第四話
売店で弁当を買って、自室へと戻る。
夕方から夜の早いうちに、一百野が部屋にいることは少ない。まったくないとは言わないが、いつもデートに出かけているようだった。他の候補が思いつかないのは日頃の行いだ。朝帰りもある男にそれ以外を想像しろというほうが無理だった。
一百野家嫡男は、最初こそ愚者とされていたように思う。今だって、根強く冷たい目を向けられていることもあるくらいだ。魔術師としての能力を疑われているし、女癖の悪さも忌避されている。
しかし、一時の注目に比べれば風化していた。飽きられるを意のままにしている一百野は、好都合とばかりに行動を改めるつもりはないらしい。
試験とは違い、講義には出席しているようだった。だが、クラスが違っている今、一百野が真面目に取り組んでいるかどうかは分からない。思えば、実技では夕貴と同じのはずだ。粉をかけてなければいいが、と浮かんだことは、我が事ながら驚いた。
いくら妹と言っても、双子だ。庇護欲だとか、兄としての過保護さだとか、そうしたものを抱いたことはない。
まだ、小さいころ。今よりは兄妹らしいやり取りのあったころならば、多少は思うこともあった。だが、今となっては、というものだ。交流もないのに、慮る感情が残っていたとは意外性しかない。
しかし、あいつが一百野を相手にするところは想像できなかった。優秀な妹は、清く真面目だ。不真面目込みでFクラスに落ちている一百野を許容しないだろう。ましてや、遊び人を受け入れるとは思えなかった。
ちょっとばかしの心配から、数秒も経たぬうちに、ないなと結論が出る。そして、その思考はあっさりと手放せたが、夕貴のことからシームレスに移動した千陽とのことは消えていかない。
出回っているのがどういう噂なのか。
今までその内容を詰めたこともなかったというのに、今となってはそれが気になって仕方がなかった。確かめて回るわけにもいかないし、当人に教えてくれるものもいないだろう。
いや、千陽を狙っているアグレッシブな男でもいれば、内容を確かめようと俺に突撃してくるようなやつもいるのかもしれないが。そんな物騒な相手に教えて欲しくはない。
あとは……と検索しようとして、その答えが身近にあることに気がつく。
どこからともなく噂を聞きつけて俺をからかったり励ましたりしてくる同室者。聞いてみれば、嬉々として教えてくれるだろう。
人付き合いの広い。それも女子との関係が広い一百野は、結果的に噂に耳聡くなっている。知り合いが激狭の俺と比べるべくもない。
問題は生活時間が被らないということだ。同室者に対して、それも、学園の寮で生活している人間に対して使う言葉ではない。学生寮なのだから、本来なら生活スタイルは一緒のはずなのだ。
日頃はそれで困ったことはない。一人の時間を謳歌できているし、慣れ過ぎて辟易するようなこともなかった。いつも新鮮な気持ちで話せるというほど、ふわふわした関係ではない。そうではないが、それでも変に慣れて嫌になることがないのは、良い効果だろうとは思う。
これから三年間。一緒に生活していかねばならないのだ。リズムは違っても、距離感を違わない相手であったことは救いだった。
こちら側がアドバイスを受けていることが多過ぎて、一百野がどう感じているのかに自信は持てないけれど。
いや、別にどう思われていようとそこまで気にならない。一百野とは適度な間合いが構築されている。まだ、一ヶ月半しか経っていないというのだから、これは天晴れではないだろうか。
そんなことをつらつらと吟味しながら、弁当を片付けていく。やけに一百野の話題に主軸を置いていることには、自分でも気がついていた。でも、そうでもしていなければ、どうしたって千陽へと戻っていってしまう。
そもそも、一百野とのことに到達したのも、元は噂のことで、千陽のことだ。肉体的な接触があったからと言ってこんな状態になっている自分のチョロさが嫌になる。
でも、そこじゃなかった。もちろん、それにドキドキハラハラして心臓がブチ壊れそうになったのは本当だ。ぎくしゃくしている大部分はそこにある。
だが、俺の自覚が伴ったのは、千陽が炎に包まれているのを見たときだった。
決して、嗜虐的な欲望があるわけではない。そうではない。そうではなくて、俺が覚えたのは失われる恐怖だ。あの中で、千陽が損なわれることに炎とは無関係に目の前が赤くなった。
暴走なんて自己責任だというものもいる。その要素もあるだろう。特に今回は、何らかの緊急事態でも何でもなかった。暴走は、正しく千陽の過失だ。
それでも、救いたかったし、そのためには無茶も無謀も思考にすら上らなかった。思考にすらないのだから、身体が躊躇うわけもない。飛び込んだときに俺が考えていたのも、目に留めていたのも、千陽のことだけだった。それだけ守りたかったし、大切だと思ったのだ。
