漫画のプロ!④

「本当にすごいですね」


 馬鹿みたいだが、稚拙な感想しか出てこなかった。

 中身を知らないのだから、当然と言えよう。それでも、もう少し何かないのかとは思った。仮にも小説を書こうと言うのだから、創意工夫くらいしたらどうなのかと。

 自分の力不足に消沈していたが、透先輩は特に気にしていないらしい。そして、僕らがそんな会話をしている間に、栞は月刊誌を捲っていた。

 それに気がついた透先輩が肩を竦める。本という形を持っていれば栞がそうなることはもう知っていた。食品の成分品でも、商品の説明でも、何でもかんでも読むものは読む。活字中毒と言ってもいいくらいだ。

 漫画をたくさん読んでいる印象はないが、物語という点で言えば小説と大きく違うわけではなかった。出力方法が違うだけで、読む側でいる分には好みの差しかない。

 栞にとっては、やはり同一に楽しむものだったようで、楽しげにページを捲っている。それを邪魔しようという気はない。僕らはそれを放置して、ノートへ向かっていた。


「とはいえ、さっきのは俺の好み? ってか、そういうのかもしれないから、そっくりそのまま真に受けるなよ」

「惑わさないでくださいよ」

「いや、だってお前がどういう意図でそうしたのかと知らないし。ちょっと見ただけのアドバイスはただの野次馬みたいなコメントとそう変わらんだろ。自分で判断してくれよ」

「最初っから迷わずに決められていれば、僕だってデビューしてますよ」


 そう簡潔に結びつきはしないだろうが、ただの愚痴だ。透先輩は軽いデコピンを寄越した。


「そう簡単じゃないっての」

「分かってます。でも、迷いますよ。透先輩はどうやって取捨選択してるんですか?」


 透先輩だって本気で怒ってはいない。僕が本気で舐めているわけではないことは分かっているのだろう。

 いつもはからかいの的にされて困ることもあるが、やはり先輩は先輩だ。それ以上、デビューやプロの話に言及することなく、僕の問いかけについて答えてくれた。


「ちゃんとテーマを決めて、やりたいことを定めるって感じかな」

「うーん」


 かつて、小説の書き方、なんてサイトや書籍を読み漁ったことがある。もちろん、力になったこともあるし、学べたことも多い。だが、どうしたって具体例を求めてしまうのは性だ。テーマ、やりたいこと、定める。よく見た文言だった。

 透先輩は、僕がピンときていないことを気がついたのか。僕のメモを引き寄せて、指先を動かす。


「ラブコメにするんだろ? だったら、二人のどの部分を書きたいんだ?」

「どの部分?」

「自覚するまでか? 既に惚れてて相手に気持ちを伝えるまでか? 両片想いの曖昧な期間か? 付き合っているのか? 話の最中に付き合い始めるのか? ゴールはどこにする?」


 ひとつ零すと弾みがついたように、透先輩はつらつらと舌を回した。その具体性に、僕は慌てて一連をメモに書き付ける。


「許嫁とか、義妹とか、偽装とか、そういうものにするなら、それで目指す場所も変わってくるだろ。俺はゴールから逆算して、プロットを組み立ててる」

「連載の場合ってどこまで考えてるんですか」

「それは未来の俺の脳内に聞いてくれよ」


 透先輩が遠い目になる。少なくとも、すべてがすべて、かっちりと行き先が決まっているわけではないことは察した。

 お互いに空笑いを交わしていると、ぱたんと本が閉じる音が滑り込んでくる。音のほうを見ると、栞が月刊誌を閉じてほくほく顔をしていた。


「とっても面白かったです」


 感想はとても手短であったが、その顔色を見ていれば気持ちはひしひしと伝わってくる。透先輩も照れくさそうに笑った。


「気に入ってくれたのなら嬉しいよ。栞ちゃんは物語に肥えてそうだしね」

「舌じゃないんですから」

「目でも使うでしょうが。とにかく、嬉しいってことだよ」

「とってもいいです。私、気に入りました。ぽかぽかします」

「オレンジ?」

「うん」


 色味を確認する問いが漏れたのは、そうした会話をいくつも重ねていたからだった。僕らの中で、作品の色について語るのはいつものことだ。

 そこに透先輩がいることに気がついたのは、栞が頷いて透先輩が不思議そうな顔をしたところでだった。栞が初めて僕に漏らしたときと同じ顔をしている。透先輩たちには話していなかったようだ。

 どれだけ生活に慣れたと思っていても、僕らの付き合いは短い。


「……色が見えてんの?」

「共感覚ってやつですよ」

「へぇ。オレンジか。もっと、ピンクとかそういう色かと思ってた。ラブコメってそういうもんじゃないの?」


 僕よりもずっと、自然な受け入れだったと思う。すぐに話に乗る透先輩の話術はさすがと言えた。栞も感銘を受けているようだ。嬉しそうに目を細めて、頬が緩んでいる。

 初日に僕が答えたときも、同じような顔をしていたのだろうか。見ることが叶わなかったことが惜しい。それとも、僕の下手な相槌では、こんな顔を引き出すことはできていなかったのだろうか。

