第三章
第一話
千陽が目を覚ましたのは、夕方になろうというころだ。
俺は終日、そこから動いていない。講義の後には、瀬尾が顔を出してくれた。からかい混じりであるような気がしないでもなかったが、あの後の顛末を知りたかったので来てくれて助かったのは事実だ。
「まだ眠ってるの?」
「ああ」
「視姦?」
「誰がだ?!」
そうして瀬尾のほうを見ると、呆れ返った顔とかち合った。
「やーっと、こっち見たね」
気がつきたくはなかったが、視姦とからかわれた理由に気がつく。バツが悪くて襟足を掻いた。
「心配なのは分かるけど、もう大丈夫なんでしょ? そんなに力んでなくてもいいんじゃない?」
「分かってるよ」
どうにも子どもっぽい口調になる。心配はしているが、それを外部から突き上げられると狼狽えてしまって、ぶっきらぼうになった。
瀬尾は引き続き呆れた表情を浮かべている。
「ひとまず、あの場は特に混乱もなく収まったから問題ないよ」
「……そうか」
問題ないのならば、それでいい。そう思っているのも本音だが、問題はあっただろうという気持ちも拭えなかった。つつがないことが上等なのに、つつがないことに不満がある。何とも子どもじみていた。
だが、湧き上がる感情の手綱が上手く操れない。自分が今、通常から外れている自覚はあった。
「表面上はね」
付け足された言葉に、ぴくんと身体が跳ねる。どういう意味か、と飛びつこうとした意識が、そのまま動きに出ていた。瀬尾に鋭い目を向ける。当たったところでどうしようもない。そう分かっていても、急く気持ちが消えない。
瀬尾はしょうがないとばかりに肩を竦めただけだった。
「貴志だけに言っとく。火ノ浦さん、暴走する未熟者ってことになっちゃってるよ」
握り締めた拳が自傷する。既に爪痕はついているから、今更自重する気もなかった。
「仕方ないことは分かってるでしょ」
「分かってるよ。悔しいのは、俺の勝手だ」
「ならいいけど、食ってかからないようにしなよ? 火ノ浦さんにも貴志から悟られないように」
「ああ。気をつける」
「じゃあ、あたしは行くけど、次の講義も出ないの?」
「……千陽が目覚めるまでいるよ」
それは俺にとっては当然のことだったが、瀬尾はやっぱり呆れた顔になった。
「否定してないで認めたほうが楽じゃない?」
「大切なことは認めてる」
「それ以上は?」
「それは俺の心の中にしまっとく」
「そういうところが誤解を加速させんのよ」
完全にからかいだ。しょうがないだろ、俺だって分かんないんだから。その言葉は、それこそ心の奥底にしまいこむ。
瀬尾はからっと笑って、
「じゃあ、休みだって伝えとく」
と言い置いて去っていった。
からかう姿勢を緩めないのは油断がならない。問題はなかったというが、俺と千陽の関係を肯定している危うさがある。それでも、教師への伝書鳩になってくれるのだから、それはありがたいことだ。
そうして瀬尾を見送ってから、俺はまた千陽の様子を見るだけの時間に戻った。頭の脇のほうで視姦と言われた間の悪さも存在していたが、それよりも看病だからという甘言のほうが声高だった。
途中、保険医にも「熱心ねぇ」と朗らかなものを見るような声をかけられている。それもまた、いたたまれなかった。それでも、逃げ出そうとは思えなくて、千陽の加減を見るほうがよっぽど大事だった。
そうして、太陽が斜めに下り、地平線へと顔を隠すころ。オレンジ色に染まる医務室の中で、その紫色はゆっくりと光を灯した。
「ん」
小さな呻き声に、衝動的に前傾姿勢になる。覗き込むように瞳を捉えると、千陽はぱちぱちと瞬きをした。それからようやく焦点が合ったのか。状況を思い出したのか。瞳が真ん丸になってから、ぐしゃりと潰れた。
「大丈夫か?」
「……わたし、」
「倒れたんだよ」
それだけで、何がどうなってこうなったのか。分かっているのように寂しげな顔をした千陽は、流れのように自分の手を確認した。
「暴走したんだね」
「痛くはないか?」
資格を得た魔術師であっても、暴走は起こりえるものだ。確かに失態ではあるけれど、傷心している相手の呟きに相槌を打つことができなかった。
齟齬のある会話をしている。自覚はあったし、千陽に気付かれている感覚もあった。滑稽に写っているだろう。それでも、俺は少しでも千陽の気持ちをささくれ立たせたくはなかったのだ。
「……平気。昔から、よくあるの」
「……そうか」
結局、暴走から話を逸らせていない。相槌を打つことしかできなかった。
千陽は手のひらを見るかのように、目を伏せる。沈黙が重たい。この時間までずっと千陽のことを見続けていたというのに、今になって気まずくなる。こっちまで目線が下がって、床を見下ろした。
千陽の目覚めを待っている時間は、あっという間だった。気まずさなんて考えるまでもない。早く目覚めて欲しいと願って急いてはいたけれど、ただ眺めいているのを暇だとも思いもしなかった。だというのに、たったの数十秒がとても長くて息苦しい。
そこに終止符を打ったのは、千陽の鈴のような声だった。
「貴志君」
「うん?」
平気な振りで顔を上げると、千陽が頬を緩める。先ほどまでの哀愁は、すっかりなりを潜めていた。
合計したって二・三分にしかなりやしない。その間に切り替えられるほど、簡単な話ではないだろう。いくら才能に差があると思っている相手だろうと、悩まないと思うほど薄情には考えない。
