第五話
どれだけギリギリであっても。どれだけ威力がなくとも。わずかでも、と広げていた強化壁が一瞬で全壊された。自分の魔術の流れくらい、たとえ爆発で視界をやられていても分かる。
爆発地点は爆炎が上がっていた。それは魔石の爆発だけではない。これは千陽の魔術が加わっている。臓腑の底を撫で上げられたような気がして、背筋が凍った。
粉塵が消えていく中でも、炎は煌々と燃え盛っている。想起されたのは、炎の中で身を揺らしていた千陽だ。倒れた身体にケロイド。呼吸が浅くなって乱れる。気がついたときには足が出ていた。
「貴志! 無茶すんな」
一百野の勧告は聞こえていたが、水の中に入っているかのようにくぐもっている。そんなことを言っている場合じゃない、という気持ちだけが暴れ狂っていて、出した足の激痛も忘れて走り出していた。
「千陽!」
千陽、と何度も呼びながら、炎の中に突っ込む。燃えるように熱い。以前よりも高火力なのは、魔術具で増幅されているからだろうか。破れていた制服の隙間から、熱波が忍び込んできて腕が焼けているような気がした。
しかし、千陽の姿がはっきりとしていくたびに、足が急ぐ。膝を外側に折り曲げて座り込んでいる千陽の周囲は、炎に包まれていた。過呼吸気味の吐息を漏らしながらも、祈るように手を組んで魔力を鎮めている。
魔石の入った宝箱も魔石も帽子も跡形もなく炭へと姿を変えていた。その末路に恐怖がまとわりついて、鳴りそうになる歯を噛み締める。
「千陽」
その肩に触れると、祈りに伏せられていた顔がこちらを見上げた。見開かれた瞳の奥までも紫色の火が燃えているかのように揺れている。頬に火傷の跡ができていることに胸が痛んだ。
「落ち着いて」
こくんと引かれた顎が、はたして理解したものであるか。惰性のものであるか。それは分からなかったが、返事はあった。そうして、徐々に炎が落ち着いてくる。
だが、鎮まることで逆に千陽の損耗具合が浮かび上がった。
髪も服も焦げて煤けている。手袋と黒いタイツは耐熱性で身体を守ったようだが、剥き出しの首と顔に火傷の跡があった。乱れた呼吸は元に戻ることはなく、短く繰り返している。
祈られていた指先が解けて、その胸元を握り締めた。苦しそうに歪んだ身体が、糸が切れたように倒れそうになる。手のひらを背へと回して抱きかかえた。胸元を握り締めたまま、千陽は身悶え続ける。
「千陽。おい。しっかりしろ、千陽……一百野!」
周囲の状況に目を回す余裕はない。千陽から一寸たりとも目を離さないまま、一百野を呼びつけた。
光魔術の権威家系育ちの嫡男。瀬尾を回復させた治癒魔術の使い手。頼るなら一百野しかいない。足音が聞こえているのを横に、千陽を抱く手が強ばるのを解す。身体を支える手が震えるのを堪えると、どうしても力が入った。俺は千陽を拘束したいわけじゃない。
向かい側に屈んできた一百野を一瞥する。その手のひらが千陽の肩に触れた。一百野は黙ったまま、魔力を動かしているらしい。
ちゃんとやっているのは分かる。一百野を責めるのはお門違いだ。せめて三人組だろう。帽子の件だけを取り上げれば、自分の罪過にも思えて、心臓が冷え固まりそうになった。
三人組は状況に混乱しているのか。瀬尾が相手してくれているのか。何の音沙汰もない。そして、そんなことはどうでもよかった。今はただ、千陽の顔から少しでも苦しさが消えることだけを祈っている。
しかし、千陽のそれは一向に収まる気配がない。それどころか、一百野のほうが脂汗をかいていく。状況把握するのにこれほど適切なものがあるだろうか。脇の下から嫌な汗が滴っていく。正常ではない汗が、気持ちの温度を奪った。
「一百野」
