完熟図書館

藤光

トマトと幻

 図書館は、取り壊される運命にあった。

 市政の改革を訴えて当選した新しい市長が、子どもを持つ世帯に医療費を補助する財源とするため、利用者の少ない市の施設の売却を決めたからだ。市内には別に県立博物館も立地しており、これ以上文化施設は必要ないというのが市長の理屈だった。


 ――博物館じゃあ、弁当は広げられないんだが。


 私は、図書館のロビーでコロッケに箸をつけながら、中庭で咲き乱れる紫陽花の群生を眺めていた。床がぴがぴかに磨き上げられた煉瓦造りの重厚な建物は、築80年を超える代物であり、戦前の有名な建築家によって設計されていた。


 廊下の掲示板には、展覧会の告知や人権啓発、市政報告のポスターに混じって「図書館取り壊し反対!」と書かれたビラが一枚貼り付けられているが、だれも目に留める人はいない。ロビーに人気はなく、私と年恰好の似た老人が数人、ベンチに座って同じように紫陽花を眺めているだけだ。市長が取り壊しを持ち出しても仕方のない図書館だった。


 膝の上に広げた弁当箱から、箸でプチトマトをつまみ上げる。真っ赤に光るトマトは、私が自宅で作ったものだ。いまマンションのベランダにはプチトマトが鈴なりになっている。季節の野菜の旬は短い。


 ――せいぜい食べてあげないと、すぐになくなってしまうからな。


「今日も同じお弁当なの」


 声に視線を上げると、そばに若い女性が立って私を見ていた。身に付けている高校の制服だろうか。すっかり古びてかび臭い図書館には、どうも似つかわしくない。はじめて見る女の子だが……さて。


「やあ。君は?」

「毎日同じお惣菜に同じコロッケ、卵焼きとプチトマト」

「よく知ってるんだね」

「いつも見てるから」


 はて、まいったな。そうなんだろうか。昨日ここで会った人の顔を思い出そうとするが思い出せない。たしかにだれかと話したような気もするが。女性だったろうか、男性だったろうか。


「そうかい……よく覚えていなくて」

「わたしのこと、覚えてないの?」

「君のこともそうだけれど、弁当のこともね。私の弁当はいつも同じ内容なのかい?」


 気がつくと、箸の先で摘んでいたはずのプチトマトが、足元に転がっていた。いつのまにか取り落としてしまったのだ。最近、こうしたことが多い。腰をかがめて拾い上げると、熟れたトマトはロビーの土埃に汚れてもなお、つやつやとした光沢を失っていなかった。今朝、採ってきたばかりだから。


「このトマトなんだけど……」


 顔を上げると、そこに女の子の姿はなかった。どこへもいけるはずがない。落ちたトマトを拾い上げるまで、ほんの数秒のことなのに。彼女はロビーから消えてしまった。まるで、最初からだれもいなかったかのように。


 一瞬の幻――。

 私は、残りのおかずとごはんを取り落とさないように注意して食べ終えると、汚れたトマトを弁当箱に収め、そっと蓋を閉じた。閉館時刻まで、まだ時間はあったが、家へ帰ることにした。きっとそうした方がいい。


 外へ出ると夏の日差しと熱気に包まれて目が眩んだ。坂道を下って振り返ると、陽炎のなかに赤いレンガの建物が揺らめいて見えた。また明日、私はこの坂道を上ってくるだろう。


 図書館は、取り壊される運命にあった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

完熟図書館 藤光 @gigan_280614

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