漫画のプロ!⑤
二人で銭湯にやってきたのは初めてのことだ。漫画家という職業柄だったからか。運動している姿なんて見たことはない。
けれど、その肉体は引き締まっている。割れているというほどではないが、引き締まって見えた。イケメンというのは、肉体まで整っているのか。そういう偏見を持ってしまいそうになるくらい、透先輩が整っていることには偽りがなかった。
ついその身体を見てしまっていたことに気がついたのは、透先輩が片眉を上げて笑ったからだ。それまで気がつかなかった自分には、どうにも気恥ずかしかった。
「なんだよ。そんな熱心に見て。見惚れちゃったか、蒼ちゃん」
「鍛えてるんですか?」
「まぁ、気持ちだけ。男の裸書くときにポーズつけるなら自分の身体のほうが簡単だからな」
「少女漫画って際どいとこありますよね」
「まぁ、際どくなくても水着とか着替えとかあるしな」
「なるほど」
謙遜する気は更々ないらしい。モデルにするにしたって、ある程度身体のラインがあればいいのでは? と思ったが、そこは素人意見だろうと飲み込んだ。透先輩にどれほどのプロ意識があるのか分からない。
「そんで? お前は最近どうなの?」
「どうって、どういうことですか?」
身体を流して湯船に浸かる。するすると流れながら会話も流れだった。生活と会話が繋がっているので、とても自然だ。
「なんか悶々としてんじゃん」
「……そこまでじゃないですけど」
「悩んではいると」
僕はむっと黙り込む。透先輩はからっとしていた。悩みを聞いてやろうと、気負っている様子もない。
「何? 溜まってんの?」
「やめろ」
気負ってはいないが、心配してくれているのだろうと思っていた。その口から飛び出てきた言葉は頓狂極まりない。下世話さに半眼すると、透先輩も半眼でこちらを見てきた。僕がそんな顔をされる謂れはない。
「ふざけてないからな。女子と二人じゃ、色々あんだろ」
「……ご心配どうも。大丈夫ですよ」
心配しているのは本気のようだ。確かに、着替えの気配などがあれば、そわそわしてしまうことはある。完全な的外れというわけでもない。
ぼそぼそと返すと、透先輩はけらけらと笑った。銭湯にぐわりと音が響いて、いたたまれない。他のお客さんはいない時間帯で助かったが、いたたまれなさは変わらなかった。
「うるさいよ、透」
隣からの注意が飛んでくれば、尚のことだ。思わず、天井付近の繋がっている空間へ目を向けてしまう。透先輩はその注意も意に介さずに笑っていた。
「悪かったよ。蒼汰が不貞腐れるから」
「なに? 蒼汰、どうかしたの?」
向こうも他のお客さんがいないのだろう。千佳先輩と透先輩は、場所も気にせずに軽やかに会話を交わす。銭湯で声を上げるのに躊躇いがないのは、慣れだろうか。
僕はマナーのほうが気になって、会話に入るのを躊躇ってしまう。
「んー? 悶々としてるんだって」
「悶々? 欲求不満?」
「だから、違うって言ってんでしょうが!」
僕は千佳先輩の素行を把握しているわけではない。だが、透先輩は千佳先輩をビッチと称する。実際、遊び歩いているのか。帰りが遅いこともあった。ただ、具体的な会話をしたことも、状態を聞いたこともない。
しかし、悶々からあっさりと性的な部分に繋がるところには、その素行を感じる。それは透先輩にも似ているような気がしたが、突っ込む余力はなかった。張り上げた僕の声に、千佳先輩の笑い声が響く。
やっぱり、反応が透先輩とそっくりだった。
「何も恥ずかしいことじゃないじゃん」
「蒼汰くんも思春期だもんね」
「母親みたいな反応しないでくださいよ、羽奈さん!」
五歳差もあれば、弟のように扱われるのは許容できる。だが、たった五歳でしかない。数年前の年頃のことをあげつらうのは勘弁して欲しかった。何より下世話であるのだから、尚のことだ。
栞からの反応がないのが恐ろしい。
「だって、そういうものじゃない? 高校生って」
「大学生だってそんな変わんないでしょ」
「千佳子の人脈は当てにならん」
「はぁ? 透に言われたくないんだけど」
「お前よりはずっとマシだわ」
「あんたがあたしの何を知ってるっての?」
「知ってるわ! お前、ろくでもない男に付きまとわれて大変だっただろうが」
透先輩は厳しい顔をして、怒鳴り散らす。真剣に叱責しているようだ。しかし、その表情が千佳先輩に届くことはない。むしろ、言葉だけではヒートアップの材料になってしまったようだ。
「それは解決したじゃん。そんなこと引っ張り出してくるとか、しつこい」
「こっちだって迷惑被ったんだから、当然の記憶だと思うけどな! 羽奈さんにも迷惑をかけただろうが」
「うっ」
羽奈さんを盾にされると弱いらしい。思いきり黙り込んで唾を飲み込む音が聞こえてくるほどだった。
