第二話
手を洗えない、というほど重症ではない。だが、自室に戻って一百野にからかわれても無反応になってしまうほどには心あらずだった。
「おい。本当に、大丈夫か? 塔山」
手応えがないものだから、からかい甲斐をなくしたのだろう。頭の片隅で、スルースキルの有効性を体感していた。
「大丈夫だって。俺は怪我もしてないし、何ともない」
「そこじゃねぇっつの」
乱雑に髪を掻き上げる一百野に首を傾げる。いつもはゆったりとした、気怠いような動きで色気をまとわりつかせるような態度を取る一百野にしては珍しい手荒さだった。
「火ノ浦と何かあった?」
「……何も」
「お前、嘘つくの向いてないからな」
ふよっと視線が逃げる。これもまた嘘の重ねがけで、何ひとつ誤魔化せないだろうことは、すぐに分かった。
「まぁ、別に? 俺相手ならそんなんでもいいだろうし、心配より面白いって感じだけど、一応親切心で言っておいてやる」
やっぱ面白がってたんじゃないか。
思いこそしたが、やたらと慎重な前置きをされたら、そっちのほうが気になる。目線で先を促すと、一百野は面白おかしいとばかりの顔になった。
「そんな態度、火ノ浦に見せたら挙動不審もいいとこだぞ」
ずばり指摘されて、喉の奥が鳴る。不審な自覚はあった。でも、今は仕方がないだろうと開き直っていた。
だが、これほどの動揺が、すんなりと収まるとは思えない。ましてや、一百野相手にもこれなのだ。千陽を前にして、とても上手くいくわけがない。自分の楽観主義を思い知らされる。と言うよりも、先のことがまるで考えられていなかった。
「で、大丈夫か? 塔山君?」
「ダメかもしんねぇ」
「はははっ」
馬鹿正直に答えると、一百野が大声で笑う。普通にムカついた。だが、変に気遣われるよりはマシだ。素を曝け出してもいいか、と思えるくらいには気が楽だった。
「どうしよう」
頭を抱えると、そのてっぺんをぐしゃぐしゃと犬のように撫で掻き回される。
「ウブだなぁ、塔山」
「一百野に比べたら大概の生徒はそうだろ」
お前は爛れている。普段は言わないことを思いながら、何が面白いのか髪を掻き混ぜている一百野を睨み上げた。随分と楽しそうである。自覚にもだついている同室者はそれほどまでに珍妙か。
「俺のはまた別物だろうが。塔山がこんな純情だとは知らなかったな」
「別にそんなんじゃねぇよ。ただ、ちょっとまぁ、慌ててるとか、そういう」
「惚けてる、の間違いだろ」
ふんと鼻を鳴らされて、視線を逸らす。今の一百野相手に強気な態度を取るのは難しそうだった。
「そんなに?」
やばいだろうか、と思い巡らす。そう巡らす意識の中には、今日の千陽の姿が鮮明に混ざり込んでいた。
そこには甘酸っぱい気持ちになるものがあるが、同時に苦悶していたり、失調していたり、そういうものもある。後者の記憶は、自覚の感情が凪いでいくほどには物悲しいものだった。決して感情がなくなるわけではなかったが、波が引くように熱が下がっていく。
「……どうした?」
自分の浮かれっぷりを尋ねたかと思ったら、消沈した。さっきとは別の意味で不審極まりない。俺の動きを追っていたらしい一百野が、怪訝な顔になった。
「いや、暴走って大丈夫じゃないよな、と思って」
「惚けていたかと思えば心配してお前は忙しいな」
「どっちも一緒だろ」
「うっわ、惚気か」
するっとからかう一百野を睨む。
惚気けるようなことはない。千陽の暴走を目の当たりにしていれば、これほど浅薄な態度は取れないはずだ。そんな苛立ちを感じ取ったのか。一百野はいくらか姿勢を正して、俺の髪を弄るのをやめた。そして、俺の心配を精査もしてくれたようだ。
飄々としていて腰が軽いところばかりが目立つが、情が薄いわけではない。俺の実力を叩きつけて自信を持たせようとしてくれるほどには、善人なところがある。少なくとも、友情という概念の持ち合わせはあった。それを寄せてくれたらしい。
「暴走はまずいよな、確かに」
「原因はなんだと思う?」
「大体、何をしてたんだ?」
「詳細は分からないな……訓練のひとつで、特殊な魔術を行使しようとしていたわけじゃないと思う」
「だったら、魔力量の問題じゃないか?」
「魔力量……」
