第三話
やらかしたなぁ、と後悔ともつかない反省がまとわりついている。
俺と千陽のことが、どうやらふわっと噂になりかけていた。あくまでふわっと、と思いたいし、そうあってくれればよかったのだが、俺にはなにぶん夕貴という鬼才の妹がいる。
俺が兄だなんて、あの妹は言いふらしたりはしないし、俺だって明かしたりしていない。だが、どうしたって苗字は一緒だし、知っている人も気がつく人もいる。人の口に戸は立てられない。どこからか兄だと伝わったようで、そうした面も相俟って噂になりつつあるようだった。
それを俺に知らせてきたのは同室者だ。
「塔山は噂に事欠かないなぁ」
面白がっている声音には、眉を顰めてしまう。とうの一百野は机の上に肘をついて、まったりと寛いでいた。
「火ノ浦と抱き合ってたって?」
「事故だよ」
「ラノベの主人公か?」
「だったら、もう少し楽しいことになってるんじゃないか」
「楽しいじゃねぇか」
「他人事だと思って」
「可愛い彼女と噂になってるんだから、悪いことはないだろ?」
「新学期早々目の敵にされたくはない」
「お前が火ノ浦と似合いになればいいだろ」
「そもそも、千陽とはそういうんじゃないって」
「名前呼びしといてそれを言うかね?」
薄く笑う顔は、実にさまになっている。いっそ、ムカついた。
「大体、仮にそうだったとしても、講義中に抱き合ったりするわけないじゃん。俺はお前じゃねぇのよ」
「俺が一体何をしてるって?」
片眉を上げる色男。まったくもって、嫌味になるほど絵になる。サボりだらけの問題児とされている一百野家の嫡男は、実力不足とともに女癖の悪さも噂になり始めていた。同室にいればそれがただの噂かどうかなんて、他の誰より分かる。
「朝帰り。あと、鎖骨にキスマークついてんぞ」
「え? あ、マジかよ……つけんなって言っておいたのに」
「他の子にバレるから?」
「そもそも身体だけだから」
鎖骨を確認する動きにも、無駄がない。本当に色男と呼ぶべき男だろう。不義理的な意味でも。まぁ、相手も了承済みなんだろうが。そうでもなければ、もっと問題になっているはずだ。
「でもさ、火ノ浦と釣り合うくらいになっとけば、噂になっても跳ね除けられるんじゃん?」
「釣り合うって……無理があるだろ」
「なんで?」
千陽と釣り合う。そのレベルの高さは、想像に易い。そして、そこに辿り着くにはハードルが高過ぎるというのも明白だった。
俺の中では確然としていると言うのに、一百野は無垢に首を傾げる。あんまりにもナチュラルに聞いてくるものだから、首を傾げ返してしまった。
千陽と釣り合うなんて、夢の話を現実的に話すのはやめてほしい。そもそも、自分がそれを望んだわけでもないのに。
いや、そりゃ可愛い女の子といい感じになれるのならば嬉しい。だが、噂になっているようなことや、一百野がけしかけてくるようなことになりたいのかと問われると、それはまたちょっと違う。
嫌だとは思わない。けれど、恋心がたったあれだけの接触で育まれるほど、俺は軽くはなれなかった。これは、七面倒と言うのかもしれない。一途と言ってもらえれば本望だが。
そうして思考が回っている間に、一百野が疑問から立ち上がってくる。
「別に難しくないだろ? お前は見た目だって悪くないし、魔術の腕だってないわけじゃないし」
「ないだろ」
すこんと返してしまった自分に怯んだ。卑屈になっている気はなかったはずなのに。こうした瞬間に、胸の底にわだかまっているものがぽろりと溢れ出る。苦くなって、奥歯を噛み締めた。一百野も同じような顔になる。
なんでお前がそんな顔をするんだよ。
「強化は才能がないとできないぞ。塔山、火ノ浦の炎を防いだってのは、お前が思っている以上の防御力だからな?」
気休めを言っているわけではないというのは分かる。一百野が魔術のことで下手な慰めをするとも思えない。防いだのだって事実だ。だが、事実であるがゆえに戸惑った。
「……塔山、来い」
「え?」
俺が黙り込んでいるうちに、苛立ったような一百野が立ち上がって俺の腕を取って歩き始める。急展開にちっともついていけず、もつれそうになる足をどうにか動かして追いすがった。
「おい。ちょっと、一百野? どうしたんだ。何だよ、急に」
一百野は答えずに、がんがんと先を進んでいく。腕を掴む力は強くて振り解けそうにない。すらっと塔のように伸びている一百野に似合わぬような万力だった。
