第2話 タオル

 4月、私は猛勉強していた。母は帰ってこない。ある時、父が言った。

 「お前の就職がダメになったからって出ていくのは許せない。もう帰ってくる気がないならそれでいいとさえ思ってる。」

 家族を壊してしまったと思った。確かに元々うまくいっている家族ではなかったが、トドメを刺した気がした。

 数日後、母から父に連絡があった。

 2度と自宅には帰らないこと、一人暮らしをして生計を立てるとのこと、新しく住んでいる住所を教える気はないということ。

 父は全て受け入れていた。そして私自身も身の回りで色々なことがあった。

 高校時代の先生から警察官に合格した理由などを生徒達に話してほしいというオファーがきた。まさか採用がなくなったとは言えず、断りの連絡をした。

 また、私の父は医師であったにも関わらず転勤が多かった。色々な学校に通った。最終的に落ち着いたこの地でお世話になった中学時代の担任、猪田先生がどういう訳か私の母からことの経緯を聞きつけ、私に会いたいと言ってきた。会いに行くと猪田先生は不登校の子の相手をしていることを知った。実は猪田先生には昔から色々お世話になっていた。

 中学時代荒れていた私は志望校の高校に不合格、部屋に閉じこもりどこの高校にも行かずに死んでやるという豪語していた。そこに猪田先生が来て締め切ったドアの奥で

「先生のツテでサッカーの強い高校が二次募集を締め切っているけど特別に試験を受けさせてあげるって言ってる。あんたがその高校で活躍して、勉強も頑張って良い大学に行けば高校の不合格なんて大したことじゃない。頑張りなさい。行きなさい。あなたは出来るから。」

 猪田先生とは半年もない付き合いだった。それなのにろくでもなかった私に、親身になって対応してくれた。そうして私は締め切ったドアを開け、高校進学、サッカーで活躍して、大学も全国有数の場所へと進むことが出来た。

 更には、猪田先生の親類が警察官だったということもあって警察官になろうと決めたあと、採用試験について色々な情報を教えてくれていた。その先生を裏切った。

 そして今、先生の前にいる自分。どんな顔をすればいいのかわからずにただただ下を向いていると

 「どう?週に2回、ここでボランティアしてみない?自分が悪いと思って責めているくらいなら社会貢献してみなさい。そしたら色んなことが見えてくるから。」

 二つ返事で頭を上下に振る自分がいた。

 こうして私は勉強をしながら週に2回、不登校の子達と接する機会を頂いた。

 そしてその年、筆記試験に合格した。

 母も帰ってきた。どうやら父が説得したらしかった。少しずつ明日が見え始めていた気がした。

 その日見上げた夜空、月が明るかった。惨めな私を世界は許してくれたと思った。

 夏を迎える前、飼っていた犬が10歳で亡くなった。ヤンチャな犬で一度は家から逃げ出し、他の家で飼われていたことがあった。それでもある日帰ってきた。そして子宮のガンになった後も手術で一度は治った。私が帰ってきてから再発していた。4月以降、みるみる痩せ細り、元気がなくなっていた。手術も無理なほど腫瘍が大きくなっていて最後を覚悟して見守るしかないということだった。

 最期に亡くなる時、私は彼女に謝った。

 「ごめん。警察になれなくて。立派になった姿を見せてあげたかったのに。ほんとにごめん。」

 少しずつ息が細くなり、息を引き取った。笑っているようにさえ見えたがきっと安心させてあげることはできなかったんだと思う。

 それから少しして、最終合格の発表があった。

 不合格だった。最終試験では落ちる人間の方が圧倒的に少ない中、その少ない側に入った。

 試験に落ちると、また母の態度は変わっていった。口を聞いてくれなくなっていた。食事も作ってはもらえなくなっていた。

 まだ、世界は私を許してはくれていなかった。調子に乗った自分を責めた。またしても下を向きながら過ごす毎日が始まった。

 父はなんとか母に食事だけでも作ってあげてほしいとお願いしてくれたようだが、母は食事を作ってはくれなかった。父から貰うお小遣いは全て参考書に消えていたため、実家生活をしながらも何も食べることが出来ない日々を送ることになった。どうしてもお腹が空く日は一日一食、腹持ちがいいあんぱんを買ってきて食べた。水でお腹を膨らませたこともある。

 きっと家の冷蔵庫を開けると食料はあったと思う。父に言えばもう少しお金をくれたと思う。でも、私は本来家の中にはいてはいけない人間。冷蔵庫から物をとればそれは窃盗、父からお金をせがむのも働けばなんとかなることだからと思い頼らなかった。

 とはいっても毎日続く空腹には勝てない。限界だった。

 そして父からの私に対する生活保護費の支給日、父から貰ったお小遣いで近くの定食屋に行った。季節は秋だった。サバの塩焼きを頼んで一気に平らげた。今でもあの時のサバの味は忘れていない。毎日このサバが食べたいという衝動にかられた私は帰り道、コンビニに寄ってアルバイト情報誌を手にとった。

 2つ、気になる仕事を見つけた。

 1つはカラオケ。時間帯は朝から夕方で勉強時間の確保に支障がない。何より賄い付きが嬉しい。

 もう1つは靴屋。時間帯は4時間勤務OK、未経験可。靴も好きだった私にとっても嬉しいし、警察をダメになってからは誰とも接してこなかったために面接もうまくいかなかった私のコミュニケーション不足を直せると思った。

