第六話
「お疲れ様」
「お疲れ。無理せずにちゃんと休めよ」
「分かってるよ、信用ないなぁ」
「熱心なのは分かってるからな」
「貴志君も同じだからね」
「俺は一百野の同室者だぞ? 部屋でまで真面目にやるつもりはないよ」
「関連性がないのに何か説得力あるよね」
「一百野のパワーってすごいんだな」
「全部を一百野君のせいにしちゃいけないよ」
ぽんぽんとラリーの続く会話が心地良い。友人としての立場を失えないと思うのは、こんなときだ。甘い空間を求める自分もいるが、それよりも安全牌を取ろうとする気持ちのほうが大きい。
それに従うように雑談を繰り広げながら、訓練室を出て鍵をかける。
「私、返しとこうか?」
「いいよ。そのくらい」
「これ以上、借りを増やしたくないんだけどなぁ」
「まだ言うか」
「一緒に返しに行くよって言ってるんだけど」
「……じゃあ、そういうことで」
退ける理由もなかった。俺が譲らないことを見越した妥協案で、まんまと釣られているのかもしれない。それでも、釣り餌の旨みは抗いがたいものだ。口論にもならずに決着して、俺たちは職員室に向かおうとした。
その瞬間、
「あ!」
と声が滑り込んでくる。
声の正体は金髪の男。それから、長い藍色のロングヘア女子、深緑色の編み込みを垂らした眼鏡女子の三人組からだった。どの顔にも見覚えだけはある。Bクラスの生徒だろう。
三人の視線は、手前にいる俺を通り越して、千陽を捉えていた。クラスメイトなのだから、おかしなことはない。ないはずなのだが、嫌な予感がした。
そして、それが正解だとばかりに、三人は俺を完全にスルーしくさる。
確かに実技のクラスが同じといっても、面識はない。だが、同行者に一瞥もくれない無愛想さが三人揃って同調しているとするのは無理がある。意向を示し合わせでもしなければ、そんなことにはなり得まい。
「火ノ浦さんも、試験に向けて特訓中?」
「そうだよ。そっちも?」
答える千陽は笑顔だった。だが、その瞳が一瞬こちらへ流れることで、三人の異様さを感じ取っていることを悟らせる。向こうが分かったかどうかは定かではなかった。
「そうだよ。チームの結束力を高めようと思ってね」
「バランス大切だからね。そろそろ仕上げておかないとキツいよね……火ノ浦さんはどうするか決めてるの?」
良い度胸だな、というのが正直な感想だ。
そりゃ、千陽が試験に向けて特訓している場に俺がいるからといって、チームメンバーだと確定しているわけではない。だが、そこまで妙な考えを回すことはしないだろう、普通は。
千陽の笑みが引きつった。
「もうチームを組んでるよ」
「……貴志、くん?」
そこに至って、三人の目がこちらに向く。侮蔑とまでは言わないが、不信感しかなかった。そのくせ、名前は知っているらしい。
……それも、そうか。千陽にこうした声のかけ方をするくせに、俺のことを知らないというのはおかしい。もう俺にもそれくらいの自覚はあった。そして、恐らく夕貴のことも知っている。
「そう。貴志君たちと組んでるの」
「……二人?」
「ちゃんと四人いるよ」
それはちょっと嘘じゃん。
とは思ったが、千陽が三人を相手取るつもりがないことは分かっていたので黙っておく。そもそも、俺が話題に入っていけそうにもなかった。
「へぇ……クラス違うけど、大丈夫なの?」
それは連携が取れるのか、とも取れる塩梅を測ったような言いざまだ。だが、問い詰めれば違うだろうことはあけすけだった。
ならば、言いざまを取り繕ったところでとは思うが、言質を取られたくはない悪知恵だろう。半端な物言いをしていれば、逃げ道がある。序列が違うものと一緒にやるなんて、と高圧的な態度を問い詰められても、そんな気はなかった、と。
「何の問題もないよ」
千陽だって、そうした小賢しいやり方に気がついているだろう。それでも、確固とした笑顔で撥ね除けるかのように頷いた。あまりにも歯切れが良いので、こちらが心配になるくらいだ。
Bクラスの千陽に、EとFでできたチームが不相応なのは間違いない。俺自身、視点を引いてみるとそう思えるのだから、周囲から見れば尚のことだろう。
案の定、三人は不快な目つきをこちらに向けた。千陽に向けない理性があるのは褒めるべきところなのだろうか。それとも、性格が悪いとなじるべきところなのだろうか。
