第三話

 瀬尾はただの欠席ではなく、千陽の付き添いだと報告してくれていたらしい。

 担当教師から、補講に当たる資料をもらえることになった。面倒なような気もするが、講義内容を補えることは悪いことじゃない。感謝しながら、資料を受け取るために職員室に足を向けた。ノックして入ったところで、すぐに担当教師と出くわす。


「おお、来たか。これだ」


 世間話も枕もなく、資料を渡された。薄いプリントは、わざわざ用意してくれたのだろう。いっそ雑なくらいのやり取りに比べて、手厚い補講だった。


「ありがとうございます」

「いや、瀬尾から事情は聞いてたしな。火ノ浦からも念を押された」

「ちは……火ノ浦さんが?」


 改まったのに気がついたのだろう教師が眼鏡越しの瞳をわずかに細める。頼むから、それは生徒同士の交流を穏やかに見守る教師のものであってほしいところだ。


「あぁ、元から補講のようなものを考えてはいたが真剣に訴えられてな。とても感謝してるようだった。いいことをしたな」

「どうも」

「暴走した後はしばらく不安定になるからな。この後も、気にかけてやるといい」


 俺は千陽の何だと思われているのだろうか。だが、気にかけておきたいのは確かだ。お行儀良く頷いて、退出しようとした。そこで、自分以外の生徒が職員室にいたことに気がつく。それも扉の前でバッティングする最悪の形で。

 輪をかけて最悪なのは、それが我が妹であるところだろう。それとなく譲り合って、職員室からは退室はできた。しかし、進む方向まで一緒だったらしい。それもそうだ。放課後に職員室から出れば、向かう先はおおよそ寮になる。

 気詰まりを噛み砕きながら、俺は夕貴の後ろをとぼとぼと歩いた。黄金色のポニーテールを追ってしまうのは、時計の秒針を見るのとか、そういうのと大きく変わらない。

 何も夕貴のものだから気になっているわけではなかった。子どものころからずっとポニーテールの妹など、飽きるほど見慣れている。

 それがぶんと揺れ動いて驚いていると、夕貴がこちらをちらと振り向いていた。完全に振り返らない横顔に、距離感が如実に出ている。夕貴がこういう態度を取るのも思春期に入ってから変わらないので、慣れ親しんだものだった。


「補講なんか受けてるワケ?」

「……ああ、ちょっとな」

「あんた、別にできないわけじゃないんだからら、ちゃんとやりなよ」


 一応、俺の強化を認めていないわけではないらしい。それは昔から変わらなかったが、如何せん言いざまが神経を逆撫でする。何より、補講を受けるのが俺の抜かりであると決定づけているところも。

 まぁ、何の変哲もないところから裏事情を察しろというのは無理があるだろうが。


「あと、なんか噂になってるけど?」


 ぎくんと身が強ばったのは、その関係の噂は否定できるが、自分の感情面では否定できなくなってしまったからだ。夕貴だって知っていることも分かっていたが聞かれると返答に困る。

 それ、知りたいか? 双子の兄の恋愛事情を?? と胡乱な気持ちになった。


「聞いてる?」

「ああ……」

「火ノ浦さん、大丈夫なの?」

「え、あ?」


 千陽が俎上に上がるのは分かる。だが、大丈夫、とはなんなのか。俺と千陽の交際の噂に、そんな具合を尋ねる疑問が投げかけられる意味が分からない。

 何? 俺と噂になるなんて、気持ち悪く思ってないのか? とかそういうこと? どんだけ俺のことを馬鹿にしてんだ。

 年頃の双子兄妹なんてこんなもんだろうが、それにしたって、当人に大丈夫? なんてえぐい質問するものだろうか。そこまで失礼な妹でもなかったように思うが。


「だから、聞いてんの? 講義中に倒れたんでしょ? あんたがお姫様抱っこで医務室まで運んだって」

「……ああ、大丈夫。大事なかったし、回復してる」

「ふーん」


 聞いておいて気のない相槌には、眉が寄る。噂の取り違えに気がついて気遣いを見直したところだったというのに、印象の悪さは変わらない。


「彼女なんでしょ? 精神面とかちゃんとみてやりなよね」


 言い捨てて、夕貴は素っ気ない足取りで去って行った。挨拶はねぇんか、というのは、動揺隠しの動きだったかもしれない。

 彼女、と思わず胸の中で繰り返してしまう。そこまで確定的な噂だったか? という疑問は、パニックに上塗りされた。

 まさか夕貴が信じているとは思わなかったのだ。せいぜい、あくまでも噂されるほど鼻の下伸ばしちゃって、と侮蔑されている程度だろうと。それが、さも当然のように信用されていることに、混乱していいやら悶えていいやらだ。

