漫画のプロ!⑥
「それで?」
そこに唐突に投げられた問いかけに、僕はすぐに透先輩に目を戻してしまう。我ながら、意志の弱さに辟易した。
しかし、透先輩の問いかけには謎しかない。接続詞とも呼べるそれは、どの会話にかかっているのか分からなかった。
疑問だらけの僕に、透先輩は軽く肩を竦める。デコルテの動きがよく見えて、イケメンというのは細部まで整っているのだなと要らぬことを考えていた。それはどこに投げられているか分からない問いである以上、栞のことである可能性が高いがゆえの現実逃避だったかもしれない。
しかし、透先輩の口から続けざまに放たれた言葉は穏当だった。
「本当は何を考えてるんだ?」
常識的な問いかけに引き続き目を瞬いてしまったのは、透先輩の日頃の行いだろう。
下世話な話を取り上げたのは本気だとも思っていなかったが、別のことがあると深く巡らせているとも思っていなかった。
僕はまだ、先輩たちの性格を掴むほど長い付き合いがあるわけじゃない。それは何も、先輩に限った話ではないけれど。
「……小説のことですよ」
静かに待たれると、茶化す気にもなれない。そして、相談するならば、透先輩だろうとも思っていた。媒体が違うといえど、プロだ。その人が話を聞いてくれるのならば、口を割らない手はない。
「プロット、進んでないのか?」
「ネタの繋がりが見えなくて」
「繋がり?」
「……話の波になりそうなアイデアメモはあるんですけど、その取捨選択がうまくいってなくて」
「この前、そういう話しなかったか?」
「取捨選択する方向性は決まってます。でも、そこに焦点を合わせて拾ったとしても、すべてに繋がりが生まれるわけじゃないでしょう? ひとつひとつの話が断絶されているっていうか……」
「短編ってこと?」
「……その寄せ集めってのが一番近いかもしれません」
「集められるなら、それはそれでいいんじゃないのか?」
「長編にならないのは困りますよ」
「チャレンジャーだなぁ」
「?」
いきなり書こうとするところが、だろうか。首を傾げた僕に、透先輩は苦笑を零す。
「いや、小説のことは分からないけど、いきなり長編に挑戦するのかと思って」
なるほど、と得心がいった。
確かに、最初から挑戦するには無謀に映るだろう。僕だって、いきなり長編漫画を描こうだなんて思わない。だが、小説となると話は別だ。
「前にも書いてたことがあるので、いきなりってわけじゃありませんよ。その上で、迷ってるんです」
「なるほど」
頷いた透先輩が、顎を押さえて考える。納得しているわりに沈思されてしまって困惑した。
素人だからとまともに取り合ってもらえないよりはずっといい。けれど、考え込まれてしまうと、何か下策でも採っているのではないかと不安になる。元より自信をなくしているのだ。
「求めてる面白さがあるのか」
「……そりゃ、あるでしょう」
しばしの間を置いて尋ねられた真意は測りかねたが、即応はできた。誰だって、憧れている作品はあるだろう。そうしたものに釣られて、創作に手を出す。だから、当然追い求める形はあった。
頷いた僕に、透先輩が目を細める。
「どういうものがいいんだ?」
「……ラブコメを書こうと思ってますけど」
「それは知ってる。そうじゃなくてな、うーん」
透先輩が悩むように首を傾げた。
いかにも食い違っている。噛み合っていない。そんな態度を取られても、僕だってどこを取り違えているのか分からない。鏡映しのように首を傾げるしかなかった。
「見てもらいたい人はいたりするか?」
それは、読者のことを考えているか。そうした問いかけだっただろう。それは分かっていたが、僕は思わず硬直してしまった。
咄嗟に浮かんだ人物は、省みるまでもない。隣から聞こえる流水の音が、存在を知らしめているような気さえした。その物音の発生源が、僕の浮かんだ人物であるなんて確証はどこにもないというのに。
そのくせ、透先輩はその可能性を掴んでしまうのだ。
「栞ちゃん?」
そんなつもりはなかった。今このときまで、そこを確定的な目標に据えているなんて自覚はなかったのだ。
確かに、透先輩が漫画を読んでもらえて、色の感想をもらえているのは羨ましかった。けれど、だからといって軽率にそれだけを目標にはしない。そのつもりだったというのに、音にされると明敏に耳が掴む。
