第六話

 隣にいる異性。それも想い人を意識するな、というほうが無理だ。カーテンが閉まっていても関係がない。足は痛いし、ケロイドも引きつるような痛みがある。それでも、意識は千陽に向いてしまっていた。

 そうして日中を過ごし、千陽が目覚めたのは夜も更けるころだ。保険医さんが様子を見て、それからカーテンを開いて出てきた。


「目覚めたわよ」


 と俺に一言残して、カーテンを開いたままに去って行く。保険医も夜勤があるが、宿直室での待機だ。

 医務室には俺と千陽だけが残った。離れたベッドの上に上半身を起こしたまま、顔を見合わせる。ぎこちない笑みとも何とも言えないアイコンタクトを交わした。


「ありがとう、貴志君」

「いや……もっと上手くやってれば、そもそも爆発も起こらなかっただろうから」

「ううん。それは仕方がないよ。戦闘中のことだもん。私のは私の暴走だから」

「俺たちのためだろ。仕方がなかった」


 千陽があそこで駆け出していたのも、魔術を使っていたのも、帽子をなんとかするためだ。ひいては、自分や俺たちを爆発から遠ざけるためだ。

 結局爆発はしたし、間に合ってはいなかった。だが、千陽の魔術による相殺がなければ、あれ以上のことが起こっていたかもしれない。それは可能性の話でしかないが、そんな惨憺たる事件を引き起こさなかっただけ、千陽は称えられるべきだろう。


「……あの三人は、どうなったの?」


 納得したのかは分からない。だが、ひとまず昨日の幕切れを知りたいようだ。俺だって、気になって根掘り葉掘り聞いた。


「謹慎処分で、Cクラスに落ちるそうだ」

「C?」

「俺たちとかち合わないためだろ」


 処分が甘いと感じたのか。険しい顔になった千陽へ補足を付け加える。

 E・Fの二クラスに落として揉められても困るはずだ。俺たちだって、顔を見合わせ続けるのは避けたい。処分の甘さよりもこちらへの配慮を取ってくれたことへ感謝するくらいだ。

 千陽もなるほど、とばかりにひとつ頷いた。


「一ヶ月の処分らしいから、下手するとそのまま試験に突入して留年しそうだし、それで十分処分できてるってことで納得したって言ってた。一百野が」

「一百野君に決定権があったの?」

「こっちの意見を聞いてくれたらしいな。一百野家の名前に要らぬ忖度があったかもしれないけど。いてよかったかもな」

「家系のことがなくても、一百野君がいてくれてよかったよ」

「……そうだな」


 好きな人が他の男を贔屓にするところに遭遇したくはないが、今回ばかりはそんな狭量なことを言ってもいられない。

 一百野がいなければ、千陽の状態も分からなかったし、俺がエンチャントを決行できたかも分からないのだ。そうなれば、千陽は退学しなければならないほど……魔術師への道を諦めざるを得ないほどの致命傷だっただろう。

 何とも綱渡りをしたことだ、と今更ながらにぞわりと鳥肌が立った。


「貴志君」


 その恐怖を和らげてくれる声に叩かれて視線を向ける。けれど、千陽のほうが戦慄しているかのような顔をしていた。それから、そっと下半身をベッドの淵へと下ろす。


「千陽?」


 身体ごとこちらを向いた千陽は、そのままベッドを降りて来ようとした。その身体使いは、とても復調しているようには見えない。


「ちょっと、待て。無理するなよ」


 慌てて同じように足を下ろそうとしたが、右足首がイカれている。千陽よりも動けなくて、その間に向こうがあっさりとこちらへ近付いてきていた。

 しかし、やはり弱っていたらしい。直立しようとした途端、腰が抜けたようにかくんと前方へと倒れてきた。咄嗟に腕を伸ばして、引き寄せるように抱き支える。

 ほとんどベッドに乗り上げるように抱き寄せてしまったことに、ひゅっと息を呑んだ。自分の身体の上にある柔らかい身体が腹中に火を熾す。目前の紅の中に潜む肌色も、真っ赤に染まり上がった。

 そのままがちりと時間が止まる。生命の危機に瀕しているときよりも、頭が回っていない。メドゥーサに睨まれたかのごとく、至近距離で千陽を見つめ続ける。仮にきちんと頭が回っていたって、突き放すことはできなかっただろう。