 あのときは、とても栞の顔を見て会話できるとは思っていなかった。シーツの向こうを気にしながらも、様子を視認するなんて耐えられそうにもない。その感情は衝立になった今も変わっていないけれど、僕は栞の色々な顔を見逃しているのだろうか。それに気がつくと、どうにももったいないような気がした。

 隣で透先輩にニコニコ笑っているのが眩しい。それは、共感覚のことを喜んでいるのか。作品のことを喜んでいるのか。どちらにしても、羨望が沸く。

 もしも、僕が小説を書き終えたのならば、栞はこんな顔で読んでくれるのだろうか。そんな思いが湧き上がった。これがすべての動機なら、不純だろう。

 けれど、書きたいと思っていることが先にあった。それが今、透先輩への反応を見て、もう一つの願望が飛び出してくる。自分でも意外な気持ちだ。

 ただ、もう一度書こうという気になったことすら栞がきっかけだった。早晩、そうした欲望に目覚めていたのかもしれない。それが今、形となって差し出されたものだから、沸々と沸き立ってしまったのだ。

 透先輩は前向きに色の話を繰り広げている。栞もオープンに話せるのか嬉しいのか。会話が弾んでいた。


「色々ありますよ。黒いときもあります」

「不倫とか? 悲哀とか?」

「そうじゃなくても黒さは感じられます」

「一部分の暗雲立ちこめるシチュとかで?」

「そういうところもあるかもしれません。とっても苦しい場面が多いとか。悩みしかない恋みたいな」

「へぇ。面白いなぁ。オレンジでぽかぽかってことは心温まる物語ってこと? 穏やか?」

「それもありますけど、ヒロインの人柄もあると思います。人情に厚くて人が良いですよね。そういうところも作品の色として感じることもあるので」

「そういうのって、同じように感じるわけじゃないんだよな? 栞ちゃんはそういうふうに感じるってことだろ? いいな。そういう感覚があるって」

「私には普通のことなので、よく分かりませんけど……ありがとうございます」


 栞には淡々としているところがある。表情だって、日常生活では大きく変化することのほうが少ない。それが今やすっかり取り除かれて、へらりと笑っていた。

 透先輩と仲が悪いとは思っていない。歯に衣着せぬ物言いができるほどの仲ではある。だが、こうして心を開いているのを見ると、羨ましさが疼いた。

 自分が他者へこれほどの妬みを抱くとは思っていない。それも、栞のことという部分で。

 これが作品の評価というだけなら、僕だって納得できる。書こうとしている人間として、透先輩への賞賛は素直に羨ましい。ただ、それだけのことであれば、僕はもっと素朴な気持ちでいられただろう。

 居心地の悪さを覚えながら、二人の雑談を横に、身の入らないまま腕を動かしていた。




 それから数日後。高校生が揃って四人で夕食を摂る日があった。この辺りは、日々変化する。

 僕と栞が揃っていることは多いけれど、透先輩も千佳先輩もまちまちだ。四人となると、朝より確率は下がる。物珍しい夕飯を終えて、居間で気を抜いていた。

 そこに羽奈さんが帰ってくる。樫原羽奈さんは、大学生三年生で講義も飛び飛び。バイトもしているので、生活習慣が僕ら高校生ともかなり違っていた。ご飯は必要なときだけナツさんに連絡しているようで、今日は連絡がなかったと聞いている。


「羽奈さん、早いですね」

「うん。今日はバイトなかったからね」

「ご飯ないですよ? 大丈夫なの?」


 千佳先輩は、羽奈さんに対して敬語とため口が混ざっていた。滅多に聞くことがないので違和感はある。


「うん。友だちと食べてきたから。みんなは?」

「もう食べましたよ。のんびり中です」

「お風呂はどうするの?」

「今日は銭湯に行こうって思ってました」


 夏目荘にもお風呂があるが、家主のナツさんに加えて住人が五人もいる。毎回毎回順番に風呂に入るってわけにはいかない。近所の銭湯へ行くことが多かった。

 ナツさんの知り合いであるということで、週に何度か掃除を請け負うことで無料で利用させてもらっている。掃除と入浴の日が必ず重なるとは限らず、今日は入浴だけだ。

 そして、行くときはバラバラだった。生活習慣が違うのだから、揃って行くという発想もなかった。なんとなく一緒になることはあったが、あえてということはない。


「じゃあ、一緒に行こうか。千佳ちゃん」

「本当? いいね。栞も一緒に行かない?」


 ……あえてということはないと思っていたが、僕ら男だけのことだったのか。千佳先輩と羽奈さんには、そうした交流があったらしい。

 声をかけられた栞は無言だ。居間の壁に背を預けて、ずっと本を読んでいる。まったく気がついていない。


「栞」


 千佳先輩の再度の呼びかけにも、栞は答えなかった。

 この数日で、よりよく分かったことだが、栞は途方もなく気がつかない。僕自身は、僕だって同じように鈍感なところがあるため、さほど気にしていなかった。しかし、こうして外側から見てみると、ひどいありさまだ。千佳先輩が栞の悪癖を知っているから、険悪なムードにならないで済んでいるに過ぎない。