それも、日頃から対面して魔術の訓練をしている相手だ。無理させている。それくらいは分かるし、そうさせていることが不甲斐ない。
「助けてくれてありがとうね。貴志君は、怪我をしてない?」
「俺は大丈夫だよ。それより、千陽は? もう、魔力は戻ったか? 顔色はよくなったけど、気分は悪くないか? 先生が見てくれたけど、他に痛いところは? 不具合は? 体温は戻ったか? それから……」
気まずさを払拭したい気持ちもあった。だが、一度開口すると、次々に質問が溢れる。腕に抱えてきたときの心許なさが、今になって爆発した。
勢いのまま垂れ流していると、笑いが忍び込んできて、語尾を手放してしまう。また落ちていた視線を持ち上げると、千陽が口元に手を当ててクスクス笑っていた。お淑やかな仕草が似合っていて、白い手の甲に残ったケロイドが目立っている。
「そんなに心配しなくたって大丈夫。貴志君だって、煤だらけだよ」
そう言って、千陽の指先がこちらに伸びてくる。制服の厚い生地に触れてくるそれに導かれて、自身の格好を見下ろした。そこで、ようやく煤けた自分の姿に気がつく。ずっとこの格好でいたのかと思うと、自分の必死さを目にしたようで落ち着かない。
そりゃ、瀬尾にも先生にも再三言われるわけである。自分だって自覚しているつもりだったのに。現実はそれを軽く凌駕していた。
千陽の手のひらが、煤を払って制服の上を這っていく。いやらしさはない。いわんや、特別性すらないだろう。それでも、じわじわと身体の熱が上がっていた。
速まる心臓の鼓動が、千陽に聞こえませんように。そう強く願っているのに、その原因を払いのけることはできない。
「喉も痛めてるんじゃない? 声、掠れてる」
「そうか?」
「少しだけね。多分、他の人は気がつかない」
触れられながら、自分だけが気付くと呟かれる。まるで勘違いしそうなシチュエーションだ。そんなふうに思ってしまうのは、周りの影響だろう。そんなものに振り回されて、千陽への態度を変えようとしている自分が浅ましくて嫌になった。
「炎の中に突っ込んでくれたでしょ?」
「……強化すれば、無傷でいられるからな」
「そんな無茶しちゃダメだよ」
「それは千陽も同じだろ。無茶な魔術の訓練は金輪際やめてくれ」
みっともないほど、懇願するような声が出る。たまらなくなって、今度ばかりははっきりと視線を逸らした。
千陽だって、訓練している相手。友人と呼ぶだけの相手に、ここまで縋られても困るだけだろう。何をやってるんだろう、俺は。口走ったことの重さに、自虐的になる。千陽は何を言うだろう。ただの会話の間が、すこぶる恐ろしい。
ぎゅっと瞳を瞑って、死刑宣告を待っていた。そこに落とされた音に、ぱんと世界が弾ける。
「ありがとう、貴志君」
ふわりとはにかむ顔が網膜を焼いた。ただ目を開いただけだの話だ。世界に変化なんて起こっちゃいない。ただ、眼前の千陽がこれ以上ないほど、輝いている。
服に触れていた千陽の指先が、腕を伝って俺の手のひらを掴まえた。心臓が痛い。
「炎の中で見る貴志君は、騎士みたいだったよ。そこまでして助けてくれたのは、貴志君が初めて。嬉しいよ。おかげて私は無事だよ。ありがとう」
ほろほろと崩れるような柔い声が鼓膜を撫でていく。脳に直接注ぎ込まれるようなくすぐったさには、身を捩りたくなるほど心が動いていた。
これだけでも十分だったと言うのに、千陽は俺の手のひらを両手で包み込んでくる。それから確かめるように頬擦りをされて、思考が完全に停止した。
きめ細やかな肌の触れ心地。絡み合う指先のしなやかさ。少しだけ煤けたようなシャンプーの華やぐ香り。捕らえられた自分の腕。慈しむような紫色の瞳。
ひとつひとつの情報が結びついて脳内にぶちこまれる。容量はとっくに越していて、溢れ出た感情に息を呑んだ。もういっぱいいっぱい。今すぐにでも手を振り払ってしまいたいような暴力的な気持ちに苛まれていた。
そこにもたらされた最後の一欠片。それは思考回路から燃やし尽くして、脳内を焦土にする。何もなくなった中に、情緒だけがぽつんと残った。
頬擦りされていた手のひらが改めて手に取られ、その甲に唇が落とされる。その瞬間のことだ。そして、同じくその瞬間に、千陽の顔が湯気が出そうなほどの深紅に染まった。
「う、えあ、ち……は」
「か、感謝しています……!」
魔術師の間の古い風習に、そうして敬意を示すものがあることは知っている。千陽もそれを思い出したのだろう、と考えることは辛うじてできた。だが、その真っ赤な顔色と、震えた声の追撃に、他のことなど考えられない。
焦土に根ざした情緒ほど、根深いものはないだろう。
「それだけだから!」
わっと叫んだ千陽は耐えきれないとばかりに俺の手を放り出し、布団に潜り込んだ。
真っ白なダンゴムシを真っ赤であるかのように幻視する。俺も相当頭が茹だっていた。取り乱しながら立ち上がる。騒音のようにガタガタ鳴り響く椅子が、現状をとみに表していた。
「じ、じゃあ、俺も、もう行く。ゆっくり、休んで。お邪魔しました」
退出の言葉の是非など問うていられない。ブリキの玩具のようになってしまった関節をやたらめったらに動かして、医務室を後にした。
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