第四話
俺と千陽は緩々と交流を持ち続けている。そして、噂も本格化していた。そこに夕貴の兄という噂も付属しているため、俺はまるで主役のような扱いだ。
とはいえ、実被害はない。ただただ、遠巻きに見られている。その程度のものだ。気にしなければ気にならない。
一百野にさくっと煽られて、謎の撃ち合いをしたのはよかっただろう。自信をつけさせてもらったことも。おかげで俺は、千陽に尻込みをせずに済んでいた。
千陽とは魔術の話をする。そこから派生して、好みのことを聞くことも多い。好きな食べ物は、チョコレート。甘いものに目がなくて、生クリームも好きだと言っていた。チョコレートの生クリームデコレーションのケーキがあれば、最高らしい。デレデレとした顔で言うので、ちょっとドキドキしてしまった。
それから、趣味は読書らしい。正確には、魔術書を読むのが楽しいと言っていた。共感すると、嬉しそうに頬が緩む。そんな顔を見ているとこちらまで嬉しくなった。
そんなふうに距離を縮めてはいるが、一百野がからかったような、噂になっているような、そんなやり取りはひとつもない。千陽だって、噂を耳にしていることだろう。だが、俺たちの間でそれが取り上げられることはない。否定も肯定もない関係は心地が良かった。
だから、あえて俺から口に出すことはない。俺たちの間では、噂について口にしないのは不文律だ。
ただ、周囲はそうでもない。瀬尾も一百野と同じくらいに、口さがなく問いかけてきた。適当にあしらってある。瀬尾も本気で応対されないくらいがいいらしい。変なやつだ。
そして、話しかけにくるなんてことはもちろん、態度にも出さないが、夕貴にも噂は届いているようだった。あれからすれ違ったのは、たったの一回だ。けれど、その視線に侮蔑が含まれているのを見分けるくらいわけない。
仲良しこよしの兄妹ではないけれど、それでも双子で家族だ。無言に含まれた感情を気取ることくらいはできる。
恐らくは、学園に何をしに来ているんだ、と言ったところだろう。潔癖なきらいのある夕貴が、兄の恋愛事の噂を良く受け止めていないことは明白だった。噂の真偽は問題ではない。困ったことだと思いながらも、それをどうにかしようという気はなかった。
夕貴が知っているのも、その他の生徒が知っているのも、大した差はない。反応したら負け。それだけが確かなことだった。
そうして黙っていれば、噂は下火になっていく。消え去ることはなかったが、色恋沙汰にうつつを抜かしている場合ではなかった。魔術学園に通うというのは、そういうものだ。
中には拘泥しているものもいたようだが、それでも実害はない。千陽の周りでも何もないようだ。と、これは頼んでもいないのに、一百野が情報を掴んできてくれた。
どうやらその辺りの女子と関係を持ったらしい。プレイボーイのやり方はどうかと思うが、千陽にも被害がないと分かったことはありがたかった。
今日も今日とて、俺と千陽は実技の講義に交流を持つ。この時間以外で言葉を交わすことはほとんどなかった。
待ち合わせたり、どこかに同行したり、そんなことをしたこともない。たまたま寮の共同エリアで会ったり、廊下ですれ違ったり。そんなときには挨拶をして一言二言雑談にもならぬ言葉をかけるだけだ。
だから、講義の時間は貴重な会話の時間にもなっている。とはいえ、お互いに訓練も欠かさない。俺は基礎魔術の低レベルくらいのものならば、外部へ発動できるようになった。千陽は炎を安定させることに血道を上げている。
炎の威力制御は難しいらしい。実際、俺との試合で最後に放った攻撃は制御を離れていたと言う。だからきちんと整えたいと、気合いを入れていた。
俺もそろそろ、土属性らしくゴーレムくらいを作り出したい気持ちはある。魔力を練る分にはひとつも問題はなかったが、それ以降が上手くいかない。悪戦苦闘している。
それは何も、俺や千陽だけのことではない。周囲も各々の次の課題に苦労しているようだった。あちこちで魔術が不発しているのを見かける。複数同時的に起こることもあり、場合によっては倒れそうになる生徒もいた。壁際に凭れて休憩する生徒も増えている。全体的に消耗してきていた。
慣れてきたはずの生活の疲れが溜まってきているのだろう。寮生活で人の気配が常にある。慣れたはずでも、慣れていなかった他人との生活の疲れが出る頃合いらしい。これは一百野が先輩から聞いてきたことだ。
この時期を乗り越えると、精神的にも魔術進歩的にも楽になるという。それを聞けば、踏ん張れる。なんてほどに、単純なことでもない。行き詰まるというのは、どんな状況でも心を疲弊させるものだ。そこに、ともに頑張ってくれる可愛い友人がいたとしても。
