第五話

「だって、暴走したときだって助けてくれたんだよ?」

「感謝はしてもらったよ」

「あれ、は……」


 千陽が失速する。頬に朱が刷けることで、悲しみが消えて見えたことにはほんの少し強ばりが解れた。だが、あれを思い出すのは思い出すので気恥ずかしいので、状況が改善したのかは怪しい。


「……あれを感謝にすると、私かなり痛い子じゃない?」

「どこが?」

「うっ」


 千陽を痛い子だなんて思ったことは一度もない。

 あのときだって……いや、あのときはそんなことに思いを馳せている余裕が寸毫もなかった。逃げ帰ったようなものなので、むしろこっちのほうが失礼だったのでは? とちらと思ったが、恐らく主眼はそこにはないだろう。どもった千陽の返事を待った。


「……だって、確かに、感謝を示す行動ってことで広く知られていることだけど、私のそれだけで十分釣り合ってるって、自己評価高過ぎでしょ? 私の口付けにそんな力ないもの」


 それに同意することは難しい。俺があれからどれだけ冷静でいられない時間を過ごしていたか。力があり過ぎたくらいだ。

 黙ってしまった俺に、千陽は肩を落とした。勘違いさせているような気がして、心が上滑りする。俺たちの会話は噛み合っていないのでは? とここにきてようやく噛み合わせの悪さに気がついた。

 だが、気がついたところで、根本から立て直す力がない。今はとにかく、落とされた肩の元気を取り戻すのが先決だ。


「十分感謝は伝わったし、俺はあれで釣り合ってたと思ってる。精算は済んでる。もう終わった話だ」

「じゃあ、それは終わったとしても、今日まで自主練に付き合ってくれたのにはお礼ができてないよ」

「自主練は俺だってやってるだろ? 千陽のためだけにいるわけじゃないぞ」

「……そうだけど、私に付き合ってくれてる時間のほうが長いでしょ?」


 気付かれていたらしい。

 お互いに、魔力を練って訓練していた。手合わせをするのだって、お互いのためになっている。俺だって自主練しなくちゃならない。何も千陽だけの時間ってわけではなかった。

 ただ、手合わせの時間も休憩の時間も、何もかもを千陽優先で動いてしまっていたのも事実だ。それを千陽に付き合っていると言うのならば、そうかもしれない。俺はそれでもいいと思っていたが、千陽はそうではないようだった。


「だから、申し訳ないなって」

「俺はちっとも気にしてないし、だったら食堂以外で夕飯奢ってくれるとか、そういうのでいいけど」

「それで返せるなら返すよ! けど、時間なんかもらっちゃったら、そんなことで返せる量じゃなくなっちゃうでしょ」

「いいよ」


 釣り合いを気にする千陽の気持ちが少しずつ分かってくる。借りとか、そういう類のものだろう。分かる。俺だって、やられっぱなしだと落ち着かないはずだ。

 だが、やるほうになれば、そんな見返りを求めやしない。少なくとも、俺が千陽に手を貸すのに理由もいらなければ、見返りもいらなかった。どんなに食い下がられても、この事実は変わりがない。

 ただ、向こうの心情もおいそれと崩れるようなものではないようだ。平衡の話は平行線を辿る。


「どうして?」


 返せる返せない。その応酬に息詰まりを感じたのか。千陽の責めどころが変わった。そして、そこを追及されると都合が悪い。分からないからではなかった。一点の曇りもなく分かりきっているからだ。

 俺が千陽に尽くすのは、彼女を想っているからに他ならない。

 ただ、それをこの文脈で告げるつもりはなかった。もちろん、好意があるから、必要以上に気にかけている。だが、それがなくったって、魔術に困っている人を放っておけるものではなかった。

 それが千陽だから、ということはあるにしても、好意だけで動いているのではない。自分もその苦しみが分かるから動いている。

 物事は綿密に結びついていて、それをひとつひとつに区分けすることは難しい。絡まった糸の一本一本に別の意図がある。その絡まった太い一本が恋に染まっていようとも、ひとつひとつの存在がなくなるわけではない。

 その中のひとつを取り出そうとした。恋以外のものを。それは多少卑怯な逃げではあっただろうが、すべてが本心であるのだから嘘ではない。

 その思考の無言に、千陽は俺のほうへと乗り込んでくる。


「貴志君?」


 覗き込んでくる瞳は、目と鼻の先だった。こちらに乗り出していた身は、気がつけばゼロ距離まで擦り寄っている。

 太腿が触れ合っていて、千陽の手のひらが胸板に突かれた。抱きつかれているも同じで、身動ぎひとつできずにいる。一ミリでも動けば、千陽のどこに触れてしまうか分からない。腕の辺りに触れている弾力が何なのかは考えないようにした。


「……俺だって、通った道だし、チームなんだから、千陽が魔術を上手く使えるようになるのは、俺にも旨みがある」


 かなり言い訳めいて聞こえただろう。ここまで無償であることを押し通していた男から捻り出された旨みという文言は苦しい。


「……どうして?」

「俺は千陽のことを大事に思ってる。火傷して欲しいとは思わないよ」


 胸に押し当てられる手のひらを包む黒手袋に触れる。つるりとした布触りは味気ない。この下にケロイドが残っていることを知っているのは、きっと俺だけだ。怪我して欲しくないと願うのは、友人として間違っていない。そんな釈明を胸に、堂々とした態度を貫いた。