復唱してしまったのは、思い当たる節があったからだ。誓っていうが、千陽の魔力量を聞いたこともなければ、探ったこともない。そんな不躾な真似はしなかった。しかし、一緒に訓練していれば分かることは多い。
まず、千陽の魔術の威力でも量の多さは分かる。そのうえ、千陽はあんまり休憩を入れない。それでも、倒れることもなければ疲れを見せることもなかった。魔力量は平均以上だろう。
「怪我してたんだよな? 火ノ浦」
「うん」
「じゃ、やっぱり魔力量が多過ぎるのかもな」
「どういう繋がり?」
「まず、暴走が魔術の威力が反射して起こるもんだってのは分かってるだろ? 制御を離れる、ってやつな」
「ああ。そのままの威力が返ってくるんだから、怪我するのもおかしくはないだろ?」
「返ってくるのはいくら発動したものと言っても自分の魔力だ。多少の耐性はあるし、自分に向かってくる魔術は無意識にでも防ごうとするだろ」
「それはそうかもしれないけど……だから?」
一百野の魔術講義は分かりやすかった。内容に疑問はなかったが、真意は掴めない。それと千陽の怪我の具合がどう結びつくというのか。
「はっきりと跡が残るような怪我するには発動の魔力量が多くないと、耐性や防御で威力が削がれる。それに、火ノ浦は適性魔術を使ってたんだろ? だったら、余計にだ」
「そうか……そうだよな。でも、今までは制御できてた」
「新しいことをしたか。もしくは……」
「もしくは?」
言い淀んだ語尾を繰り返して促す。一百野は口を歪めて、眉を顰めた。いつにない渋面に、こちらまで棒を飲んだように胸がつまる。
「……本当はずっと、制御と付き合ってきたのかもしれない」
頭を叩かれたような気持ちになる。
俺は今回のこれが、イレギュラー。事故だと疑っていなかった。だから、一時のこととして対応していたように思う。いや、過去から続くものだと知っていても、同じような対応しかできなかっただろうが。だが、重みは違う。
大丈夫だと、助かったと言っていた言葉が蘇った。
……そうだ。飛び込んできてくれた人は初めてだ、と。千陽はそう言ったはずだ。その後の行動に心が奪われてしまっていたが、それは流していいものではない。一百野の予想を裏付けるような発言だった。
「魔力量が多いと、子どもは制御できなくて、傷を作ってばかりになる」
見てきたことかのように言う。そう考えて、ひとつの事実に立ち止まった。
一百野家。その家系は、由緒正しい魔術師の家系だ。魔術師同士の子どもたちの魔術量は多くなるとされている。その直系の嫡男。
「……そうだったのか?」
「俺の場合、成長とともに魔力量と器と技術が釣り合ったから、今はまったく問題ないけどな」
「心配を返せよ」
「素直でいいな、塔山は」
「嘘に向かないって言ったのは一百野だろうが」
「火ノ浦にも素直に伝えれば、不審ってよりは嬉しいって感じになるんじゃないか?」
「喜ばせるより、安心させてやりたいんだけどな」
「制御用の魔術具を使うか、魔力を消費するような莫大な魔術を使えるようになって、釣り合いを取るか」
「そんな魔術の練習は危険じゃないのか?」
「その可能性はある。どっちにしろ、現状が分からないとどうしようもない。時間を見つけて火ノ浦本人と話してみたらいいんじゃないか?」
「俺が?」
「安心させてやりたいんだろ? 好きな女を助けてやれよ」
ここまで揶揄に隠れて明言されることはなかった。それをはっきりと告げられて、冷や汗が滲んだ。そう言われると、恋心にのぼせ上がっているから心配しているような不誠実さを感じて落ち込みそうになる。
「何も悪いことなんかねぇぞ。心配してんのだって、手を貸してやりたいのだって、間違いなく本心だろ」
こちらの心などお見通しとばかり言われて、苦笑いが零れた。
「アドバイスどうも。経験豊富な一百野先生」
「もっと大切なアドバイスが必要になったら、いつでも教えを乞いに来なさいよ、塔山君」
うっそりと笑う顔が指し示すアドバイスなど、ろくなもんじゃない。ふっと笑って肩を竦めると、一百野も同じように笑った。
いつも通りを取り戻せたような気がして、ほんの少し気が抜ける。一百野が安寧の材料になってしまっているところに思うところはあったが、どっしりと構えてくれている同室者はありがたかった。
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