「火ノ浦さんって優しいんだね」
やはり、性悪だとなじってやるべきなのかもしれない。相手にされないこともやむなし、とは思っているが、こうまであからさまだとイラッともする。
しかし、自分よりも苛立ちを滾らせるものがいると、熱量は落ちるものらしい。眉間に皺の寄った千陽のひりついた空気に、苛立ちよりも焦りが加速した。
「だから、甘えてるんだ。悪いな」
横入りした俺に一番不満な目をしたのは千陽だ。いつ文句を言い出してもおかしくない顔つきを無視して、三人に向き合う。
元より千陽よりも前にいたのだから、千陽の視線を遮ることは難しくなかった。背中を貫いてくる視線の鋭さは堪えるが、千陽が矢面に立つよりは数百倍もマシだ。
「千陽に見合うようにするためにはいくら時間が合っても足りないから、そろそろ行かせてもらうな」
断罪するつもりはない。面倒なことを避けたい心情のほうが強かった。
千陽からの視線は文句たらたらだったが、こんなことで揉めてもいいことはひとつもないだろう。千陽だって暴走した少女というレッテルが貼られている。下手に下の者を庇わないほうがいい。
三人はまだ千陽に言いたいことがあるようだったが、俺は素知らぬ振りで
「それじゃあ」
と空気の読めないヘラヘラした笑みを浮かべて、踵を返す。
振り向いた千陽の表情が険悪過ぎて、思わず足が止まりそうになった。それを意地で踏み込んで千陽の手首を引っ張ってその場から引き剥がす。
振り返ることはしなかったが、視界の端で捉えた後ろは、三人揃って恩着せがましい顔をしていた。三人の言いたいことも、隣から突き刺さる瞳が言いたいことも分かりやすい。すべてをまるっと無視して廊下を進んで、角を曲がった。
後ろからついてきている足音はない。追ってくるほどのバイタリティはなかったようだ。しかし、隣の少女の眼力は弱まらない。千陽のほうに注意して場を離れたのは正しかったようだ。
「……貴志君」
「揉めるなよ、頼むから」
握っている手首に力を込めて、千陽の勢いを削ぐ。今すぐ戻ろうとするような気配は消えたが、尖った表情は変わらなかった。文句が山積しているのは明々白々だ。それほど反駁せねば我慢ならぬことかと、千陽の威勢のよさには疑問がある。
頼りにはされているだろう。そうした人間を見下されて黙っていられる性格でもないだろう。だが、それにしたって、苛烈さが凄まじい。
ぱくり、と開かれた口から出てくる言葉の種類を察することは、状況から見て容易に過ぎた。
「でももだってもない」
先回りできたらしい。千陽は開いた唇をぱくんと閉じた。だからって、意見がなくなったわけじゃない。飲み込んだものが競り上がってくるのに、時間はかからなかった。
「……甘えてるのは私だし、チームだって私が好きで組んでるんだもん。言いたい放題言われるの、嫌だよ」
険しい顔つきのわりに、零れる愚痴は拗ねたようなものだ。ギャップのある態度が胸に迫ってくる。
甘える、というのが許容や援助の意味を指していることは分かっていた。分かっていても、甘言に聞こえる。耳鼻科にかかっても、脳外科にかかっても、治してはもらえないものだ。
「いいよ、気にしなくて」
「私が嫌なの!」
駄々を捏ねるように言われると、怒りも可愛いものに見えてくるのだから、欲目だろう。かかった恋のフィルターは薄まるどころか濃さを増していた。ただでさえ始末に負えないほどだったのだから、もう一切合切取り返しはつかない。
俺はいつまで黙っていられるのだろうか。
「じゃあ、千陽が俺に甘えてくれてるなんて可愛いとこ、他の子に知られるのは俺が嫌だから、黙っててくれよ」
懇願するような声は、照れくささで掠れた。
こんな歯の浮くようなセリフは、一百野の専売特許だろう。女関係の話をつぶさに聞いた記憶もないけれど。同室者の影響力とは途方もないものなのかもしれない。
「あぅ」
鎖骨から耳の先まで真っ赤に染まった千陽の口から言葉にならない感嘆詞が零れた。唇は戦慄き、紫色の瞳が揺蕩っている。
今までだって、照れくさくていたたまれないやり取りを繰り返していたはずだ。しかし、千陽の中では、確かな線引きがなされているらしい。その境界線は自己的で、外側から見ているだけの俺からは判別ができなかった。