「……怪我するのは自業自得だよ」

「事故だよ」

「あんまり、甘やかさないで」

「甘やかしてない。怪我して欲しくないから練習しろって押し付けてるだけだからな」

「……」


 唇を引き結んだ千陽の頭が、肩口へと落ちてくる。擦り寄られると、シャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。甘い花のような香りが、ぐずりと脳髄を溶かす。溶けた思考から漏れるものは、検閲にかけられることもなく通り抜けていった。


「助けたいんだ。俺にやらせてくれよ、千陽。付き合わせて?」


 縋るような声は、どうにも甘えるようになる。すぐにでも逃げ出したくなったが、そうまでしてでもそばにいてやりたいのは紛れもない本心だった。

 魔術に悩んでいる千陽を一人置いておくことはできない。他の誰かに助けを求めることが我慢できない。こうして自分の腕の届く範囲にいて欲しい。

 これはエゴだ。嫉妬心や独占欲の果てにあるものだ。無償の協力なんて、そんな綺麗なものじゃない。下心満載で、どこまでも独善的なものだ。千陽に感謝される謂れもない。

 千陽のそばに置いてもらえるという幸福を見苦しくも手篭めにして享受しようとしているのだから。


「本当にいいの? 付き合ってくれる?」


 擦り寄ったまま、上目に窺われる。なだらかな頬の輪郭を添う毛束が胸の上に乗っかって、円弧を描き出していた。ごくりと生唾を飲み込む。

 触れていた黒手袋を外して、その傷跡に指先を這わせた。指の腹で撫でつけると、そのまま指先を絡めて繋ぐ。

 俯瞰した自分が、何をしているのかと動転して喚き立てていた。だが、脳神経は独立した器官のように俺を動かす。こんな大胆なことをしでかす蛮勇は、どこかもっと貴重な場面に取って置いてもバチは当たらないのではないか。でも、今だって適当に済ませていい場面ではない。

 千陽の虚勢が剥がれた隙を埋めてやりたい。強欲な献身で、その手のひらを握り締めた。


「千陽が許す限り、君に付き合うよ」


 主導を相手に譲る。そういえば紳士的だろうが、すべてを千陽に任せてしまうも同然だ。何も優しいことはない。ただの臆病者だ。

 しかし、千陽はそんなことを責めたりしなかった。善人であるからかもしれない。


「ありがとう。私も貴志君の役に立てるようにするからね」

「見返りはいらないって言ってるだろ」


 擦り寄ったままだから、囁き合うような形になる。普段通りに喋っても問題ないはずなのに。距離が近いと、秘密めいたやり取りをしてしまうものなのだろうか。他の人間とこんな距離になったことなんて一度としてないものだから、何も分からない。

 ただ、その相手が千陽であることが幸運だということだけは分かっている。


「ううん。これは私の気持ちだから、貴志君がどれだけ言っても渡すの」

「……」


 ちろりと見下ろした。重なった瞳は吸い込まれるように艶めいていて、今更ながらに心音が躍動する。その艶が正しく俺を誑かした。


「だから、何でも言ってね?」

「……男にそういうこと言うもんじゃねぇよ」


 言う必要はなかったはずだ。だが、ぎちぎちに膨れ上がった欲求のようなものが弾けるのが恐ろしくて、まるで真人間のように零してしまう。

 千陽はぱちくりと瞬きをして、顔を持ち上げた。凝視してくる目力に耐えきれずに、視線を逸らす。千陽はしばしの間を置いて、ぼんっと頭を沸騰させた。

 こっちまで恥ずかしさが爆発して、首の後ろから熱波が放出される。慌てて手を離すと、千陽も我に返ったように身を離していった。空けた隙間に薄紅色の空気が燻って、すわりの悪さが一息に湧き上がってくる。

 それは千陽とて同じだったようで、そわそわと身を動かしていた。


「……悪い」

「わ、たしこそ、甘えてごめん」

「それはいい」


 嬉しかった、というのは蛇足甚だしい欲望の塊なので飲み込む。

 千陽は甘えを受け入れられたことが面映ゆいのか。顔を逸らして俯いていた。赤い髪の間から、赤い耳が覗いている。それがなければ、自分が整然としていられたとは思えない。不安で顔を覗き込まないで済んだのは、感情の発露が見えたからだ。


「……あ、りがとう、ございます」

「どういたしまして」


 これ以上、この話題に停滞しているのは危険だった。場合が場合なら、話を詰めたって構わないものだっただろう。けれど、とうにキャパを超えてしまった頭は、今度こそ身体と連携を取って逃げ出していた。


「ほら、千陽。時間がもったいないよ」


 使用時間はもうない。二人でふやふやしている場合ではなかった。

 いや、十分に意味のある会話だったけれど、それでも甘酸っぱい空気に留まっているのはもったいないと言えるだろう。

 無理やりに別方向に水を向けたのは、千陽にも分かっているはずだ。それでも、逃げ出したいのは千陽も同じだったのか。もったいないと気持ちを切り替えてくれたのか。


「そうだね!」


 と、俺の言葉に乗ってくれた。強引に入れ替えた空気は、どうにか形をなしていく。

 もったいない。今までの空気を惜しむ気持ちも確かにある。矛盾だらけで心がバラバラになりそうだった。ただ、千陽のために、ということだけが今の俺を支えている。

 そうして手合わせを始めれば、事は強引ではなくなる。千陽が現状、回復に熱心なのは間違いなく、俺だってそうであるのだから。試験へ向けての自主練時間は、矢のように過ぎ去って行った。

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