だから、自覚はその瞬間だった。とはいえ、それに気がついたのは、千陽に触れられたときだったが。何にせよ、昨日のすべてに心を暴かれていた。
楽しい思い出とは言えない。胸を温めることだけでも、高揚感だけでもない。それでも、強烈な印象を残して離れていかないことに変わりはなかった。まさに、寝ても覚めても。
たった数分の邂逅で、挙動不審になるありさま。気持ちをなくしたいなんて露とも思わないけれど、さすがに現状は問題だ。
いつになれば落ち着けるのか。でも、落ち着いたところで、また何かで上書きされて気持ちの層が厚くなるだけのような気もしている。既に昨日の接触に、今日の上目遣いが積み重なっているのだ。明日も明後日も、好意が目減りする気がしない。
溺れるだけじゃねぇか。自分のベタ惚れっぷりを再認識しては、どうにもならなくなって頭を抱えた。
「ぐぉおお」
唸り声が漏れるのを止められない。髪を掻き乱して声を上げるとは、絵に描いたような煩悶だろう。冷静になったら負けだっただろうが、生憎一人で考えに沈んでいる時分にそんな冷静さが戻ってくることもない。悪化することもなかったが、好転することもない懊悩が続く。
「何やってんの、お前」
そこに投げ入れられた声に、俺は椅子から飛び上がってしまった。転がり落ちることはなかったが、ぎしぎしと椅子が鳴く。
「お、お前、なんでいんの?」
「自分の部屋だからだろ」
「いつもいねぇじゃん」
「今、帰ってきたとこ」
「そりゃ、おかえり」
「どーも、ただいま。火ノ浦がどうかしたのか?」
「はっ!? 口に出てたか!?」
思わず、ぱしっと口元を覆った。独り言が漏れていたとなると、それは気持ちが悪い。というか、何をどこまで聞かれたのか。浮かれポンチになっているのがすべてだだ漏れているとなると、ぞっとした。
「わっかりやすいなぁ、お前」
へらっと笑われたことで、たばかれていたことに気がつく。単に当てずっぽうを言っただけだ。口をへの字に曲げると、一百野はけらけらと笑った。
「初恋か? 可愛いんじゃねぇの」
「からかうんじゃねぇよ」
「俺と本気で恋の相談会とかしたいか?」
半眼になる。女性経験は豊富だろうが、これが恋多き男と呼ぶかと言えば、それは微妙だ。そのことがないにしろ、一百野と深刻に恋バナするなんて遠慮したい。だからって、笑い転げていいってわけじゃないが。
「それにしたって、唸り声上げてどうした? 何かあったか?」
「夕貴に彼女だと思われてた」
「夕貴ちゃん?」
「面識あんの?」
ないと結論つけていたはずのことに可能性が浮かび上がって、眉を寄せた。いかにも妹を心配する兄の過剰反応のようできまりが悪い。視線を逃がしてしまった俺に、一百野は肩肘張らずに頷いた。
「そりゃ、実技一緒だからな。それに、主席の夕貴ちゃんを知らない子はいないだろ? お前の噂がやたらと広がるの早いのも、夕貴ちゃんの兄ちゃんだからってのもあると思うぞ」
「それはなぁ……一百野、昨日のことどうなってるか知ってる?」
「夕貴ちゃんに言われて気になってきたか?」
薄笑いを浮かべた一百野に、顎を出すように頷く。全力でかぶりつくには、若干の強がりがあった。
「おおむね今まで通りだけど、お姫様抱っこは効いたみたいだな。もう確定事項として扱われてるとこある」
夕貴だけが勘違いしているだけではないようだ。それは嬉しいようで、困ったようで、どんな顔をしたらいいのか分からない。
「やっぱり、お前が炎の中にまで突撃した衝撃ってのもあるんだろ。下手すりゃ二人揃って入院騒ぎになってたかもしれないんだし。その辺は気をつけろよ、マジで」
忠告には意外な心地で耳を傾ける。頷くと、一百野はちょっとばかり面倒そうに眉を顰めて「分かってんならいい」と呟いた。
「とにかく、いくらEでもFでも魔術の危険性は分かってるし、それを除外した行動を取ったうえに、お姫様抱っこで保健室まで一直線で、その後も目覚めるまでついてやってたわけだから、今までの噂も相俟ってってやつだろ? あと、お前の強化もすごいんじゃないかってことで、千陽もそれを認めてたんじゃないかって話になってる」
「なんで強化のことが?」
この噂に魔術のことが関係しているとは思っていなかった。
千陽の制御不足を取り上げられているのは分かっていたが、俺のほうは見当もつかない。強化が得意だなんてことを、俺は流布して回ってはいない。というか、俺以外でも得意な魔術の仔細を明かすようなやつはいないものだ。それが漏れているとはいうのは疑問しかない。
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