正解だとばかりに、脳が素早く反応していた。
「……読んで欲しいとは思ってますよ」
言い訳めいていただろう。
しかし、固有のものに書くということへの違和感のようなものがあった。決して、悪いことではない。そう思う部分もあるが、多くの読者を切り捨てているような気がして、居心地が悪かった。
ただ書くだけであるというのに、仰々しいことを考えている。どちらにしても居心地が悪かった。
しかし、そんな僕の気まずさとは対照的に、透先輩はさっぱりした顔になっている。思考回路がまったく読めない。それが、プロと素人の差なのだろうか。
「別に誰だろうと読者の視点があるってのはいいことだろ」
「……先輩はどういうふうに捉えているんですか」
「それこそ少女漫画なんてラブコメって呼んでいいと思うけど、中高生が狙い目だからな。俺はもう商業的な目だよ。蒼汰はそういうことを考えることないんじゃないか? 今すぐプロになりたいっていうなら、戦略として考えるのは悪くないと思うけど。そのならしのためにも、栞ちゃんを目標にするのは悪くないと思う。むしろ、栞ちゃんは目が肥えているし、下手な小説を鮮やかに評したりしないんじゃないか? 物をはっきり言うほうだし」
最後に苦笑いになったのは、遊び人であることを揶揄されていることを思い出してのことだろう。
それでも、千佳先輩よりもずっとマイルドであるのだけれど、確かに栞はお世辞は言わない。だからこそ、僕は喜んで読まれる透先輩の作品へ羨望を抱いたのだろう。
「特定の人物相手でも、読者視点は手に入るものですか」
「狙ったものを書けるなら、それは力量だろ」
迷いなく断言する。そのパワーは、僕の迷いを吹き飛ばす威力があった。この場合、僕があまりにも単純であることもある。けれど、プロがここまで断言してくれることは心強かった。
「……頑張ってみます」
「栞ちゃんのことを考えれば、問題は解決しそうなのか?」
つい今しがたまで、とても頼りになる先輩の顔をしていたはずだ。今までの行動をチャラにしてしまえるほどだった。それが、一瞬で溶ける。
問いかけてくる内容は、真っ当だった。だが、そこにニヤケ顔がくっつけば、意味合いが違ってくる。問題解決に主軸が置かれていない。栞のためならば、というところを突きたいだけだ。
「たち悪いですよ」
「それが相談を乗ってくれた先輩に言うセリフかよ」
ぎゅっと顔を顰めるのは、ポーズだろう。言葉だって軽く、肩を組んでくる仕草だって軽い。僕だって気軽な調子でその手を払いのけられた。
きっと透先輩はこうした軽妙なところが親しみやすいのだろう。僕だって、からかいの的にされているのは釈然としなくたって、こうしてじゃれてくれるのは悪い気はしない。
そうして腕から抜け出すと、透先輩も飄然としている。冗談めいたやり取りで、真剣さが希釈されていた。普通なら、それは場面転換の機会になって、時機を外すことにもなるだろう。
しかし、希釈されたからこそ、僕は肩の力を抜いて
「助かりました」
と、平易に感謝を伝えることができた。
透先輩は答えることはなく、肩を竦めるだけに留める。それがまた軽々しくて、僕に必要以上の重さを抱かせない。それを透先輩の長所と取るか。真面目さを帳消しにしてしまう短所と取るか。それは受け取る側の問題で、僕には心地良いものだった。
待つかどうかなんて、示し合わせたわけじゃない。けれど、揃って行ったのに何も言わずに帰るのもどうかという読み合いが互いに発生した。結果として、物音を指標にするように動いて、僕らは銭湯の前で落ち合う。
そして、まだ少ししっとりと水気の残る髪をお団子にまとめている栞に目が奪われた。
千佳先輩だって、普段とは違ってポニーテールになっている。羽奈さんは黒髪のボブカットなのでそこに変化はないけれど、首筋には汗が伝っていた。それぞれに、風呂後の様相が透けている。
それだというのに、僕の目が吸い寄せられたのは栞だけだった。その目線が栞に気付かれているかは分からない。
だが、透先輩には気付かれているだろう。指摘が飛んでくるかもしれないと思うと、どうにか視線を剥がすことができた。だからといって、栞の姿が頭の中から消えるわけではないけれど。
