星を生むコンパス
あなたは小学三年生です。
今日、算数の授業で使うコンパスを忘れてしまいました。
手元にあるのはノート、教科書、鉛筆、消しゴム、定規、はさみ、色鉛筆、のり、セロハンテープ、ティッシュ、ハンカチ、名札。
これらの道具を使って、乗り切ってください。
以上が、小三の時の私に実際起こった状況である。
忘れたなら隣の子に借りればいいじゃない?
最初の一回はそうした。でも、その日の算数の授業は徹頭徹尾コンパスによる作図が予定されていて、隣の子が使う、私が借りる……を繰り返していたら、どちらも授業に遅れていってしまうことが確実だった。忘れ物をした張本人である自分は仕方ないけれど、隣の子にそこまで迷惑をかけるのは忍びない。
加えて、その時の担任は子供たちから「鬼ババア」「ヒステリックババア」と捻りのない綽名をつけられ、保護者の間でも「怒り方が異常」と物議を醸すことがあるくらい、少々性格に難のある感じの女性教諭だった。
忘れものなどバレたら一巻の終わり。まあ、そういう空気である。
最初に借りた一回で、「このまま四十五分間の授業を乗り切るのは難しい」と気付いた私は考えた。そして結論を出した。
コンパスを忘れたなら、作ってしまえばいいじゃない。
ここで言うコンパスの定義を念のため確認しておくと、円を描くために用いる製図器具のことである。船乗りたちが使う方位磁針ではない。
ところで、船乗りたちは方位を知るためにコンパス(方位磁針)を使うけれど、海図を作製するためにコンパス(製図器具)を用いる。
「コンパス取って」
「あいよ」
「違う違う、針のある方」
「あいよ」
「だから違うって」
こんなことにはならないのだろうか。
閑話休題。
コンパスを作るとひと口にいっても、針の付いた軸と鉛筆を括りつけてある足の方、あんな装置をこの場で作るのはどう考えても無理である。
いや、もしかしたら、もしかするかも?
試しにやってみることにした。
鉛筆一本を軸にして、もう一本の鉛筆のお尻部分を軸のお尻にくっつけ、指でしっかりと固定し、黒鉛の芯に角度をつけてノートに接地。ぐるりと回してみた。
バラバラバラ。
まあ無理である。お尻の部分がずれるし、芯の部分もぶれるし、角度を固定し続けることができない。まともな円など描けたものではない。この案、没!
要するに。と、私は考えた。
大事なのは円の中心から同じ距離を保って、ノートに接地させた鉛筆の黒鉛部をぐるりと回すこと。その距離は変えられるということ。
校庭にある回転ジャングルジムという遊具のことを思い出した。
危険性が指摘され、平成の終わりごろにはどの公園や校庭からもすっかり姿を消してしまった、今となっては幻の遊具である。
見た目は球形のジャングルジムで、中心に丸棒の柱がある。外側の枠を掴んで一定方向に力を加えると、棒を軸としてくるくる回り始める。
一度回り始めたら止めるのは容易なことではない。次々と子供が飛びつき、スーパーマンのようにピンと身体を宙に伸ばして、ひと時の浮遊感を楽しんでいく。
回転が弱まると子供たちの身体は遠心力の恩恵を受けなくなり、足先から徐々に地上へ落ちていく。その靴のつま先が地面に轍を残す。
チャイムが鳴ってひと気のなくなった回転ジャングルジムの周囲には、いつも土星の輪のごとく、何重にも連なった美しい円が残されていた。
あれだ、と私は思った。
ピンと伸ばした子供たちの身体、そしてつま先を作れば良いのだ。
まず、算数のノートの下の空白部を横にハサミで切った。
次に定規で、細長い白紙となったそれに、5㎜刻みの目盛りを書き入れた。
目盛りの真ん中を通るように線を引き、交点に名札の安全ピンで穴を開けたら完成だ。
テッテレー! 即席コンパス~。
さっそく使ってみた。ゼロのところに軸となる鉛筆を立て、作図したい半径の目盛りに別の鉛筆を立て、紙が歪まないよう気を付けて、ぐるりと回してみる。
くしゃっとなった。強度が足りない。なんなら破れそうだ。どうしよう。
そうだ、こんな時にはこれよ!
