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@aoikuma0518
第1話 底
「採用は見送ります。」
大学卒業を控えた3月、採用が決まっていた警察本部の担当者からそう告げられた。
行き場を失ったその日、私は人生のどん底に落とされた。
当時、私には付き合っていた恋人がいた。いや、洗脳されていたという方が正しいかもしれない。順風満帆な恋とは無縁のどうしようもない相手だった。ひとり暮らしをしていた私の部屋に上がりこみ、いつのまにか住み始めていたその女は生活に関するもの全てを奪った。
比較的裕福な家庭で育った私は親からの仕送りで十分生活が送れていた。しかし、その女が現れてからは月に20日以上アルバイトをしても生活するためのお金は足りなかった。私は人生で一度も吸ったことがないタバコを毎日のように購入させられた。そして、当時携帯の2台持ちが流行った時代、親から与えられていた携帯電話の他に、まだまだ発展にあったiPhoneを自費で購入し、所持していたのだがその女が使用するものとなっていた。
周りの友人は口を揃えて「別れた方がいい。」そう言ってくれた。でも、別れることができなかった。私は洗脳されていた。
人とはあまりにも不思議なもので、自分が気にしている部分を突かれるとまるで自分が悪いと思い込み、自己嫌悪に支配される。私の場合はその女から「金持ちのくせにタバコ一つ買えねーの?情けない。」とか「スパッと金も出せない男ってカッコ悪いよねー。」などと罵られることが耐え難かった。裕福に生きてこられた自分を否定されることが自分のプライドを傷付けられるトリガーとなったのだと思う。いつからか私は「自分が悪い。」そう思いながらその女に貢ぐ毎日を送っていた。
毎日、自己嫌悪に襲われる中で掴み取った警察官採用試験の合格通知。当時私が過ごした時代は就職氷河期、優秀な人間が50社受けても採用されない。そんな時代だった。
ちょうど試験勉強をしていた期間、その女は私の家からいなくなっていた。私が嫌になったということだった。だからこそ立ち直ることが出来た。そう思っていた矢先、女は戻ってきた。合格発表後、大学生活最後の冬だった。戻ってきたことに嬉しさはなかった。あの言葉を浴びせられた。「女が困ってるのに家にも置けないの?お金持ってんじゃん。はぁ、情けない。」洗脳は解けていなかった。
そして大学卒業を迎えた3月、警察学校入校のタイミングで北国に戻る際、その女と離れることが出来ると思った。事実、その女は実家に帰っていった。
でも、縁が切れることはなかった。その女は私のiPhoneを所持していた。取り返したい。その思いで警察学校入校前に私はその女の実家に向かった。
女から取り上げたiPhone、出会い系のようなもので知り合ったと思われる男達とのやりとりを見つけた。その瞬間、洗脳の闇から解放された。私のiPhoneがあの女の出会いのツールに使われていたことが腹立たしくて仕方なかった。嫉妬なんて可愛いものじゃない。殺意さえ芽生えるほどの感情、憎悪だ。自分の大学生活を壊されたことに対する激しい怒り。その日、その女と完全に決裂して夜も遅かったことからビジネスホテルに泊まった。
携帯が鳴った。中学校時代良くしてくれた先生からの電話だった。
「警察合格したんでしょ?お祝いに飲もうか!」
「ありがとうございます。色々とむしゃくしゃすることもあったしいいですね!ぜひお願いします。」
そして私は先生の指定した店へと向かった。
その日見た月は異様なほどに明るかった。不思議な夜だった。僻地といえるほどの田舎で隣に座っていたのは日本を代表する大物俳優がいたり、中学の同級生からたまたま連絡を受けて飲むことになったり、色々あった夜だった。その色々が運命の始まりだったのかもしれない。
【あの日私が見た月を、あなたは泣きながら見ていたのかな?】
これでもかとお酒をかっくらった私は、おぼつかない足取りになっていた。同級生からタクシーを手配すると言われたが自分で見つけられるからと、財布の中にあった所持金5000円を同級生に渡して、外に出た。
タクシーを捕まえようと思って待っていたがタクシーは捕まらない。待っているうちに所持金がないことに気付き、酔いを覚ますのにちょうど良いと思い、コンビニを目指して歩くことにした。
気付くと警察官数名に両脇を抱えられ、パトカーの中に連れて行かれていた。