千陽は、はくはくと唇を動かしていたかと思うと、捕まえられていないほうの手でこつりと胸板を殴ってきた。それは殴ると言うには無力で、拳を当てて押し付けているだけだ。ぐりぐりと連続して攻撃を仕掛けてくる手を捕まえる。
両手首を掴む格好は、堪え性のないものを捕らえているようだった。捕らえられているのはこちらのほうだというのに。
「お願い。何でもしてくれるんだろ?」
場を収めたかったからか。目の前で千陽が恥じらっていたからか。そのときばかりは含羞よりも、説得することに意識が向いていた。そうして零す言葉は、口説き文句にも似ている。
それに気がついたのはすべてが終わった後で、俺はもんどり打って足の指をベッドの枠にぶつけた。
「わ、分かった……! 分かったから」
叫んだ千陽は耐えきれないとばかりに顔を伏せた。本当は逃げ出したかったのかもしれないが、手首は俺が拘束してしまっている。可愛過ぎて接触しているのがつらくなって、そろりと手放した。
しかし、威勢をなくした千陽は逃げ出すこともできないようで、顔を覆ってその場に座り込む。見下ろすつむじすらも可愛いと思うのだから、頭が煮立っているのもいいところだ。しかも、その感情に飲まれた手のひらが、あっさり頭を撫でだしているのだからたまらない。
そのビロードのような手触りに、正気に戻ったのは早却だ。すぐに手を引け、と思考は反応したが運動神経とは一致していなかった。身体が石化してしまっている。千陽から反応がないのも怖い。
暫時。それから、ゆっくりと真っ赤な顔がこちらを睨み上げてくる。目元まで赤くなっている姿は、いっそ可哀想なくらいに可愛い。語源だっけ? と素っ頓狂なことを考えていたのは、現実逃避だ。
「ばか」
罵倒にあるまじき甘えた声音に、血流が速まって、脳内に熾火を突っ込まれたようだった。
「かっこつけ! キザ! もう! 恥ずかしい!」
ぽろぽろ零れ落ちる単語は、責め言葉として使われているのだろう。
だが、俺の心にひとつも傷はつかない。それどころか統率の取れないほどの羞恥心にもだつかせているのが自分だと思うと、満足感すら抱かせた。こんな征服欲のようなものを持っていたとは。
「わ、悪かったな! 千陽が無茶しようとするからだろうが」
「だからって、言い方があるじゃん! あんな……あんな」
ぱくぱくと音にならない語尾は、なんだろうか。
あんな、本当の恋人のような。
俺の思ったものと同じであればいいと思いながら、それだと身の置き所がない。遅ればせながらの羞恥心が、どんどん強くなっていくようだった。
「悪かったよ!」
もう謝るしか手がなくて、俺は両手を挙げて降参する。
事態を動かすにも、どっちに行けばいいのか分からない。逃げ出すにしても、揉めかけた後の千陽を置いていく気にはなれなかった。瀬尾のように間に挟まって引っ掻き回してくれるものもいない。
どうすべきか。
がらんどうの頭が回ったところで、からからと音が鳴るだけだった。そうこうしているうちに、千陽ががばっと立ち上がってくる。勢いづいていたものだから、危うく頭突きを食らうところだった。
立ち上がった千陽は、大きく息を吸う。何をするつもりなのか。何が来てもいいように、無意識に足を踏ん張った。
「あ、甘やかしてくれるって言ったんだし、あんな人たちの態度を気にせずに済むように、責任取ってよね! そういうことで!」
取るよ。一生の責任だって取るよ。
意味深過ぎる言いざまに、脳内には無条件反射のように言葉が浮かんだ。しかし、実際には何も返せぬうちから、千陽は背を向けて駆け出していた。
名残惜しさは無量にある。手を取って、引き止めて、言葉の意味を問いただして、黙っていられなくてみっともなく零すことになる前に、すべてを伝えてしまいたいと。だが、そんな準備もなければ、千陽は脱兎だった。
置いていかれた俺は、たった今まで千陽が座り込んでいたそこに、頭を覆ってしゃがみ込んだ。今になって、自分のやり口に心臓がどったんばったん暴れまくる。
どんなに逃げ出したくなっても、逃げられない。だって、追い詰めているのは自分だから。
はーっと深く吐いたため息の中で、責任取るかと考えていたのは、どう考えても馬鹿だった。
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