第三話

「んぐっ」


 とても乙女が出してはいけないような低い呻き声が隣から聞こえる。

 瀬尾は俺たちの腕を掴んでいるしかない。その握力が弱まっているのだろう。千陽の腕力では、限界間際のようだった。

 俺だって、そう長く持つ気はしない。強化で踏ん張れるとしても、元の筋力ありきの話だ。鍛えているつもりではあるが、崩れ落ちた階段の崖から人一人を片腕で引き上げられるほどの豪腕ではない。

 体術を使うしかない分、鍛えてきたつもりだった。だが、これほどまでを想定していない。自分がまだまだ甘い生徒であったことを思い知らされた。このままじゃ、三人揃って共倒れだ。

 下は真っ暗闇でどうなっているか分からない。一か八かで落ちるには、リスクが高過ぎる。だったら、一か八かで引き上げるしかない。


「千陽。一人で踏ん張れるか?」


 もう十分踏ん張っているし、息も荒くなってきている。無理を言っているのは分かっていた。だが、それでも千陽は無理だと即断はしない。しないが、かといって了承もできかねたようだ。

 実践できる腕力が自分に残っているのか。自信がないのだろう。千陽は外部魔術の使い手だ。殊更に鍛え上げているほうではない。細腕なのは、よく知っている。男女の筋力差を考えれば、とっくに極点すら超えているのかもしれない。


「……ごめん。確実とは言えない」


 心底、痛恨であるような。歯ぎしりが聞こえてきそうなほどに苦虫を噛み潰したような顔だった。

 当然だろう。それは瀬尾を助けられないかもしれないと弱音を吐いているも同じなのだから。しかし、冷静な判断を下せるのは悪いことではない。

 俺だって、自身の強化を保ったまま片手をついたとして、外部魔術が使えるのか確実性はない。どうせ確実性がないのなら、と俺は足元へ意識を向ける。時間も猶予も何もかもないのだから、どうせ賭けるなら一度はやってみる価値はあった。

 足先に力を入れて、地面の強化を試す。しかし、時間経過で疲れてきた腕の痺れに意識が取られて、足元の硬さを悠長に確かめていられないし、感覚に自信が持てない。駄目そうか、と魔力の動きの鈍さに奥歯を噛み締める。

 しかし、そうすることで、本格的に力が入らなくなっているのを実感した。早晩、踏ん張れなくなる。その自覚が伴ったのが悪くなかったのか。腕への重圧が一気に増した。


「ぐっぁ」


 それは千陽も同じのようで、二人揃って下を見下ろす。腕力だけで身体を支えている瀬尾は、脂汗を垂らして紙のような顔になっていた。


「ごめん、もう。離して」


 疲労と緊張感。二重苦で憔悴は倍以上。瀬尾はもう覚悟を決めたように呻き漏らす。その瞬間、千陽の腕に力がこもったのが分かった。


「絶対に嫌!」


 叫んだ声の野太さは、逞しい宣言だ。

 だが、その声音を合図にしたかのように無残な地響きが足元から鳴り響く。足元が崩れることはなかったが、その地震のような揺れに踏ん張りが利かなくなった。

 発汗で滑る手のひらも、まずいと直感したのも、三人同時だっただろう。そして、来るべき衝撃に備えて目を閉じてしまったのも、同じだったかもしれない。広がる暗がりに、このまま落ちていくのだろうと信じていた。自分たちの実力では、保てない。

 だが、その衝撃は一向にやってくる気配はなく、その代わりに後ろから自分たちを支えて瀬尾の手を掴み直す大きな手のひらが重なった。


「渾身で一気に引け!」


 届いた声は聞き慣れた者の、聞き慣れない怒声だ。混乱よりも先に身体が動いたのは本能だろうか。

 加わった真新しい力に引き上げられるかのように、俺と千陽は渾身の力で瀬尾を引いた。引き上げられたのは上半身だけだったが、そこまで上がれば後は瀬尾だって死力で這い上がってくる。

