乾燥きのことあったかポテトスープ おかわりめいく ①

 遠くで再び花火が上がり、軽やかな音が微かに聞こえた。


 ぐぅぅぅ、と。情けない腹の音が呼応する。眦から温かな雫が冷ややかな床へと零れ落ちても、当然フィーネのお腹は満たされない。

 フィーネは壁に寄りかかると膝に顔を埋めた。


 情けない事に大木からカノンを庇おうとしたフィーネは泥に足を取られてしまった。

 滑って、転びそうになったところを踏み止まり、もう間に合わないと悟った時。目の前で緑の光が散った。驚く間もなく視界がみるみる黒く染まり、歪んでいき……。


 フィーネが覚えているのはそこまでだ。


 気付いた時には見知らぬ小屋のベッドの上にいた。目を擦るフィーネの横で、傭兵のような筋骨隆々の男が槍を握り直す。驚き、自らの体を見下ろしたフィーネは「ひっ」と小さな悲鳴をあげ、何故か筋骨隆々の男の方が「キャーッっ」と大きな悲鳴をあげた。


 そのまま置かれた立場を理解する間もなく、村外れの廃城の一部屋に軟禁され、今に至る。


 胸の下から先、下腹部まで濃い紫の靄がかかり、歪んでいる。

 時折鳥の翼や大きな人の手、茨のツルのような形を模しては崩し、再び形の定まらぬもやへと戻っていた。

 へその左脇辺りには神継者の特色でもある鉱石が七色の光を放つ。

 ブローチ大のそれは、腹部になければ豪華な屋敷が二件程度は買えそうな程美しく、立派であった。


 フィーネは深いため息を吐く。


(カノンさんと赤ちゃんが助かって本当に良かった。今はもう、それだけでも良いかぁ……)


 これからどうなるのだろう。


 異形となったフィーネを恐れてか、村長からは神継者を調べる騎士か魔術師が来るまでは村外れの廃城に一人留まるよう言われた。


 食事は水と少量の保存食のみ。恐らく差し入れる者の手間と安全を考えての事だろう。

 逃亡出来ないよう城全体には『不出』の簡易魔法が施され、二つの城門にも見張りが一人ずつつくこととなった。


 魔法を使った厳重な監視もカノンとの事が未だ明らかにされていない事や、フィーネが怪力で有名な事を考えれば不思議でない。

 抵抗しようと思えば容易いと思われても仕方がなかった。


 ふとすると恐怖がフィーネの全てを支配しそうになる。

 村長が懸念するように、この先万が一誰かを襲ってしまったら……考えるだけで足が竦んだ。


(村長さん怯えてたなぁ。まあ……そうだよね。私だってびっくりした)


 村長は気まずい場をもたせようと長い白髭を撫でながらも、変化したフィーネを決して見るまいとの思いからか目を逸らし続けていた。

 幼い頃から面識があったからこそ、畏怖と哀れみの混じる応対はフィーネにとって辛いものだった。


 カノンも今のフィーネを見たら、村長や悲鳴をあげた傭兵風の男性、診てくれた医師のように恐れるのだろうか。


 可愛い後輩であるリゼは?

 信頼する兄であるシリウスは?


 ぐうぅぅと腹が鳴る。


(カイも、かなぁ……)


 視界が滲んだ。

 人々の歓声と共にドォンと大きな花火の音が聞こえ、続けて前夜祭を彩る始まりのワルツが流れてくる。


 親しい人々の反応を想像するのさえも怖くて堪らない。

 なのにもう、それを確かめる機会もままならないかもしれないのだ。


 不確定な事をあれこれ考え、不安に思う事は不毛だと思いつつ、長引く空腹は冷静な考えを妨げる。


 こんなにも泣き虫だったのかと、頭のどこかで自嘲する。

 顔を埋めるスカートは涙だか鼻水だかわからぬもので濡れていた。


 再びぐうぅぅと音がして。

 次いでガタリと硬い音が荒れ果てた部屋に響いた。

「えっ……?」


 顔を上げ、涙を手で拭う。鼻をすすって、フィーネは辺りを見回す。

 間もなく、フィーネは月の光が差し込む高窓に先程まで無かった影を見出した。


(なんだろう……)

 ふらりと立ち上がり、窓下へと忍び足で向かう。もしかしたらリスや梟がいるのかもしれないと、沈む気持ちを慰めてくれる小動物を期待して。


 ところが。

「あっ、わぁぁーーーっ!!」

「へっ、えっ?!」


 まんまるの月を背に、予想よりもだいぶ大きな影が舞う。

 影の端はフィーネの鼻の先をかすめ、壊れたたると布袋の重なる床へと物凄い音をたてて突っ込んだ。


「だ、大丈夫?!」

「ったた……大丈夫? フィーネちゃん?」


 二人の声がその場に重なる。漆黒と月白が交差する中で、フィーネは見知った少年がガバリと顔を上げるのを認めて瞳を見開いた。


「カイくん?!」

「怪我、ない? 何か飛んだり……」

「私は大丈夫。大丈夫だけど、カイくんは?!」

「大丈夫だよ。この位」


 服に付いた土を払いながらカイは微笑む。

 ふわふわのココアブラウンの髪は作りかけの鳥の巣のように乱れ、鼻の頭を筆頭に膝、腕などあちこち泥で汚れている。

 出来たばかりであろう頬の掻き傷には血が滲んでいた。


「でも、せめて洗った方が……」

 そこまで告げて、フィーネは伸ばしかけていた手を引き飛び退く。


『あの不気味な腹を見たか? 人を襲うかもしれん』

 意図せず盗み聞いてしまった、村長の言葉が脳裏に浮かぶ。


(ダメだ、カイを襲っちゃうかも……)