テッテレー! セロハンテープ~。
細長い目盛り紙の裏表をセロハンテープで補強し、再度安全ピンで穴を開ける。
恐る恐る実践してみると……うん、破れない!
セロハンテープを貼ったことで、使っているうちに穴が広がりやすいという弱点も克服していた。
念のため、作図した円の半径を定規で数か所測定してみる。ズレはないか、あっても鉛筆の線の太さによる誤差の範囲くらいのもので、ほぼ完璧と言っていいだろう。
やった。ついにやり遂げた。私はコンパスを発明することに成功したのだ!
失敗は成功の母。エジソンもこうして新聞売りから発明王までの長い道のりを辿ったのだな。今日、コンパスを忘れるという失態がなければ、私は自分でコンパスを作れるという、とても素朴な物作りの基本に気が付くことはなかったであろう。
このように反省しない女だから、その後の人生でもたびたび忘れ物による窮地に陥ることになったのだが、困難が創意工夫を促すという点は、その通りだと思う。
現在、子供が通っているピアノ教室の先生が、もっと上級の先生の言葉としてよく引用する文言に、「不便に育った子どもの方が音楽的センスに優れる」という意味のものがある。
送迎一つとっても、温度管理された車内に座っているだけで習い事先にドアtoドアで着く子供と、雨が降ろうと雪が降ろうと徒歩や自転車といった自力で辿り着くしかない子供とでは、後者の方が圧倒的に感受性や想像力が優れるという。
後者の子どもは物事によく気が付く。今日の天気はどうか、寒いのか熱いのか、季節は春か秋か、最近日が短くなってきた、蝉の鳴く声がしなくなった、空き地だったところに家が建った、曲がり角で必ず見かける猫がいる、この家からはいつも魚を焼く美味しそうな匂い、あの暗い小道の先には何があるのか、おっと地面に穴が!
前者の子どもにはそれがない。何も考えなくても目的地に着く。季節の移り変わりも、道路の危険な箇所にも気付く機会がない。雨が降ろうが雪が降ろうが困ることがなく、穴の空いた道路を見たこともないから、対処法を身につけることもない。毎回安全に快適な方法で送迎をしてもらっている感謝も喜びも、感じることなどできないだろう。
音楽においては大抵の場合、様々な感情や情景を表現する力が要求される。悲しみや喜び、困難を乗り越える力強さ、それでも打ちのめされる悲劇、恋人の愛、家族の愛、神様の愛。
生活の中でそうした感情の片鱗、自然や人工物が織りなす情景に触れる時間が十分にある子どもと、便利な時短生活の中で効率的に目的を達成する日々を送っている子どもとで、吸収されるもの、育まれるものが違うのは当然のことだ。
自分のした苦労を子にさせたくないと考えるのも親の愛情。しかしそのために手を貸し過ぎる行為は、子ども自身が感じ、考える力を奪っていることになりはしないかと、よくよく考えてみる必要がある。親になった今、そう感じる。
決して、翌日の持ち物を忘れがちな子どもをチェックするのを忘れがちな親であることへの、言い訳ではない。
コンパス一つで飛躍しすぎだろうか。
でも、自作のコンパスでノートに描き出したあの真円は、かつて船乗りたちが仰ぎ見た北極星のごとく、私を創意工夫の世界へと誘ってくれた。
行く手に無数に散りばめられた困難の数々。
それはもしかしたら、輝く時を待つ星の素なのかもしれない。
さて、授業はどこまで進んだのかな。
<了>
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