 そのままずるずると進んで、崩れた階段から離れたところまで移動した。俺と千陽も這々の体だ。乱れた呼吸が戻らずに、息を整える呼吸だけが渦巻く。それが徐々に落ち着いて、深くて長い安堵の息になったところで


「平気か?」


 といつも通りに落ち着いた一百野の声が響いた。揃ってそちらへ目を向けると、苦い顔が佇んでいる。


「いたのかよ」

「焦ったわ」


 噛み合ってはいないが、助かったことは事実なのでそれ以上詰め寄る気はなかった。

 それに、最初から一百野がいたからといって無事だったかは分からない。三人で逃げて紙一重だった。四人だったら、最後尾は落ちていたかもしれない。悪い方向の可能性もある過ぎたことなど言っていても仕方がなかった。

 何より、無事に済んでいるのは、一百野が間に合ってくれたおかげなのだから。


「蒼依ちゃん、大丈夫?」


 一百野は返事のできた俺はひとまず平気だと断じたらしい。その瞳が倒れ込んでいる瀬尾のほうを向いて、すぐそばに屈み込んだ。

 瀬尾の目が緩く一百野を見上げて、小さく顎を引く。こうしてよくよく見れば、瞳が潤んでいた。青いそれがどこか緑にも見える。それほど興奮にも近しい恐怖を抱いていたのだろう。


「……手を出して」


 出し抜けの言に、瀬尾の首が傾けられる。動作のすべてが気怠げだった。


「知ってるだろ。これでも、一百野なんだよ」


 一百野は苦笑気味に答えると、自ら瀬尾の手を握りにいく。指の隙間を埋めるかのような手つきに、瀬尾の表情が歪む。


「なに」


 ようやく発せられた声は、不機嫌さが滲んでいた。女癖が悪い。手が早い。そんな軽薄な噂ばかりが流れている相手に手を握られれば、こんな反応にもなるものなのだろう。場合が場合というのもあるかもしれないが。


「回復」

「触れないとできないの?」

「安パイだよ。蒼依ちゃんだって、今のままはしんどいだろ」

「……火ノ浦さんと貴志だって、しんどいでしょ」

「火ノ浦にこんな真似したら、貴志に殴られるよ」

「はっ!?」


 真面目に回復の話をしていたかと思ったら、こっちに槍が向いていて声が出た。隣で座り込んでいた千陽も、声なく目を丸くしている。零れ落ちそうな紫色が火球の影響を受けてゆらゆらと揺れていて宝石みたいだ。


「気に入らないだろ?」


 にやりと片頬を上げて寄越す笑みに、思わず手が出そうになる拳を握り締めて堪える。瀬尾の治療中じゃなきゃ、我慢などしなかった。


「……どういう話だ」

「そういう話だよ。まぁ、それに、火ノ浦だって俺に触れられるのは嫌だろ?」

「そんなことは」


 卑下に聞こえる言い回しに、千陽はぶんぶんと首を左右に振る。本音がどうこうと言うよりも、そんなことを言う一百野に驚いて反応しているようだった。


「あたしならいいってのはどういうつもりなの?」

「蒼依ちゃんは今更じゃん」


 え、と瀬尾を見下ろしてしまったのも仕方がないだろう。一百野の手が広いことはようよう知っていたし、瀬尾が一百野を知っているのも知っていた。だが、そこに何らかの関係があるとは思いもしていない。

 ぎょっとした俺に、瀬尾はぶんと首を左右に振った。そうした動作ができるように復調しているのはいいことだ、とそれだけで済めばよかったのだが、驚きは消せない。


「違う違う。一百野とは昔から付き合いがあるってだけ」

「付き合い」


 繰り返したのは俺ではなく、千陽だった。考えていることは一緒らしい。千陽も一百野の噂を知っていたのか、と今更なことを思った。


「家の知り合いだよ」

「マジで?」


 一百野家と関係がある。それは単純な付き合いよりも、より一層驚くことだ。

 魔術師家系の名家。そこの交友関係に連なると言うのは、なかなかあることではない。名のある家ばかりだと聞いている。瀬尾、がそれほど有名な家系だとは知らなかった。それで何が変わるというわけではないが、やはり驚きはする。

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