口から零れた音にも温度がないような気がして、咳払いをした。喉の奥が痛い。焼けている、と気がついたのは後のことだった。
「治癒するそばから自身の魔力で焼かれてるんだ……このままじゃまずい」
血の気が引いた一百野の手のひらが強く押し付けられている。全力を賭けているのだろう。それでも治癒が追いつかない。
「魔力で焼かれるって……どういう状況だ?」
「魔力が体内で魔術となって発動してるってこと。暴走の一種だ。火ノ浦は魔力が多い。体内の魔力がなくなるまで焼かれ続けるぞ」
「それ、お前……」
仮に身体が燃えて炭化しなくても、内臓はいかれる。生きていけるのか。大丈夫だったとしても、魔力が枯渇するまで放置するなんてのは、後遺症をもたらしかねない。魔術師にとって枯渇は避けなければ最悪の事態だ。それよりもなお最悪な事態は、どこにも逃げ道がない。
息苦しくなる。心臓が止まりそうになる思考を腕尽くでねじ回した。その強引さが、妙な回路を繋げたのか。俺はまじまじと千陽を見下ろす。
魔力は体内の不可視の血管を巡っている。それが身体を傷つけ続けているのだから、その不可視の血管をカバーしてしまえば、魔力が他の器官に触れることはない。暴走が収まるかは分からないが、それを防御してしまえばいいのだ。
俺は触れていた手のひらから魔力を動かす。
「貴志……?」
俺は一百野の戸惑いを無視して、魔術に集中していく。
「……エンチャントと一緒だろ?」
外部魔術のない俺の、唯一の特技だ。一百野もそれを認めている。一百野が驚いている気配があったが、そんなことに構っている余裕はない。
一緒だと言っても、人体に施すのでは難易度が格段に違う。自分の魔力を過分に使って、命を削ってでも足りないかもしれない。
俺の集中が分かったのか。一百野の魔力が退くのを感じた。
千陽の魔力を認識しながら、少しずつ強化を施していく。千陽も俺の魔力が入り込んでいることに気がついたのだろう。治癒ともまた違う動きをするのであろうそれに、悶えながらも当惑を見せた。
「ごめん」
他人の魔力が身体の内を探るのは気持ちのいいものではないと聞く。治癒とは違うらしい。すべて伝聞だ。自分がそれを実行するときが来るとは、夢にも思っていなかった。
千陽は乱れた呼吸の中、小さく首を左右に振ってくれる。俺が自分を脅かすことはないということだけは、信用してくれているようだ。そのことに胸を借りて、俺はただただ強化だけに集中する。一百野の姿すらも、視界から外れていた。
それから、数分。……恐らくは数分ほどだろう。その間に、少しずつ少しずつ。本当に微々たる変化ではあるが、千陽の息が整えられていく。どうにか形になっているらしい。その手応えに、ふっと吐息が零れる。
ただそれは、やり方があっていることへの安堵でしかない。楽観視などできるはずもなかった。
だが、そうして一瞬抜いた息の隙間に、人の話し声が耳朶を叩いて眉を顰める。なんだ、と目を走らせると、扉周りに生徒が集まっていた。瀬尾がそれを収めている。戦闘相手だったはずの三人もその手伝いに駆り出されているようだったが、上手くいっていない。
どうして、と思うが、当然の成り行きだろう。あれだけの爆発があったのだ。衆目を集めるに決まっている。近過ぎて、音量や衝撃に麻痺していた。千陽しか目に入っていなかったともいう。
その間に、騒ぎになっていたらしい。何をやっているのか、とこちらを窺われている。舌打ちが零れた。ノイズを引っぺがして、千陽へと視線を戻す。
この緊急事態で、自分たちの噂を取り沙汰されているのが聞こえていた。場違いっぷりに、感情が粟立つ。凶暴性に支配されそうになるのを押し込めて、繊細な動きに注力した。惑わされるな。関係がない。
