上に教科書が開かれるのが見えると、そこにいるのだとはっきりと分かる。僕もじりじりとそちら側へと移動した。
宿題をしている様子の栞を見ていると、視線が持ち上がってくる。目線が合うと、頬に桃色が刷けた。ちょっとのことだ。それでも、こちらまで熱が上がってくる。
「……甘えてなんかないもん」
ぼそりと呟かれたそれが、心臓にクリティカルヒットした。否定のくせに、それはめっきり甘えているような響きを持っている。何ともたちの悪い一撃だった。心臓が握り潰されたようで痛いくらいだ。
「別に、いいよ」
我ながら、その言い分の甘さといったらなかった。いいわけがない。栞の甘えとは、結局のところ公道で読書することを含んでいる。だというのに、僕はするりと肯定を口にしてしまっていた。
栞の瞳がぱちくりと大きく見開かれる。黒い瞳が艶々と光っていた。
「よくないでしょ」
「分かってるなら、気をつけてくれよ」
甘えている。その感情を突き詰めることなく、ふわふわとした会話を続けた。ドキドキと跳ねる心音を抑える方法なんて分からないし、それを追及する勇気もない。
「……だって、蒼くんが付き合ってくれるから」
「甘えてんじゃん」
切り返せたのは、勢いだ。不貞腐れながら言う顔つきを見ていたら、ぽろっと零れていた。
栞は余計に不貞腐れては唇を尖らせる。それから、ぐっと唇を引き結んで、こちらを見つめてきた。それはまるで開き直るかのような態度で、栞は今までの比にならない爆弾が放り投げてくる。
「……ダメ?」
自分でも手のひらを返した発言だと分かっているはずだ。だからこそ、開き直ったような態度になっているのだろう。
ついでに、声まで喉にひっかかったようなか細さになっていた。その繊細さが、とんでもない威力で心を焦土にする。その中で燦然と輝く栞という存在を無視することはとても難しい。もう言い訳も何もできる状態ではなかった。
だからといって、認めたからって即座に行動に移せるわけもない。そもそも、そうしたことをしたいという欲求があるのかも、まだ不明瞭だった。未来図は描けていない。そんな行き当たりばったりで動けるほど、僕は勇猛ではなかった。
気弱なのか。慎重なのか。その判断は、こだわらないことにする。しかし、どうしたって衝撃が消えるわけではない。僕はそれに打ちのめされて、言葉を返すことができなかった。
その沈黙をダメだと受け取ったのか。栞の表情がしおしおと萎れていく。
「ごめんね」
「いや、違う。いいって言っただろ、最初に」
慌てて告げると、栞はそろそろと僕を窺った。本当に? とばかりの顔をしている。僕の視覚が確かかなんて分からないけれど、否定しなければならないことだけは分かった。
栞を不安にしておく気もない。ただ、それが恥ずかしいことに繋がるとは、そのときは考えられていなかった。
「君に甘えられるのは嬉しいよ」
実直さに気がついて、火がついたように顔が赤くなってしまったのは口にした後のことだ。
「だ、だから、気にしなくていいよ。ただ、僕がいないときは、やらないように気をつけて」
僕の焦りをよそに、栞は静かに言葉を聞いていた。感情まで静かなのかは分からない。ただ、表面上はいつも通りに静かだった。いくらか頬が火照っているように見えたのは、僕の贔屓でしかないだろう。
そして、栞は細々とした声で
「……うん」
と小さく頷いた。
それ以上は、お互いに突っ込まない。そんな余裕がなかったのは、僕も栞も同じだった。
栞はぎくしゃくしながら勉強に戻る。僕も衝立のほうへと戻って、布団の上に丸まった。自分の発言を省みて、悶えたくなるのを丸まることでどうにか抑え込む。
栞がどう思っているのかは分からなかったが、やたらとからからとシャーペンを転がしたり、ノートを捲ったり、消しゴムを落としたような音をさせていた。
じきに耐えられなくなった僕が、栞が眠りにつくころまで居間に逃げ出したのはあまりにもいつも通りだったと言える。
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