 俺が完璧に呆けている間に、千陽は意識を取り戻したようだ。それも、よくない方向に。表情が崩れて、こちらもようやく覚醒した。


「ちはる?」


 覚醒したからといって、すぐさま対応できるわけじゃない。口にした名はかすかすに掠れていて、意識を取り戻したというには情けなかった。

 千陽はそれに頓着することはない。それどころか、俺の状況も構っていないのかもしれない。半ば俺の上とベッドに乗り上げた姿勢のまま、俺の顔へと手のひらを沿わせてくる。触れてくる白魚の指先に、びくんと肩が震えた。


「ごめんね」


 萎れた音が、心臓をきりきりと絞る。そんな顔も声もさせたくない。心底そう思っているというのに、この憂いをすべて取っ払う方法を思いつけなかった。

 何より、この怪我が千陽の魔術の結果であることは隠しようのない事実なのだ。何を言えば心を軽くしてあげられるのか。考えれば考えるほど坩堝に陥って舌が絡め取られる。

 その間にも、千陽の手のひらがぺたぺたと俺の身体に触れていく。それもまた、思考と舌を堰き止める原因ではあった。


「前よりずっとひどい。無茶しないで、貴志君」

「……するに決まってるだろ」


 喉に力を入れて、絞り出す。目の前の肩を掴んで、真っ直ぐに見据えた。

 できる無茶ならすべてやる。何より、あの場面でそれができなければ、千陽の生命の危機だったのだ。そんなのに、無茶するなってほうが無理だった。

 千陽が困ったように目を伏せる。その頬に手を移動させて、両頬を包むように顔を持ち上げた。これにときめかないことは嘘になる。だが、今はそんな恋心よりも、実直な生命への想いが溢れていた。


「どうなるか分からなかったんだぞ」


 口にすると泣きそうになる。本当に綱渡りだった。

 今ここに千陽が生きていることが奇跡だ。俺のことを言えないほどに、あちこちに擦り傷や火傷の跡が残っているけれど。けれど、生きている。

 額と額を押し当てて、体温から形から瞳から、千陽の要素を確認した。ドキドキと鼓動しているのは自分の心音だ。それでも、体温や心音、そうしたものに囲まれていることで、生きていることへの実感が伴う。

 本当に泣きそうになってしまって、瞳を見ていられなくなった。肩口に額を落として、腕を背に回す。大胆なことにしていたと気がついたのは、随分後になってからだった。


「き、きしくん?」


 上擦った声が困却を伝えてくる。それでも、顔を上げることはできない。耳元で聞こえる千陽の声が頭蓋骨を揺らす。生きていることを何度だって実感した。


「千陽が無事で、よかった」

「それは、貴志君のほう」

「千陽も一緒に決まってるだろ」


 無事を喜ぶ。喜んでしかるべき状況だったのだ。当然だろう。もっと安堵したっていい。千陽が普段通り過ぎるのだ。俺がどれだけ千陽が無事であったことに安堵しているのか。少しは思い知って欲しい。

 俺がどれだけ、千陽のことを想っているのか。まだ口にする勇気はないけれど。けれど、大切な人の命を惜しむのも、無事に感激するのも、ごく自然なことだ。

 自分がそうした人間であるのだと、少しくらいは自覚して欲しい。傷ついていいと思われるような存在ではない。

 一百野だって、瀬尾だって、千陽のことを心配していた。俺だけの安堵ではないのだ。自分が一番安堵していると思うのは、この想いが負けていると思いたくないからだろう。


「だって、私は自業自得……っ」


 瞬間、ぶちりと何かが切れる気がした。勢い良く顔を上げると、千陽の身体が大袈裟に揺れる。鼻先にある瞳は真ん丸で零れ落ちそうだった。


「ふざけるなよ!? お前、お前なぁ!?」


 怒鳴り散らそうとしたが、言葉が勢いに追いついてこない。いっぱいいっぱいになった感情が決壊して、涙が零れた。情けなくって、歯を噛み締める。

 千陽が唖然と俺の姿を見ていた。涙が止まらない。分裂した意見を編成するのに時間がかかって、嗚咽が喉に引っかかる。邪魔して音が連ならない。その隙間に、おずおずと千陽の指先が動き始める。涙を拭われて、ぐすっと鼻を啜ってしまった。