 この2つのうち、カラオケ屋の賄いに釣られて第一希望となった。早速カラオケ、靴屋に電話をし、カラオケ屋の面接のあと、靴屋で面接という当時誰とも接していなかった私の大冒険が始まった。

 カラオケ屋での面接、男性店長に案内されてカラオケルームの一室で面接を受けた。何を話したか覚えていない。でも、好感度はよかったように思う。採用も間違いないと思った。1週間以内に採用の電話をもらえるということで靴屋に向かった。

 しばらく外に出て歩いていなかったため、簡単に汗が出てきた。この頃には髪もある程度伸びていた私は、髪型が崩れないようにとお尻のポケットに忍ばせたキャラクター物のハンドタオルで汗を拭った。

 大学時代、気候が暖かい場所にいたため汗が出やすく、いつでも拭けるようにとポケットに入れる癖がついていた。

 汗を拭い、いざ靴屋へ。

 若い女性店員がレジに立っていた。

 「すいません。面接できたんですが。」

 「あ、はーい。ちょっと待ってて下さいね。店長呼んできます。店長ー!」

 女性店員が店長を呼んだ。靴屋の店長だからきっとオシャレな男性店長が出てくるんだろうと思いつつ、流石に2件目の面接という緊張、室内は予想以上に暑く、拭ったはずの汗がまたジワジワと湧いてきて気持ちが悪くなっていた。

 店長がレジ裏から出てきた。

 「あ、はじめましてー!じゃあ、行きましょうか!」

 ストレートヘアで小柄、私よりも少し年上と思われる女性だった。この人が店長?という感覚と先ほどの気持ち悪さが相まってキョトンとした自分がいた。

 心臓も今までにないほどドクンドクンとしているのがわかった。一目惚れだった。当時の気持ちを素直に表現するなら「え、この人好き」だ。

 そんな私の感情をお構いなしにその素敵な女性店長が私の前を通り過ぎて別の部屋へと案内した。

 とてもいい香りがした。

 面接場所に向かうまでにエレベーターに乗った。そこでも店長のいい香りが私を包んだ。

 暑くてたまらなかったが緊張のあまり動くことが出来ずまるで銅像のように動けなかった私を、彼女はセカセカと忙しそうな足取りで面接場所に着座させた。

 すぐに適性テストをすると言われ、答案用紙を埋めた。簡単な計算問題、心理テストのような質問の数々。一つずつ解いていったが実は集中を欠いていた。なぜかはわからないが店長がずっと私を見つめている気がしたから。

 テストを終えると店長に色んなことを質問された。

 数々の質問後、店長は言った。

 「就職浪人して頑張ってるんだね。協力してあげたいです。事前にわかってる予定があれば教えてもらえればシフトは大丈夫かな!君は元気も良さそうだし、テストも問題ない!男の子は君以外にいないんだけど大丈夫かな?それでもまあ、1週間以内に採用の場合は連絡します!それじゃあまた下降りましょう!お疲れ様。」

 慌てて脱いだ上着を着た。実は面接で着座した時、「暑いので上着脱いでいいですか?」と店長に確認すると「どうぞ!」と言いながら何枚も羽織った上着を脱ぐ私を見てニコニコする店長を見て、鈍臭い男だと思われたんじゃないかと心配していた。多分、この時からもう嫌われたくなくて必死にカッコをつけようとしていたんだと思う。

 エレベーターの中で、滴る汗に我慢の限界が来て店長に言った。

 「あのー、汗拭いてもいいですか?」

 「どうぞ?!」陽気な返答だった。

 私はキャラクター物のハンドタオルで汗を拭った。

 するとクスクスと笑う店長がいた。

 「君ほんと面白いね?!タオルも可愛いねー!」

 茶化されながら私は体育会系特有の「うすっ」と頭を縦に振った。

 店長と別れ、お店の外に出た私は友人の野田に電話した。野田は高校時代からの付き合いで、共に消防を目指す仲間だった。彼も警察、消防に合格出来ずチャレンジを続けていた。彼には警察に行かなかった理由を震災時の消防の影響で警察より消防がいいと思ったから辞めたと説明していた。その彼とは定期的に会ったり電話をしたりしてお互いを高めた。

今回の電話にはそういった意図はなかった。

「野田!!聞いて!!俺、今靴屋の面接きたんだけどさ!もうね、めっちゃくちゃ可愛い店長が出てきてさ、一目惚れ!!ヤバい。可愛いすぎる。俺、ここで働きたい!!」


 「あー、はいはい。よかったな。でもお前、カラオケで働きたいって言ってなかった?」


 「そんなこと言ったっけ?俺はあの店長の側で仕事したい。運命感じた!結婚したいかも!好きだー!」


「いや、テンション高すぎじゃね?しかも結婚とか相手のことなんにも知らないのに良く言うね?!小学生かって!でも良かったな!いい仕事見つけられて!」


抑えきれなかった感情をただただ野田に伝えたかった。

私にとって運命の人、今までに感じたことがない一目惚れ、店長と結婚する未来を想像するようになった。底に落ちていた自分の矢印が、上に向いて行く気がした。

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