醤油差し

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醤油差し

 暗闇を赤いパトライトが複数くるくると現場を照らしていた。

 救急隊が重症者を救急車に運び込んでいく。現場に指示を出す警察官、せわしなく手当に当たる救急隊。救急隊、消防隊、警察がめまぐるしく動き回っていた。


赤く照らされた建物から少し離れたところでは、警察官がこれ以上先に人が入らないように指示を出している。泣き叫ぶ者、呆然とする者、不安そうに建物を見つめる者、人々がその建物を前にしてできることは何もなかった。


 警察官が立ち入りを禁止する区域の手前には早々に各社の報道陣が集まっていた。

 「本日2月10日20時過ぎに練馬区の回転寿司チェーンで原因不明の中毒症状が----」

 「関係者への取材によると何者かが店舗の炊飯器の中に毒性物質を混入させた疑いが---」

 「現在確認されている中でも重症者が90名---」

 「特に毒性物質への暴露の影響が大きい従業員を中心に被害が---」


「日向子が働いているはずなんです!!!!」

一人の青年が警察官の肩を掴んで叫んだ。

「落ち着いて下さい。情報が入り次第お知らせいたしますから。」

若い警察官は興奮した青年をなだめるように言った。


-----救急車が通ります----

また次の救急車がサイレンを鳴らしながら到着した。


「日向子が、、、」

警察官の肩を揺さぶっていた青年はその場に崩れ落ち静かに肩を震わせた。


どうしてこんなことに。今日は記念日だった。日向子のバイトが20時に終わるためそのあと迎えに行ってディナーを食べに行く予定だった。この日くらいバイトを休んでもいいのではないかと聞いたが、真面目な日向子のことだ。ただでさえ、新しい「春の寿司フェア」が人気で人手が足りないのにこれ以上シフトを減らしてもらうことはできないのだと説得されてしまった。

なんだかんだ言い訳をするが、結局のところ彼女はバイトが好きなのだ。「春の寿司フェア」の新商品であるパフェが美味しいのだとか、それでも作るのにコツがいるから腕の見せどころなのだとか、愚痴のように話しながらも彼女はどこか楽しそうだった。高くない時給のためにどうしてそこまで頑張れるのか、不思議になることもあったが、部活と両立しながら大量のシフトをこなす日向子のことを尊敬していたし、彼女が楽しいと思っているバイトを今更無理に休んでほしいとも思わなかった、こんなことになるのでなければ。

 病室で見る日向子は青白く冷たかった。意識が戻る可能性は低いと主治医から聞いた。日向子は真面目に働いていただけなのに。日向子が何をしたというのだ。日向子は大学の同級生で1年生の冬から俺たちは恋人同士になった。明るく健気で前向きな彼女を俺は愛していたし尊敬していた。他の同級生はもっと女遊びをしようと俺をそそのかしたが俺は日向子の明る笑顔さえ見られればいいと本気で思っていたし、いつか、いつかこの子と結婚するかもしれないとも思っていた。それなのに目の前の日向子が俺に笑顔をみせてくれることはもうない。

 -----------。

電子音が響き渡った。カーテン越しに隣の患者の心停止の音だと俺にもわかった。バタバタと騒がしくなり医師や看護師が隣に集まってきたことがわかる。

「残念ですが--」

男性医師の声に胸が詰まるような思いがした。次は日向子かもしれない、そんなことを考えてしまってぞっとした。隣から男性の嗚咽が響いていた。



--------------。

電子音が鳴り響く。わかっていたがその音はとても厳しく辛く僕の鼓膜を震わせた。言い訳の余地のない救いのない電子音だった。彼女の薬指には僕と同じ銀色のリングがいつも通り輝いていてこんなときでも綺麗だと思った。あおいの冷たい手を取ったまま涙が溢れる。

医師には今日がやまばだろうと言われていた。僕はそれでも彼女の綺麗に伸びたまつげの瞼が再びその瞳を僕に見せてくれるのではないかとどこかで期待していた。

あおいはとてもしっかりていて強い女性だった。彼女とは部署は違ったが、彼女の噂はよく耳にした。とても良く仕事ができる彼女は、様々なプロジェクトに起用された。コンサルタントの仕事はプロジェクトの人の出入りが激しいため、僕と彼女が同じプロジェクトに起用されたのも入社してそう時間は経たない頃だった。そうしているうちに交際が始まり、先月プロポーズした。僕の一目惚れに近かい恋だったから、こんな幸せなことがあっていいのかと思ったこともあった。こんなことになるなんて。

