本の思い出①『ああ無情』

 もしあなたが作家を目指しているとしたら、そのきっかけはなんだろうか。

 私は明確に「あっ、すごい!」と思い、こんな話を書けるようになりたいと思った瞬間を覚えている。

 それは講談社の『少年少女世界文学館17 ああ無情』(作:ビクトル・ユゴー 訳:塚原 亮一 )を読んだ時である。


 このタイトルを聞いてピンとこない人でも、こう言えばわかるのではないだろうか。『レ・ミゼラブル』の邦題ですよ、と。

 そう、もはや説明不要の、あの世界的に超有名な文学作品だ。

 

 作家になりたいと思ったきっかけが『レ・ミゼラブル』?

 ちょっと優等生すぎて鼻につく解答だし、当たり前でつまらない。そんな無個性なことを言う人間が書くものは、面白くないんじゃないだろうか……。


 そう思ったあなたを全面的に支持する。まったくまっとう過ぎてつまらない。しかし、本当のことだから仕方ない。恥を忍んで告白するとしよう。


 読んだのは年長か小一の時で、小二でないことは確か。このエッセイを追ってくださっている方には周知のとおり、私は年長から自宅で長時間の一人時間を確保することに成功しており、その時に読む機会を得たのだ。


 その本は、ずっと自宅の本棚にひっそりと棲息していた。

 存在を知ってはいたし、何度か手に取ったこともあるけれど、読むことはなかった。なぜなら、真っ赤な背景に悪魔の手のごとくひん曲がったフォークが乱舞する、なんとも恐ろしげな表紙だったからだ。

 フォークに囲まれて所在無げに佇むのは、丸シールの目を貼って擬人化された大小のスプーン。そこに悲劇感たっぷりのフォントで斜めに入る「ああ無情」の文字。


 今見ても「ホラーかな」と思ってしまうような、前衛的なデザインである。これを見て果たして、六歳頃の子供が進んで手に取るだろうか。(気になる方はぜひ検索してみていただきたい。夢に出てきそうなデザインです。)


 しかし、取らざるを得ない時が来た。図書館から借りた本を全て読み終え、家中の少年少女向けの本も読みつくして、ついに読むものがなくなってきたのだ。


 あの悪魔のフォーク……絶対怖い。でも気になる。よく見ると上の方に少年少女って書いてあるし、そこまで悪いことにはならないのではないか……。

 ええい、ままよ!


※ 以下ネタバレ注意。主観的な感想をさも一般論のように語る上に長いので、『レ・ミゼラブル』未読の方や興味のない方は飛ばしてください。


 開いた。読んだ。泣いた。とんでもねえ傑作だ。なんだこれは。飢えた姉の子どもたちのため、たった一つのパンを盗んだがために牢屋に入れられ、それから長い時を囚人として過ごす羽目になった男の、出所してからの後半生。そんな縁もゆかりもなければ想像することすらできないような、まったく今の私とかけ離れた存在の人生を文章で辿って、どうしてこんなに心揺さぶられるのか!


 それから何度も何度も定期的に読み返しては、最後のジャン・バルジャンが天に召されるシーンで必ず泣いた。

 フランスが舞台で知らない言葉だらけだったけれど、赤字で丁寧な解説がつけられており、文字だけでわかりにくいものには絵図も添えられていた。それがとても親切で良かった。その解説を読むのもすごく面白かった。


 ジャン・バルジャン。物語の途中で急に姿を消し、代わりにマドレーヌという羽振りの良さそうなおじさんが出てくる。マドレーヌ、おいしそうだ。そんな名前の人が本当にいるのだろうか。ジャン・バルジャンはどこへ行ったのかな……あ! まさかこの人が! な、なんだってー!


 ファンティーヌ。子供の目から見ても哀れで愚か。テナルディエのおかみさんなんて、ちょっと立ち話をしただけの相手を、どうして信用しちゃうかな。工場のくだりも、もうちょっとうまく立ち回ることはできなかったのだろうか……今ならわかる。できなかったのだ。働きたければ未婚の子持ちであることは隠さなくてはならない。根も葉もない悪い噂が立つだけで生きていけない。そういう時代。


 テナルディエ。調子のいい悪党。彼が一番憎たらしいけれど、作者は最後まで彼を徹底的に痛めつけるようなことはせず、最後は無罪放免といっていい扱いにする。そんなことが許されていいのか。いい悪いではなく、それが現実なのだ。そして、罪を犯した者が必ず処罰されていつまでも許されないことが果たして本当の正義なのかどうかを、この本は通奏低音のように語り続けている。彼らを罰するのであれば、彼らを生み出した社会をも罰せねばならないのではないか。


 ジャベール。執念深くジャン・バルジャンを追う警部。なんでこの人こんなしつこいの? こわーっと思わせておいて、最後には自らの信条が揺らいで死ぬ。死ななくても良かったのではないか。いや、死なねばならなかった。彼にとってそれが、今まで自分が追い詰めてきた者たちに対してのけじめの取り方だった。彼は彼なりの正義を抱いたまま死んだ。私は自らの信条を貫いて滅ぼされる系の悪役が大好きなのだけれど、思えばそのルーツはジャベールにあるような気がする。