その友人たる千陽は、周りほど摩耗してはいないらしい。さっきから休憩も挟まずに訓練に集中している。その横顔は凛々しい。紫色の瞳が、紅色に傾いているようにすら見える。それだけ魔力が渦巻いているのだろう。
制御を覚えようとしていたはずだが、そのために膨大な魔力を取り扱うつもりだろうか。千陽の周りには、薄らと魔力が漏れている。神秘的だ。
実技室に当たる体育館の片隅。端っこだ。それだと言うのに、中心であるかのような注目を浴びている。俺との噂がなくったって、千陽の姿は目を惹いて仕方がない。そういうものだろう。あからさまに惚けていなくても、ちらちらと視線を向けているものも多い。綺麗だもんなぁ、と俺も群衆の一人になって千陽を見つめていた。
その姿が少しずつ変化していく。湛えられている魔力の動きがおかしい。人の魔力の動きをありありと追えるわけではないけれど、違和感くらいは分かる。ただ、違和感としかいいようがないのが俺の実力で、様子を見守っていることしかできなかった。
そして、魔力は更に揺らいでいく。
「千陽」
呼んだ声は、微かな音にしかなっていなかった。集中を邪魔する忍びなさがはびこって、どうにも声をかけづらかったのだ。それを悔悟することになったのは、それからすぐのことだった。
かっと目を焼くような強い魔力の光が放たれる。腕で視界をカバーして、瞳を強化したのは無意識だった。周囲の誰もが同じように、目を瞑ったり腕や手のひらで塞いだりしている。
その中で炎に揉まれている千陽の姿が目に入った。俺は肝を冷やしながらも、その身体へと近付く。身体中を強化で覆って、炎の中に飛び込んだ。
「千陽!」
喉が焼けるかもしれない。そう頭の端には浮かんだが、それよりも先に声が出ていた。千陽の肩に手を置いて力を込める。
もう魔力の光は消えていた。目が合った千陽は怯えたような顔で俺を見て、それからぱたっと瞼が落ちた。炎が煙のように消えて、千陽の身体がくずおれてくる。全身で支えると、身体の間で胸が潰れるのが分かったが、そんなことに動揺している暇もなかった。
「千陽! 大丈夫か? 千陽っ」
喉が痛くて、声が上手く出ない。いがらっぽく掠れていたが、そんなことはどうでもよかった。
支えた肩を揺すって、色のない顔を覗き込む。心臓がばくばくと嫌な感じに音を立てていた。魔力暴走がどう、火傷がどう、早く誰かに、と頭の中には思考が浮かんできたが、次の瞬間には真っ白になる。気持ちが上滑りして、言動を操作できない。
「貴志」
呼ばれて、ようやく視界が開けた。開けたことで、千陽のことしか見えていなかったことに気がつく。
今までの比ではないほどの注目を浴びていた。ただ、そんな状況だと気がついても、少しも怯まない。むしろ、どうして余所事みたいに見ていられるんだ、と怒りが湧き上がる。
すぐそばで瀬尾がこちらに気を配ってくれていなければ、俺は怒鳴り声を上げていたかもしれない。
「早く医務室に連れて行ってあげて」
「あ、ああ……」
「マント」
「あ?」
「マントかけてあげて」
言いながら、瀬尾が俺の制服に羽織っている学校指定のマントを剥いでくる。
「いや、あの」
「早く、抱える。千陽さんそのままじゃ身体大変でしょ」
ああ、と今自分が思っているよりも、鈍いことを自覚した。そして、瀬尾の言う通りに千陽を抱き上げる。お姫様抱っこは噂の後押しをするようなものだが、救助のほうが優先されて当然だった。
そうして抱き上げた千陽の上に、瀬尾が俺のマントをかけてくれる。火傷跡を隠すかのような対応に納得した。背中に瀬尾の手が触れる。
「ほら、医務室。しっかりしろ、貴志。あんたが連れて行かなきゃどうすんのよ」
彼氏でしょうが、と含んでいる気がしたが、否定している余裕もない。垂れ下がった千陽の左手を腹へと置き直してくれた瀬尾に再度促されて、歩を進め始める。
この場は瀬尾に任せておいた。頼まなくてもやってくれるだろう。噂の肉付けをしないでくれれば嬉しいが、事の次第によっては仕方があるまい。
本当は走ってしまいたかった。すぐにでも千陽を診てほしいのと、ここから抜け出したいのとで、焦りは尋常じゃないほどにある。だが、走って千陽に振動を与えてしまう恐怖もあった。抱えている身体が冷え切っているのだ。このまま体温がなくなってしまうのではないか、と刹那でも考え始めたら乱暴には扱えない。
抱え込める体格差があったことに、心底ほっとした。強化が強みだったことにもほっとしている。
それは、たった今強化できることもあるが、強化を武器にするということは体術を駆使するより他にないということだ。どうしたって、トレーニングからは逃げられない。強化はあくまでも強化だ。基礎がなければ意味がない。
それに、体力は強化じゃどうにもならない。その結果が、今に繋がっていると思えば、いくらか報われると言うものだった。これには、千陽が小柄ということもあるけれど。