 夕貴から見てもそう見えるなら、それなりに見栄えがしているということだろうか、などと浮かれた思考が揺れ動く。一方で、お姫様抱っこが広まっているのならば、確定的に見られてもおかしくはないかもしれないと冷静に考えている自分もいた。情緒がぐっちゃぐちゃだ。

 その中で、精神面をみてやれ、と言われたことが心に残った。

 それは噂で嘘だらけの言葉の中にあるたったひとつの真実だ。俺が見る必要があるのか、というシビアな視点はあるが、千陽を気にかけたいのは事実だった。教師に言われるまでも、夕貴に言われるまでもない。

 千陽はどうしているだろうか。ずっと離れていかないことが、また存在感を強くする。誰に何を言われなかったとしても忘れられるわけもなかったが、続々と言われてしまうと輪郭は濃くなるものだ。

 昨日は、逃げ出すかのように離席してそのままだった。千陽は今日、大事をとって休んでいると言う。男女寮は建物も別だし、異性は禁制だ。様子を見に行くなんてこともできないし、状況を聞いて回れる人もいない。

 と、思っていたのだが、それが覆されたのは、それぞれの寮から渡り廊下で繋がれた食堂でだ。

 補講のプリントを自室に置いて、夕飯のために食堂に出向いた。食堂は手段のひとつだ。外食するのも、惣菜や弁当を買って部屋で食べるのも、自炊するのも、抜くのも自由だった。

 自炊の場合は、調理室を使えると聞いている。俺は食堂を利用することが多くて、他はあっても弁当の購入だ。自炊などしたこともない。

 そうして日参している食堂に、普段は見かけない姿があった。初めて見るのと、ずっと考えていたのと。その二つから、思わず足を止めてしまった俺を、見かけぬとも見慣れてきた千陽の紫色の瞳が捉える。

 その瞬間、視界が眩く輝いて見えて、目眩がしそうになった。一百野が不審だと言い募っていたのも当然だったと遠い目をしてしまう。

 俺を視認した千陽は、席を立ってこちらへやってきた。食事は食べ終わっていたようで、空のおぼんを片手に退室する算段をつけているようだ。


「……こんばんは」

「ああ……もう、大丈夫か?」


 ほんの少しの間があったのは、昨日のことがあるからだろうか。こちらと同じように、千陽も拭えきれない感情を飼い慣らすのに苦労していたりするのだろうか。自意識過剰な考えに、苦々しさが迸った。


「うん。もうすっかりよくなったよ。傷跡は残ってるけど」


 苦笑して一瞥した左手のひらには、絆創膏が貼られている。大袈裟というほどではないが、どうしても昨日の惨劇が蘇って、胸が苦しくなった。


「そんな顔しないでよ。貴志君のおかげで、これくらいで済んだんだから」

「だったら、よかった」

「……昨日、感謝したでしょ?」


 千陽が小さく顎を下げて、上目に見上げてくる。それは気恥ずかしさを誤魔化しているのだろうが、あまりにもキュートで始末に悪い。


「そ、うだな」


 とてもじゃないが、平然と返事をすることはできなかった。だが、平然としていないのは千陽も同じであるから、それを指摘されるような空気でなかったことは幸いだっただろう。

 それどころか、ぎこちなさに耐えきれなかったのは、千陽のほうが先だった。


「じゃ、私、もう行くね」

「気をつけて。また実技で」

「うん、またね」


 ひらりと手を振って去って行く千陽を、手を振って見送る。こんな仕草を返す自分というのを上手く想像できない。意外な気持ちで自分の行動を俯瞰していた。そうしてどこか他人事になって、自分が注目の的になっていることに気がつく。

 ……それはそうだ。

 渦中の二人と呼んでもいいだろう。自分で言うもんじゃないが。だが、夕貴が彼女と誤解するほどには噂が広がっているのだ。そんな二人が会話をしている。他人のこととして考えると、自分でも気になって仕方がない。見ずにはいられないだろう。

 だが、当事者となると、納得していられなかった。すわり心地は悪くてならないし、落ち着いて生活できない。

 今までは、あくまでも実体の伴わないゴシップどころかデマでしかなかった。

 しかし、今となっては、こちらの心持ちが違っている。周囲がそれを知っているわけではないが、自分は切々と分かっているのだ。今までのように知らん顔でいることは難しい。

 俺はせっかくやってきたというのに、食事することもなくすごすごと引き下がってしまった。まさかそれが、わざわざ千陽に会いに来たのでは? と噂を補強していたと知ったのはかなり後になってのことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る