 コゼットとマリウス。泥水に浸かってあえいでいるような登場人物ばかりのこの作品の中で、薔薇色の出会いを果たし、花園で囀り続ける小鳥のような二人。


 コゼットは、子供時代はそりゃあ苦労をした。ジャン・バルジャンに救われた時には本当にホッとした。ジャン・バルジャンからポンと買い与えられた、三十フランの大きなお人形。それを買える金持ちは村にはいないと、テナルディエがおかみさんにささやく。それ、日本で言うと一体いくらくらいだろうと、読むたびに想像したけれどわからない。説明には一フランが現在の約二十四円と書いてあったけれど、その計算だとあんまり高くない気がする。昔の話だから、きっと今とは全然違うんだ。ドラえもんの漫画にもタイムマシンで過去へ行って、たった十円で豪遊する話が出てきたもの……。

 それはさておき少女コゼット。子供時代の彼女には感情移入できた。しかし、マリウス青年に出会ってからはいただけない。老いた恩人より若い男にうつつを抜かすなんて、いくら年頃でもそりゃーないんじゃないかい。


 マリウスは一見苦労してきた風に見えて、家柄もご立派だし苦悩の内容も実にインテリで、実は終始お花畑。コゼットに出会ってからはすっかり骨抜きで得意のインテリにも翳りが見える。若気の至りが爆発してなお、ジャン・バルジャンに助けられて一命を取り留める。君は本当に仕方のないボンボンだな。


 子供の頃はそんな二人をイライラしながら眺めていたけれど、大人になってからはガラリと印象が変わった。この二人こそが幸福の象徴だと気付いたからだ。

 泥水に浸かってあえいでいるような登場人物たち。そんな苦労を、若い二人はしなくていい。生活に憂えることなく、ただ愛する者と共に生きる喜びを享受する。それがジャン・バルジャン、ひいては作者が求めた本当に豊かな社会の在り方で、この二人はそれを象徴する存在だったのではないか……そう気が付いたからだ。


 親になってみて、もっとよくわかる。泥水に浸かってあえぐ人生。そんな苦難の道のりを、若い人たちは歩まなくていい。もし愛する者と共に幸せな暮らしを営めない社会なのであれば、それは大人が責められるべき問題だ。


 出てくる登場人物たちの全てに影があり、彩りがある。いい人、悪い人、そんな区分では片づけられない複雑な背景を持っている。生い立ちがあり、人生が見える。今が悪くても最期はどうかわからない。紆余曲折を経てたどり着いた生涯の果て、何を思って鼓動を止めるのが本当の幸せなのか。


 奔流のように押し寄せる膨大な知見、感動、問題意識。何より物語の面白さ。

 たった一冊で、それだけのものを一気にもたらしてくれる本に出会ったのは初めてだったのだ。このファーストインパクトは忘れられない。


 あの悪魔の鈎爪が乱舞するホラーな赤い表紙の本は、実家を出る時に当然のように持ち出して、ずっと手元にある。今もこれを書きながら開いているところ。


 この名作を自分の子供たちにも知ってほしいけれど、押しつけはできない。教科書にすらアニメ調のかわいい絵が採用されている現代の価値観で育つ子供たちは、このホラーな赤い表紙の本は絶対に読むまい……。


 そう思ったので、自分の子供向けには、アニメ調の可愛い絵がついた『10歳までに読みたい世界名作』シリーズを用意しておいた。私が読んだ少年少女向けのものよりも、内容がさらに端折られているけれど、これなら読めるだろう。これをきっかけに興味を持って、赤い表紙のやつも読んでくれたら嬉しい。

 それと、復刊ドットコムを眺めていてたまたま見つけた、みなもと太郎氏によるギャグマンガ調の『レ・ミゼラブル』も買った。

 もし文章が読めない子になっても、ギャグマンガなら読んでくれるだろう……。


 思惑は当たり、娘も息子も『10歳までに~』とギャグマンガどちらも読んでくれたが、赤い表紙にはまだ手が出ない。まあ仕方ない。端折った内容であっても知ってくれているだけでヨシとしよう。


 特に息子はギャグマンガを気に入り、たびたび読んでいる。ギャグだけれど、作者のみなもと太郎さんの素晴らしい技術で、作品の本質はちゃんと伝わるようになっている。息子はくだらないギャグでゲラゲラ笑っているけれど、たまに泣いていることを知ってる。


 つい最近、尋ねられた。「お母さん、フランっていくら?」

 ああ、『レ・ミゼラブル』だなと、言われなくてもわかる。あの大きなお人形が今の日本でいくらくらいなのか、君も疑問に思ったわけだ……と思ったら、疑問を抱いた場面は違ったみたいだけれど、まあ作品は合っていた。


 まず、今のフランスではユーロという通貨単位が使われていることを伝えた。この作品の舞台はかなり昔なので、今の日本円に換算することは簡単じゃない。でも、今の君と同じことを、子供時代のお母さんも知りたかったよ。


 もしも将来、何かのインタビューを受けることがあったとして、影響を受けた本はなんですか? と聞かれたとする。

 ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』です。私が読んだのは邦題の『ああ無情』のほうですけど……なんて、「山」と言われて「川」と答えるがごとき定番の受け答えにしか聞こえないけれど、本当のことだから仕方がない。

 その時には恥を忍んで、今と同じ話をすることにしよう。

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