千陽の身体が虚脱していく。本当なら、歓迎できない。けれど、苦しみに悶えて力んでいたものから解き放たれた。そう思えば、多少は気持ちが凪いだ。
そうして魔力を強化で封じ込められているのが分かったからだろうか。逆側から一百野が治癒を試みていた。それにどれだけの効果があるのかは分からない。
治癒とはその人間の力の増幅によって行われているものとされている。その力には魔力も含まれている。それを俺が抑え込んでいるのだ。適切に治癒がなされるか確証は得られない。だが、やらないわけにもいかなかった。
その間にも、ノイズは鳴り続けている。それで意識が削がれるとは言いたくない。そんなものに気がつけないほど、千陽に集中していたい。だが、一度気がついてしまったものはなくならなかった。それも、苛立ちを煽るものだ。
腹の底でイライラとマグマが沸き立つ。
「貴志、深呼吸しろ」
一百野も状況をよく思っていないのだろう。言ったそばから、自分で深呼吸していた。同調してくれるものがいるのはありがたい。
釣られるように深呼吸して、気を静める。効果があるのか。正直に言えば、ノイズがどうにかならない限りどうにもならない気がした。気がしたが、力技で捻じ伏せる。捻じ伏せても捻じ伏せても、現状が再び火を灯してくるのを鎮火する。今、燃え上がっている猶予は一瞬たりとも残されていない。
千陽の呼吸は落ち着きを取り戻していた。
「大丈夫か? 苦しくないか?」
「うん」
囁きにも満たない。か細く掠れた肯定が、上滑りしている心に錨を降ろしてくれた。
同時に、その細やかな声を邪魔する外野への憎悪が駆け回る。自分の中に、ここまで他人に向ける攻撃性があることを初めて知った。千陽への感情が重すぎる。
しかし、根づいて大輪の花を咲かせているそれを引き抜くことは困難だった。栄養はいつだって目の前から供給される。枯れることのない花によって、その和やかさとは対局の感情すらも育てられていた。
「そいつでどうにかできるのかよ」
何も俺を目の敵にしているのは実践した三人だけじゃない。Bクラスの面々は、常々どこかに滞留させている感情なのだろう。
それを否定するつもりもないし、俺だって他の下位クラスのやつが千陽にベタベタしていたら苛立つ。ただ、内心で押さえておけよと思うし、外に出すとしても今ではない。憤怒が口から零れ落ちそうになった。
だが、それは外に出る前に強制的に停止させられる。
「何やってるの?」
凛と通り抜けた声は、よく知った声だった。知った声だったが、そう親しくしている相手ではない。しかし、それはこの場の意識をかっ攫ってくれる存在であった。
主席。学年一位。現れた夕貴へ道を空けているかのような移動音がする。それから、幾人かの声が問いかけに答えていた。とはいえ、周りだって事情を知っているわけじゃない。見たまんまのことを伝えることしかできていなかったし、そこでも余計な文言を伝えるものもいた。
ぎろりと睨み上げると、一番に目が合ったのは夕貴だ。湖面のような瞳は、何を考えているのか分からない。夕貴に何を言っても無意味だ。じろりと周囲へ視線を流すと、夕貴に事情説明していたメンツがたじろぐ。
ろくでもない顔をしていることだろうは分かったが、配慮なぞしてやる気は更々なかった。息を吸ったところで、腕へ触れる熱の感触に下を見下ろす。心配そうな顔をした千陽が、俺のことを見上げていた。
「……千陽?」
「大丈夫だよ」
先ほどよりも鮮明な発語に、目を瞬く。一百野へ視線を投げたのは、喋って大丈夫なのかを確認したかったからだった。
「ひとまず、大丈夫だ。お前の強化は、上手く持続して火ノ浦を守っている」
どっと腑抜けそうになる。実際、少し身体が傾いだ。腕に触れている手のひらに力がこもったことで、なんとか立て直す。