「私は気にしてないからいいよ。千佳ちゃんのほうが当事者として大変だったんだし」
「ストーカー被害ってことですか?」
僕らが来るより前の話なのだろう。物騒さを感じて尋ねると、透先輩は随分渋くなった。にもかかわらず
「そうそう」
と答える千佳先輩には緊張感がない。当時がどれほどの被害になったのかは分からないけれど、それにしたって能天気なのは分かる。
「っていっても、ちょーっとだけ付きまとわれたってくらいで、そんな深刻なものじゃないから」
引き続き本人は滔々としているが、透先輩は忌ま忌ましい顔になっていた。よほどのことがあったのではないか、と邪推が捗る。それ以上、くちばしを挟むことはできなかった。
「あれで懲りないお前の精神性が信じられない」
「遊んでいる透に言われてもダメージないから」
「ビビってたくせによく言う」
吐き捨てるような言いざまは、音だけしか届かない千佳先輩にはより辛辣に届いたことだろう。向こう側から、小さな舌打ちが聞こえた。
雰囲気が悪くなっていく。これは主に透先輩のせいだ。けれど、千佳先輩の能天気さも理由になっているだろう。二人の感覚の違いが、ギスギスと音を立てていた。
「無事だったんですから、ひとまずよしとしましょう」
「……そうですよ」
僕が苦し紛れに零した仲裁に、栞の同調が上がる。今まで聞き役に回っていたので、急に上がった声にビックリした。
向こうに栞がいる、という意識がやにわに立ち上ってくる。千佳先輩だって羽奈さんだって話していたというのに、栞だけ意識するというのも贔屓がひどい。
だが、この一週間と少しの間に、阻まれた向こうにいる存在は栞だと刻み込まれてしまっている。意識が立ち上るのもやむを得ないだろう。そして、それが二人の刺々しさを中和するのに役に立ったようだ。
それ自体はいいが、仲裁したこちらに矛先が向いたのは予定外だった。
「分かりやすいなぁ、蒼汰は」
それは多分、向こうには届かなかったはずだ。今までの厳しい顔色が削げたことはいいが、俺が標的にされるのはごめんだった。
「何もないでしょうが」
「それを言うことが怪しいっての」
「なに? 蒼汰くんに何かあったの?」
完璧には届いていないだろうが、会話をしていることくらいは分かるのだろう。千佳先輩がどうなったのか分からない。羽奈さんからの心配が飛んできた。
「なんでもないです」
透先輩に口を開かせたら、何を言うか分かったもんじゃない。
先んじて返すと、
「そーう?」
とのんびりとした羽奈さんの確認が戻ってきた。頷くだけでは届かないので「はい」と返事をする。
短い確認にも言葉がいる一手間は、壁一枚を隔てていることを殊更に意識させた。それで何が変わるわけでもないが、栞はどうしているのだろうか、という感情が巡ってくる。透先輩の言葉を否定できそうにもなかった。
そして、羽奈さんが心配をなくしたところで、男女の壁を越えた会話の区切りになる。向こうからは、かぽんと洗面器を移動させるような音が聞こえてきた。お湯の流れる音も続いている。髪や身体を洗っているのだろう。
すぐさま予想ができて、想像に走りそうになる頭を制止させた。何より始末に負えなかったのは、一番に顔が浮かんだのは栞だったということだろう。
女性という漠然とした妄想なら、僕だって仕方がないと飲み下せた。常からそんなことを考えているわけではないが、透先輩に煽られた後ということもある。だから、そうしたスイッチが入りかけていてもおかしくはなかった。
だが、特定の人物での想像というのは、意味を探してしまう。それは、手っ取り早く言えば、栞を意識しているという単純明快なものだ。それすらも、透先輩のせいにしてしまいたい。したところで、考えずにいられなくなるわけでもないけれど。
自分はこんなにチョロかっただろうか。
同じ部屋で過ごすようになった。それは意識のきっかけには十分過ぎるものだ。そのうえ、趣味は同じだし、会話も弾むし、その後の生活に難も出ていない。栞が現状に多大な遠慮してさえいなければ、相性は良いほうだろう。
急に仲良くなった友だちの印象が強いことは何もおかしくはない。ただそこに、異性の意識が乗っかっているものだから、脳内が騒がしくなる。
僕はお湯を掬って顔を洗った。たったそれだけで思考まで洗われやしないが、気分はいくらか刷新される。
そんな僕の行動を、透先輩は含み笑いで見ているようだった。厳密にどんな顔をしているのかは、見る気にもなれない。銭湯の壁を伝う水滴に焦点を置いて、素知らぬ振りを貫き通そうとした。
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