そのまま勢いはむしろ上がるくらいのスピードで、訓練室に入っていく。寮内に確保されているそのスペースは、自主練をするための場所で、空いていればいつだって使える部屋だ。
一百野は迷わず入ると、俺を乱暴に投げ入れて手を離す。
「おい、一百野」
俺が男だから許されているようなものだ。いや、男であっても俺が喚けば、これは暴力として成立してしまうだろう。腹立たしく睨んだが、一百野も同じくらい険しい顔をしていて面食らった。
「そこに立って、自分にできる最上の強化を練ってろ。時間はやる」
そう言って、一百野は対面に立つ。何をするのか。意味は理解できずとも、やろうとしていることは分かった。
俺は立ち上がって、すぐに魔力を練り上げる。ここまでの説明不足を思えば、ここにきて十分な時間をくれるとは思わなかった。何がくるか分かっていて、説明はないにしろ猶予ももらっていて、怪我をするのは御免被る。
そうして五分は経っただろうか。
「いいか?」
聞いてくる声は張りつめていた。一百野がここまで真面目な様子を見せるのは初めてにも等しい。俺は腰を沈めて、床を踏みしめた。
「いいぞ」
短く答えると、一百野の周囲に魔力の流れが渦を作る。黄色いそれに、一百野の適性が雷だったのかと知る。
やってくるであろう雷に備えた強化は、放たれる瞬間を狙って最上へと引き上げた。無言の攻防は、閃光とともにどんと床が揺れる音で終結がつく。一瞬だ。
俺はどっと力が抜けて、その場に尻もちを着いた。強化によって攻撃は受けていないが、衝撃は消えない。どこか痺れているような感覚は、衝撃に揺さぶられたからだろう。
くっそ。容赦なく魔力を注ぎ込みやがって。
「その実力で才能がないなんて、馬鹿も休み休み言えよ、塔山」
一方的に言いつけて、一百野が眼前へやってくる。見下ろしてくる顔は仏頂面だった。
「お前こそ、馬鹿は休み休みにしてくれよ。どんだけ魔力込めたんだ」
「決め技に使うくらい」
「いってぇよ」
泣き言を零して、ばたんと後ろに倒れ込む。
「怪我したか?」
「してない」
「やっぱ、才能の塊じゃん」
「分かった分かった」
くすぐったくてたまらないけれど、認めるのは吝かではない。自分の実力を認めてくれるのだから歓待する。一百野はそれで勢いを失ったようだ。
寝転んだ俺の隣に腰を下ろしてくる。
「言っとくけどな、俺、一百野だぞ」
「は? 知ってるよ。なんだ、それ」
「家系だけは一級品だってことだよ。魔力の遺伝も並じゃない」
「サボらなきゃ実力があるって?」
「その実力を防御できてんだぞ、お前」
解説されて、自信のようなものが揺蕩った。
見上げると、一百野はニヒルな笑みを浮かべていた。嫌になるほど似合う仕草は、くすぐったさを増幅させる。訓練室で男二人。一体何をやっているんだ、という気持ちになった。
「まぁ、それで火ノ浦に釣り合うかは別の話だけどな」
「おい。一百野が言い出したんだろうが」
「ははっ、釣り合いたいのか?」
「ぐっ」
そういうわけじゃない。そういう意味では、そういうわけじゃない。でも、手合わせをした身としては、負けたくない気持ちもあった。
呻いた俺を一百野がけたけたと笑う。気持ちがいいくらいに斟酌もない。いっそ清々しい笑いに、脇腹を殴った。
「痛いっつの」
「そういうんじゃねぇからな」
「分かった分かった」
「分かってねぇじゃん」
「どっちにしろ、火ノ浦とこれからも付き合うんだったら、噂のことは知っておいたほうがいいだろうし、対抗できるくらい自信は持っとけってことだよ」
よろしく、と笑った顔も、勇気を出した、といじけたような顔も、真っ赤に染まった顔も、何もかもを鮮明に思い出せる。人付き合いはこれからもするだろう。ならば、これは多分あながち間違っていないアドバイスだ。
苦笑になったそれを無言の答えと受け取ったのだろう。にっと笑った一百野が立ち上がって、こちらに手を伸ばしてきた。その手を取って、立ち上がる。それこそ、らしくもないやりざまに、本当に何をやっているんだか、という気持ちになった。
自分発信だったくせに、一百野だって難解な顔つきになっている。その数十倍は納得いってないからな、こっちは。
睨んでやると、へらっと笑われた。
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