あおいは以前のプロジェクトで寿司チェーンを手掛けていた。大手ブランドメーカーや製薬会社をクライアントとすることはあっても、飲食店の経営コンサルをすることは僕の部署ではなかったから、彼女の仕事の話を聞くのは楽しかった。彼女はあっという間にクライアントに気に入られプロジェクトが終わった後も彼女は何度か様子を見に店を訪れていたのだった。そしてその日も。

彼女の薬指の指輪がきらりと光った。僕はその綺麗な指先から指輪をそっと引き抜いて握りしめた。

 今日とっている授業は午前で終わりだった。毎月10日は魂陳家の日でラーメンが500円になる。今日は友達と大学の近くの魂陳家で500円のとんこつラーメンをすすり終えて、今日はそのまま自分のアパートに帰る予定だった。


「あのすみません。」

背が高く姿勢がいい清潔感の塊のような男性が声をかけてきた。普通の客引きやカットモデルの勧誘とは違うことがひと目でわかった。髪の毛を綺麗にセットした彼の二重のはっきりした目は何かとても大切な何かをもっていそうだった。普段なら適当にあしらって立ち去るようなものだが、今回は違った。

「どうかしたのですか。」

彼の丁寧な素振りにつられて俺の口調も丁寧になった。

 「日向子さんのことをご存知ですよね」


どきりとした。自分の彼女の名前を見ず知らずの男性の口から聞くとは、、よくない想像が頭を駆け巡った。


「あなたは、、、」

「今日日向子さんは死にます」

*

とんでもない話だった。見ず知らずの男のこんなあり得ない話を聞くことに時間を割いている自分に驚いていた。「日向子が死ぬ」と言うこの男が、ゆっくり話をする必要があるというので彼の言うままに駅から少し歩いた純喫茶で向かい合って座った。常識ある人間ならここまでノコノコついてこないだろうなと自嘲的になる。

それでも今彼と向き合ってひとしきり話を聞いてしまったのは、日向子を知るこの男への好奇心だけではなく、彼の真剣な眼差しだった。こんなとんでもない話にも関わらず彼の言葉には偽りが無いように見えたのだった。

「ブレンドで」

席について彼が店員に言うので俺も同じものをお願いした。彼は突然声をかけた無礼を謝罪した。彼は宮本武蔵という名前で外資系のコンサルの企業に勤めていると話した。年齢は俺の6つ上というが、彼の身に付ける高級そうな腕時計からみてもかなり稼ぎが良さそうだった。

「信じてもらえないだろうが---」

大きく息を吸って彼が軽く座り直してかしこまって話だした。


「そんなこと言われても---」

俺はそれ以上何と言えばいいかわからなかった。彼の言うところによると、今日の夜8時に日向子の働く寿司チェーンで不明の有害物質がばらまかれて大量に人が死ぬというのだ。今夜8時はたしかに日向子のシフトが入っているはずだ。そこで日向子は中毒で死ぬ。


 いくら彼が真剣に話をしても、鵜呑みにできるほど俺は素直じゃなかった。

「僕の婚約者もその場にいて亡くなるはずなんです」

宮本の声が震えているのがわかった。

「第一なんでそんなことがわかるのですか」

宮本の話によると、宮本は婚約者のアオイを2月11日の14時に看取り、そのあとほどなくして隣の病床にいた日向子が亡くなったことを知った。しばらくして病室を出るときに宮本は俺と目が合った。それ以降記憶は途絶え、気付いたら今日2月10日の14時に、この駅に立っていたというのだった。

「この駅に降りることは初めてでした。そうしたら、同じ病室で日向子さんのそばにいたあなたを駅前でお見かけして」

彼は話し続け、俺は少しずつ話しがわかるようなわからないような感覚になってきた。

「今からなら大切な人を守れると思うんです」

宮本はまっすぐ俺の方を見ていた。

「どうすれば---」


*

その後俺たちは再び向かい合って座っていた。宮本が携帯の画面を確認しそっとテーブルに置く。卓上の抹茶粉末を二人分入れ卓上の給湯器でお湯を入れて俺に差し出した。鮪、鮭、たまご。次々と寿司が横を流れていった。


 「準備はいいか」

 宮本が携帯を構える。

 覚悟はきめた。この先どのような苦難が訪れようが構わない。

 ピ---

 録画を開始する音が聞こえた。

俺は卓上の醤油差しを口に突っ込んだ。

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