すると一人の警察官が言った。
「なんだ学生か!身分証明できるものは?就職は決まっているのか?」
酔いがまわっていた私はつい、
「4月からお世話になります。頑張ります。」
言わなくてもいいことを言ってしまった。
「なに?お前警察官の採用試験合格してるのか。本部に確認する。お前みたいな奴、ただで済むと思うなよ。」
警察署に連行され、取調べ室に座らされた。
しばらくして酔いが覚めた。もう後の祭りだった。
警察官から状況を説明された。私は酔って他人の住居の車庫に侵入し車庫内に設置されたシンクの中で寒い寒いと震えながら水を浴びていたとのことだった。
ホテルに着いたと勘違いした私はシャワーに浴びようとしたのではないかということだった。
警察官から告げられたのは私の両親が向かってきているということ、本部に確認し採用試験合格名簿に載っているが採用はなくなるだろうということ。
そして、財布の中を広げた時に出てきたという一通の手紙。本来ならば自分のしてしまったことに落ち込むのが当然なのかもしれない。でも、私はただただ怒っていた。その手紙はあの女が入れたものだった。
「今までありがとう」
あの女のせいで今、人生が終わろうとしている。あの女が私から身の回りの物を奪ったがために私は今取調べ室でトイレにも行かせてもらえない状況を過ごしている。すぐにでも死にたい。そう思った。
現実はそうはいかない。一体どのくらいの時間、取調べ室にいたのだろうか。母親が迎えにきてくれた。
「あんた終わったね。」
母から言われたその一言にひどく傷ついた。
昔から母は私の話など聞いてはくれなかった。いつも悪者にされた。兄弟が多かった私は、昔から両親にあまり好かれていなかったのだと思う。私は孤独が友達と言っていいほど信頼できる人間が近くにいなかった。
私は母にありがとうの一言もごめんなさいの一言も言わずに立ち去った。
それでも帰る場所はない。結局は母親とは別で実家に帰った。
帰ると父が待っていた。
「お前も酒で失敗すると思っていた。うちの家系は酒で人生をダメにしてきた。まずは警察本部に少しでも望みをかけて謝りに行く。そのために自分の反省を示せ。頭は丸めろ。明日一緒に行くからな。」
父は腕がいいと評判になるほどの医師だった。私が生まれてから医大に合格して医師になるほどの努力家だった。ただ、昔は忙しくしていたためか話を一切聞いてもらえず事あるごとに暴力を受けた。私の言い分を聞いてはくれない父、私は幼い頃から過呼吸になるほど泣き喚き、声が枯れて学校に行けなくなることがあった。だから今回もきっと厳しいことを言われると思っていたがまさか一緒に謝ってくれるとは思いもしなかった。
私は伸ばしていた長い髪を丸めた。
母は部屋に閉じこもり、出てくることはなかった。
翌日、父が一緒に警察本部に謝罪に行ってくれた。期待とは裏腹に、厳しい言葉を浴びせられた。
そして一人の警察官から
「採用は見送ります。」と言われた。
あの後のことは今でも忘れない。父は何も言わずに肌が弱かった私を知り合いの皮膚科医の下に連れて行き治療を受けるよう勧めてくれた。実家に帰ってきた時、母はいなくなっていた。
それでも父は私に
「なってしまったことをどうこう言うつもりはないりでも警察官の夢はもう絶たれた。どうするのか考えて自分で道を見つけなさい。そして本音は隠すな。自分の本音を言いなさい。」
本音。本音を言えば、医師として活躍する父に憧れて医師になりたいと思った。大学在学中、何度も大学を辞めて医師を目指したいと言った。でも、受け入れてはもらえなかった。
サッカーで行かせてもらった大学を中途半端にするような人間が医師になんてなれるわけがないということを当時何度も言われ続けた。
だからこそ本音は言えなかったし、言うつもりもなく、悩んで見つけた答えが消防吏員という選択だった。しかしながら消防吏員を目指すには覚悟が必要だった。私が目指したのは政令指定都市の消防だった。
この日、どん底に落ちた私が見つけた一筋の光。父に相談するとサポートすると言ってもらえた。
あの女のために作った借金が20万ほどの返済、携帯代と勉強に専念するためにアルバイト等はせずお小遣いという形で父親から必要なものの支援を受けることになった。
この日から猛勉強を始めた。
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