「フィーネ……?」

 驚くカイを置いて、フィーネはおぞましい己の腹部を刺激しないようにゆっくりと後ずさった。


「ごめん! カイ、本当に……危ないかも……」


 誰かを傷付けるのが怖いのか、誰かを傷付ける自分に傷付くのが怖いのか。


 ただただ、大切な彼を傷付ける事だけを避けたいはずなのに。

 醜い恐怖に蝕まれ、眦から熱い雫が溢れそうになる。


「大丈夫だよ」

 瞬間。ふわりと、ハーブと土の香りが鼻に届いた。


 柔らかく温かいそれがフィーネを包み、木綿のシャツが頬を伝う涙をすくう。回された腕に力が込められて。


 温かいとか、柔らかいとか、心地良いとか。素朴で純粋な感想が言葉になる前に、フィーネの眦から雫が零れる。


「ほら、何ともない。フィーネちゃんも僕も」


 柔らかな声は心地好い。

 髪を撫でる優しい手はほっとする。


 大丈夫だ、彼が言うならばたしかな根拠がなくとも本当だと思えた。


 空腹が僅かに和らいで、恐怖も不安も悲しい気持ちも淡雪のように自然と消えていく。

(大……丈夫……だ……)


 再び、ぐぅぅぅぅとお腹の虫が鳴る。反射的に靄のかかるお腹を抑えようとしてから、ようやくフィーネは現状に気付いた。


(わ、私っ……!)


「うわぁっ! カイ、ごめ……!」

「ううん! 僕こそ急に、つい! ごめんね」


 慌てたようにフィーネとカイは互いに身を引く。

 心臓が今までにないほど速く、激しく脈打っている。先程まで肌寒いと感じていたはずなのに、顔も体も熱く感じた。


 が、そんな初めての違和感も束の間。新たな不安がフィーネの体感温度をぐっと下げる。


(今、私、カイのことギュッてしてた?! あ、あ……ど、どうしよう……お兄ちゃんの時みたいに肋折ってない……?!)


 腹部の異常以前に。その怪力から幼い頃に犯した失態を思い出したのだ。


「カイっ、あば、胸っ! 肋骨! 胸痛くない?!」

「えっ? 大丈夫だよ? ……っ、大丈夫。折れてないよ」


 くすくすと笑う幼馴染みは当然、兄の骨折の事も承知済みだ。怪我防止の為に、シリウスから「人とは(物理的な)距離を置くこと。誰かと抱擁することは相手の為に止めろ」と口を酸っぱくさせ言われている事も勿論知っている。


(カイが大丈夫って言うなら大丈夫なんだろうけど……痛いの無理してないかなぁ)


 簡単に折れてしまいそうな薄い胸をじっと見ながら、フィーネは考え込む。

 その間もお腹は紫の靄を纏ったままぐぅぐぅと鳴き続け、美しくも不気味な鉱石は淡い光を放っていた。


「それより、ご飯にしようか」

「え? ご飯?」

「うん。空いてると思って、持ってきた」


 驚嘆や感謝の言葉を差し置き、お腹の虫がぐぅ!と応える。

 同時にお腹の靄が呼応するかの如く、そわそわと落ち着きなく揺らぎ出した。


「簡単なものしか用意出来なくて……」

 太眉を遠慮がちに下げると、カイは腰に下げていた鞄の中を探る。


 中からは魔鉱石で作られた水筒に金属製の蓋付きタッパー、拳大の紙包みが二つ。そして木製のスプーンと大きめマグカップ。


「まだ温かいとは思うんだけど」

 カイの予想通り、水筒の蓋を開けると湯気が立ちのぼった。

「これ……」


 中身はお茶でもワインでもなく、熱々のクリームスープ。

 まろやかな甘みとコクを思い出し、食べてもいないのに涎が出てきてしまう。


 同時に、僅かに残っていた懸念や戸惑いもフィーネの中から消え去ってしまった。


「こっちはサンドウィッチ。即席マリネもあるよ」

「マリネも……! このぷつぷつ、ケッパー入りの美味しいやつ!」

「うん。好きでしょう?」


 差し出されたスプーンをフィーネは受け取る。


「どうぞ。召し上がれ」

「ありがとう……カイ」


 フィーネもまた、スプーンをカイへと渡すと、二人の頬が同時に緩んだ。


「「いただきます」」


 月明かりの下、感謝の祈りを捧げて。マグカップに移したスープを口いっぱいに頬張った。

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