「貴志君、無理しないで」
「無理じゃない」
無理であったとしたって貫き通すに決まっていた。しかし、それは千陽の表情を曇らせるに十分だったようだ。いつかのやり取りが思い出される。また、要らぬことを考えているのだろう。
泣きそうになった頬に手のひらを添えた。自分の手が火傷していることに気がつく。そりゃ、千陽も心配するだろうということにも。だが、だからと言って引くつもりはびた一文もなかったが。
「……無理させてくれ。千陽が傷つくのは嫌だよ」
親指の腹で頬を撫でる。火傷の跡があったって、どれだけ苦悶に歪んでいたって、泣きそうだって、何だって。千陽が千陽としていてくれるだけで俺はいい。できれば笑っていて欲しいけれど。
すぅっと長く息を吐いた千陽の頬が、手のひらに懐いてくる。安らかに見える顔に、目を眇めた。悲鳴のような声が一部轟いていたが、そんなものは気にならない。さっきまでの怒りが、驚くほど収まって平静をもたらしていた。
「誰か教師に連絡したの?」
周囲の状態や俺たちの状況。そういうものをひとつも斟酌していないかのような声が問いただす。夕貴の問いに答えられるものはいなかった。
「……危機感が足りなくて、緊急事態に何もできないなんて、魔術師として愚劣もいいところじゃない?」
言いながら夕貴はすぐに周囲へ指示を出し始める。それに飛びついたのは瀬尾のようで、正確な事情が夕貴に渡ったようだ。
そこからは、妹にすべてを投げ出すだけでよかった。俺は雑音に惑わされずに、千陽のことだけに集中する。
もう魔力は落ち着いていて、魔術が発動していないのではないか。そうした思考もあったが、怖くて解けない。千陽もやめてくれとは言い出さなかった。自分の損耗具合を理解しているのだろう。
そして、一百野はできる限りの治癒を施してくれた。そもそも、治癒は万全のものではない。そのうえ、魔力を遮断している。制限された治癒では、大きな成果は得られなかったはずだ。
それでも、一百野家の名に恥じぬ光魔術の使い手だった。そんなことを言えば嫌な顔をするから、口にすることはないけれど。けれど、感謝はひとしおだ。
そうこうしているうちに、夕貴から連絡を受けた教師が担架を持って保険医とともに駆けつけてくる。そこからは、俺たちはお役御免になった。
それどころか、俺は治療を受けるほうに早変わりだ。服は破れているし、右足首は捻挫で青黒く腫れ上がっていたし、手も顔も、至る所を火傷していた。外見だけなら、誰よりも負傷していたかもしれない。それが見逃されることもなく、医務室へと運ばれてしまった。
なので、俺たちの成績がそれなりによかったこと。夕貴のおかげで現場の収拾がついたこと。瀬尾と夕貴が思ったよりも意気投合したらしいこと。一百野の活躍が話題になって、女子人気が上がったらしいこと。千陽の内臓は無事だったこと。ただし、火傷の跡はしばらく残るということ。俺と千陽の交際はもはや周知のこと。
最後のは周知されたところで真実ではないのだが、恋人ということで確定されているということ。
そういったことはすべて、翌日の昼間に見舞いにやってきた瀬尾と一百野に聞いたことだった。それから、もうひとつ。まだ眠っている千陽が、隣のベッドに眠っている重要な情報も。
挙げ句、それを言い残した一百野は、真剣味などどこかに忘れた顔でニヤニヤ笑って去って行った。昨日捧げた多大な感謝を取り消したいほどに鼻持ちならない顔に頭を抱える。
「ちゃんと見てやってね」
と付け足された瀬尾の言葉すら、煽りにしか聞こえなかったことは申し訳なかった。
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