「帰るか」
「コンビニ寄ってもいいかな?」
「羽奈さん、お酒はほどほどにしときなよ」
「いやだなぁ、千佳ちゃん。そんなこと一言も言ってないじゃん」
羽奈さんは唇を尖らせて、口笛を吹く振りをする。それは僕から見たって、明らかな誤魔化しだと分かった。
千佳先輩が片眉を上げて、羽奈さんを見下ろしている。千佳先輩は僕や透先輩と変わらないほどの長身だ。すらりとしたモデル体型でとても姿勢がいいので、見下ろすと絵になる。
「この前だって、酔っ払ってトイレ付近で寝落ちてたでしょ。気をつけなきゃダメだよ、羽奈さん」
「大丈夫だよ! 別に意識を失ってたわけじゃなくて、冷たくて気持ちいいから眠っただけだから」
「それ大丈夫って言わないですからね。休肝日は必要! 今日は真っ直ぐ帰ろう」
言いながら、千佳先輩が羽奈さんの腕を掴んで夏目荘へと歩を進めていく。
「お前、人のことならちゃんと判断できるよなぁ」
「はぁ? 透だって同じようなもんでしょ。人のことばっかり気にしないで、自分のことちゃんとしなよ」
「俺はちゃんとしてる」
「朝帰りすることもある身で何言ってんの?」
「千佳子こそ、自分のことを棚に上げて何を言ってんの?」
「あたしはちゃんと帰ってるから。ていうか、千佳子って呼ぶのやめろ」
「まーた、今更言い始めた」
千佳先輩に掴まったままの羽奈さんが二人を見上げていた。隣に並びたくないのか。透先輩が羽奈さんの隣に並んだものだから、口喧嘩に囲まれてしまっている。
不憫極まりないと思っていたが、羽奈さんに気にした様子はない。困ったような顔ではあるが、お姉さんとして後輩たちの喧嘩を微笑ましく見守っているようなものだ。
それどころか、二人を見ていた視線が、コンビニへの道へ泳いでいた。どうやら、僕が思っている以上の酒好きらしい。僕はまだ羽奈さんが荘の中で倒れているのを目撃したことはなかった。千佳先輩から話を聞くのは初めてではないが、こうして見ると納得できる。その心配もだ。
「だから、千佳子って感じじゃないでしょ」
確かに、これは印象の問題であるけど、○○子ってのはいくらか古めかしさがあった。良い名前だとは思う。
だが、日頃化粧をバッチリ決めて、派手なマニキュアで爪を飾っていて、栗色の髪をゆるふわにセットしている千佳先輩は垢抜けていた。
ファッションにだって気を遣っていて、どんな衣装も着こなすほどで、僕が知る限り周辺の中でずば抜けている。千佳子、という感じではない。
そして、それは千佳先輩が一番強く思っているようだった。もしかすると、過去に何かあったのかもしれない。僕らに自己紹介したときも、千佳と呼んでほしいとと初手で言われたくらいだ。
だが、透先輩はずっと千佳子と呼び続けている。恐らく、ずっとそうなのだろう。そして、こうしたやり取りを定期的に繰り返しているだろうことも想像できた。
「でも、千佳子は千佳子だろ」
「埒が明かない」
「見た目の話をしてんじゃねぇんだよ」
「……知らない」
ふんと鼻息を立てた千佳先輩がそっぽを向く。羽奈さんの腕を引きながら、ずんずん進んでいった。
透先輩は肩を竦めて吐息を零す。闇夜の中でスマートに流す立ち姿は、妙に幻想的だった。本当にどこまでも、と思わざるを得ない。
そうして、千佳先輩たちの後を追っていく。その様子に気取られていたのは、僕の落ち度だったのかもしれない。
栞が行きと同じように、というよりも僕の隣にいるときの定番のように、本を開いていた。ちょっと目を離すとすぐこれだ。はーっと長い息が零れ落ちる。僕はいくらか歩調を落として、後ろをついてきていた栞に並んだ。
またぞろ注意しない僕は、甘いのだろう。けれど、隣に並んで分かるシャンプーの香りや、髪の濡れ感。そうした生々しい湿度に、僕は触れることができなかった。
涼やかな風の吹く夜道。三つに分かれて並んだ影が、月夜に薄く落ちる。また再開しかけている先輩たちの口喧嘩をBGMにして、僕は栞の隣を歩いた。
透先輩が押してくれた道が、ほんの少し見えるような見えないような。そんな夜だった。
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