「な、かないで」

「千陽が自分のことを他人事みたいに言うからだろ!」

「だって……」

「だっても何もねぇ!」

「だって!」


 甲高い声が響いて、ようやく昂っていた感情が緩んだ。


「だって! 私があんな状態にしたのに、助けられて、安心するなんて、そんなの」

「しろよ! 安心しろ、馬鹿」

「でも、私が、私……ちっとも、制御できない。それで、貴志君を……わたし、わたし……ごめんなさい。幻滅しないで……」

「千陽?」


 勢いが削がれて項垂れていく。幻滅するのとは話が繋がっていない気がして、戸惑いが広がった。千陽の身体がこちら側に傾いでくる。既に支えていた身体をしかと捕らえると、千陽が胸元に縋りついてきた。


「制御、できない。魔力だけの、落ちこぼれで、貴志君に噂でも迷惑かけまくってる……こんな怪我させて……魔術師としてちっとも成長しなくって、Bクラスのくせに……」


 入り込む言葉で、千陽の噂がどれだけ悪辣だったのかとひんやりする。

 聞かせたのか。こんな言葉を。平然としているように見えていた。向上心を持って魔術に向き合っていると。積み重なっているものがあったのだと、胸元で震える華奢な身体を見下ろす。


「ごめんなさい」

「謝らないでくれよ、千陽」


 それ以外に何を言えばいいのか。千陽は言葉をなくしてしまったようだ。その間に、思考を少しずつ立て直していく。まともに組み立てられる気はまったくしない。それでも、千陽の力になりたかった。


「俺は、千陽がいてくれてよかった」


 その背を撫でながら、ゆっくりと紡いでいく。


「千陽がいなきゃ、俺だってこんなに頑張れなかった。千陽と試合して、友達になれて嬉しかった。俺の能力を認めてくれて、誇らしかった。千陽のために能力を使えるようになっていてよかった。外部が苦手で落ち込んだこともあるけど、強化でよかった。千陽が助けられてよかった」


 千陽の慰めになっていないな、と思った。自分の感情を吐露しているだけだ。けれど、俺には伝える以外にどうにかできる手腕がない。


「千陽が制御できなくったって、俺は気にしないよ。千陽のために、制御できて欲しいとは思うけど。一生懸命頑張ってる千陽を尊敬してる。千陽が頑張ってるって、俺は知ってる。幻滅なんてしない。噂なんて気にしてないよ。千陽、どれだけ言われたって、俺は千陽を知っているつもりだよ。俺は俺の知っている魔術に一途で快活な千陽だけを見てる」

「……千陽が今の自分を許せなくったって、俺が許すよ。いいよ。このくらいの傷くらい。どうってことないんだ。俺を人の命を救う人間にしてくれてありがとう。千陽の騎士にしてくれて、ありがとう。千陽、俺は」


 はくっと唇が震える。千陽は黙って聞いてくれていた。

 俺は、と繰り返した声が、唇に逆らえずに震える。その間合いを心配したのか。千陽の顔が緩く持ち上がってきた。目元が赤くなって、涙の膜に潤んでいる。その瞳とぶつかった瞬間に、震えはピタリと止まっていた。


「俺は千陽がこうして生きて、俺のそばにいてくれて嬉しい」


 自分でも、好きと言わなかったのが神業だと思った。それくらい、剥き出しの本音だった。

 それは千陽の琴線に届いてくれたのか。不安に見つめ合って数秒。千陽の瞳からぽろりと雫が零れ落ちた。そして、それが皮切りになったように、ぼろぼろと落涙していく。じきに抑えきれない嗚咽が零れ始めて、千陽は俺の胸に額を押し付けた。


「……ありがとう、貴志君」


 涙に濡れた囁きが、小さく小さく鼓膜に注ぎ込まれる。それが引き出せただけで、俺はもう十分だった。

 それだというのに、千陽は細腕を背中に回して抱きついてくる。胸が愛おしさでいっぱいになって苦しい。腕の中で力を失っていくばかりだった千陽が、今はこうして力を取り戻している。

 ああ、生きている。千陽が生きてくれている。

 感情の手綱を手放した俺は、縋ってくるその身体を掻き抱いた。

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