 隣で同じように本を捲っていた僕は、ぐいっと栞の肩を押した。栞ははっと顔が上げたが、僕の顔を見ると少しだけ眉を顰める。いいところだったのだろうと予測はできた。同種であるからこそ、薄い表情変化でも抜けはない。


「千佳先輩が声かけてるぞ」

「あ、ごめんなさい」


 僕には邪魔だと言うような態度であったにもかかわらず、千佳先輩を示すとすぐに感情を解した。釈然とはしないが、同種であるからこその当たりの強さらしい。それはここ数日で分かるようになっていた。僕の自意識過剰でなければ、だけれど。


「銭湯、一緒に行かない?」

「行きます。羽奈さんも?」

「うん。そう……透くんたちはどうするの?」

「そうだな。俺たちも行くか。せっかくだし」


 全員で行く必要はない。ナツさんの前にさくっと入ることもできるし、一人くらいは残っても問題はないだろう。けれど、せっかくの交流を退けるほど、仲が悪くはない。一人残されるのも寂しいので、頷いて同意した。

 それぞれに部屋へ引っ込んで、荷物を準備して玄関へ集合する。夏目荘は古い民宿のような作りなので、敷地内に中庭があった。玄関から門までにも、わずかばかりの距離がある。

 先輩たちがそこに揃っていて、僕と栞が最後だった。それから、誰が導くともなしに、ぞろぞろと歩き始める。同じ荘で過ごしている人間というのは、どこかテンポが揃うところがあるらしい。適度に不干渉であるというのに、一体感があった。不思議なものだ。

 僕と栞は最後尾を進む。二人で並んでいることにも慣れた。無言であっても変な気を遣わないのは、部屋での件があるからだ。

 同じ部屋に住んでいて、四六時中会話するなんてことはない。お互いに本を読んでいるからと言えばそれまでだが、そうでなくても無言の時間だってある。だから、僕らはぷらぷらと無言で先輩たちの後を追っていた。

 そして、栞は懲りていないのか。千佳先輩に声をかけられていたときに読んでいた本を取り出し始めた。あまりにも滑らかで、声をかける暇もない。

 これは、図書館での一件以降、僕がいるときに起こることだった。どうやら、一人のときは気をつけているらしい。あれ以来、公道で本を読んでいるところを見かけることはなかった。

 しかし、僕がいればやる。ダメだと言ったにもかかわらず、そうした知識がインプットでもされてしまったようだった。読書に夢中になる気持ちが分かるだけに、強く言わなかったのが悪かったのかもしれない。


「栞」


 強めに呼びかけるが、たった数分にも満たない間に、栞はすっかり読書の海に潜り込んでしまったようだ。

 呆れてため息が零れた。そうなると脱力感が強くて、注意する気力まで抜けてしまう。そうして許容してしまうから、栞の悪癖も直らないのだろう。分かっていたが、邪魔されるのは鬱陶しい。それが分かってしまうから、半端なままに銭湯へ向かった。

 前方とは話が届くか届かないかまでに、距離が開いている。先輩たちも妙な気遣いをすることはない。放られているとも言えるが、それほど気にならなかった。僕らには、これくらいの距離感がいいらしい。

 しかし、銭湯へ辿り着いたからには声をかけられた。


「遅いぞー」

「今、行きます! 栞」


 別に、必ずしも同じタイミングでなくたっていい。だが、ここまできて、ということだろう。

 どちらかと言えば、透先輩は栞のために声をかけてくれたような気がした。千佳先輩と羽奈さんが待っているのを見れば、明らかにそちらだろう。透先輩が、俺と裸の付き合いなんて望みやしないはずだ。

 栞の肩を揺らして、本と視線の間に手を挟み込む。こうして邪魔する方法もすっかり身についてしまった。栞はむっとした表情で顔を上げる。しかし、前方を示してやれば、状況を把握したようだ。そうして意識が戻ってくれば、栞はすぐに行動を開始して千佳先輩たちと合流する。

 決して、周囲の感情に鈍いわけでもないし、遠ざけているわけでもない。悪癖さえなくせばいいだろうに。

 そう思いながら、僕も透先輩と合流した。

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