まじまじと見つめるのも悪いと思いながらも、具合を確認せずにはいられない。顔色は真っ青だ。魔力枯渇が近いときの色合いで、危うく魔力を流したくなる。
自分が治癒魔術ができなくて良かった。もしその能力が備わっていたら、俺は容易く魔力を流していただろう。自制心を強く持った。
顔に傷はないが、腹の上に置かれた左手の甲にはケロイドができている。痛々しいそれに目を眇めた。
千陽は炎属性が適性だと言っていたから、耐性があるはずだ。それだと言うのに、傷跡が残っている。そのダメージの深さがずきずきと心臓を痛めた。俺が痛がっている場合じゃないというのに。
千陽は気絶するほどだったのだ。服も煤けている。傷もできている。顔色も悪い。どこにも安心できる要素がなくて、平常心ではいられなかった。
しゃかりきになって、医務室に辿り着く。手は空いていないので、行儀が悪いと思いながらも足で扉を蹴り上げた。からからと扉が開いて、保険医が顔を出すか出さないかの境で医務室に押し入った。
「魔力枯渇してます! 炎魔術の暴走で火傷も!」
頭の整理はひとつだってできていなかったはずだ。状況をコンパクトにまとめられたのは、奇跡だった。これもある種の火事場の馬鹿力と呼ぶのだろうか。
保険医は血相を変えて、俺の腕の中を覗き込んできた。
「すぐにベッドに運んで」
「はい」
投げ捨てるように返事をして、室内の奥に進んでいく。そっと。服が乱れないほどの丁重さで、ベッドの上にそっと千陽を下ろした。
マントを退けると、服が煤けているのがよく分かる。スカートと靴下の間。白い肌にもケロイドの跡がある。鼻先に皺が寄るのが止められない。もう少し早く声をかけて止めておけば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
悔恨に歯ぎしりをしている時間は、さほどない。すぐにやってきた保険医に、カーテンの外へと放り出されてしまった。
それは、そうだ。頭の回らないままに取り残されて、呆然と突っ立つ。
柔らかい。けれど、温度のない肌が手のひらに残っている。長い睫毛に縁取られて閉じたままの瞳も、青く失血している唇も。残ったケロイドの跡も。煤けた制服も。今の千陽を飾るものが細かく浮上して消えない。
クリアに映し出される自分の腕に収まっている小さな体躯。羽のような軽さ。自分の両手を見下ろす。かなり低い体温だった。それでも人体の温さがあって、確かな重みがあった。その感覚が手の内にないことが、異様なまでに恐ろしい。
なくなった、と思うと、どばっと手のひらに汗が滲んだ。震える指先を握り締める。爪が内側に食い込むのが分かったが、それでも力を緩めることはできなかった。
目を閉じると、紅の炎が眼球にチラつく。たまらず、目を見開いた。
苦悶に歪む千陽の顔が蘇る。消してしまいたい。だが、消していいものでもない。千陽のことだ。覚えておきたかった。忘れられるとも思えなかったが、忘れないようにと飲み下す。
どういう暴走だっただろうか。魔術は発動できていたはずだ。千陽は自分の属性について知識を蓄えていた。その千陽が暴走する。何をしようとしていたのか。思考が巡って煮立っていく。
俺はどうすれば、とすべもないくせに、思索は続いた。続いたが、そこには何のアイデアもない。
何も思い浮かばずに、どれくらいのときが経ったのか。時間経過の感覚はなくなっていて、気がつけばカーテンが開いていた。顔を出した保険医がぎょっと目を剥いている。
「何やってるの」
「……千陽は?」
自分が何をしたいのか。何ができるのか。それはひとつだって分かっていなかったが、気がつけば口が開いていた。それだけで、俺が何をしていたのか。保険医は微笑ましい気持ちを込めて納得したような顔をした。
そんなんじゃない。否定はいくらでもできただろうが、それで千陽の見舞いを拒否されるくらいなら甘んじる。
「どうぞ。枯渇状態は脱してるわ。後は眠っていれば回復して目を覚ますと思うから、静かにしてるならいくらでもお見舞いしてていいからね」
「はい」
長い挨拶や会話に乗じている余裕はない。息つく間もなく頷いて、カーテンの内側に入った。置かれている椅子に座る。脱力だったのかもしれない。千陽の顔色が戻っているのを見て、全身から力が抜けた。
布団の中で横になっている千陽の様子は、安眠そのものだ。よかった。凛々しかったところから一点、顔色は悪くなるばかりだったのだ。肌に血が戻っているのを見て、安心しないわけがない。
俺は千陽が目を覚ますまで、ただひたすらにその姿を瞳に写し続けた。
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