ルート2・母の職場


 幼稚園バスを降りると、仕事中のはずの母が待ち構えていることがあった。

 汗だくで目は笑っていない。にこやかな態度で先生や他の保護者に挨拶をし、家に戻るなり私を自転車のチャイルドシートに括りつけ、気怠い昼日中の田舎道を自転車で爆走し始める。


 そう。母は、私のお迎えのために仕事を抜けてきたのだ。

 <ルート2・母の職場>の始まりである。


     *


 その職場は隣町にあった。

 電車は一時間に一本、走行中のバスを目撃できたら幸運が訪れるのではないかというレベルのド田舎暮らしで、最も優秀な交通手段は自家用車だ。しかし母は運転免許を持っておらず、頼れるものは己の脚力のみという状況にあった。


 すぐ真横に田んぼや畑がある埃っぽい道を、電動機付きでもないクラシカルなママチャリで幼児一名を乗せてひた走る。積まれているだけの私は気楽なものだが、口を開けると小虫が飛び込んでくるので、走行中はなるべく黙っていた。なんなら用心のために目も瞑っていた。


 自転車に揺られている時間は、三十分ほどだっただろうか。

 到着した先は、こぢんまりとしたキリスト教の教会と、それに付属する小さな幼稚園である。母はここで、幼稚園教諭として働いていた。


 我が家にキリスト教徒は一人もいない。

 なのに母は、なぜそんな幼稚園に雇ってもらえたのか?


 理由はまったくわからないが、母にはそういうところがあった。

 どんな場にも瞬く間に馴染み、相手の信用を勝ち取り、いつの間にか重要な役どころに就いてしまうのが異様にうまいのだ。

 四人の子供と住宅ローンを抱えた母は、この後の人生で幾度も転職をするが、先生と名の付く仕事に就くことが圧倒的に多かった。(ちなみに引っ越し前は、自宅でピアノとエレクトーンの教室を開いていた。)


 園長先生は教会の責任者でもあり、牧師先生と呼ばれていた。

 私立の小規模な幼稚園だったことが幸いし、業務に支障のない日は私のお迎えのために職場を抜けることを、特別に許してもらっていたのだ。


 到着すると母は仕事に戻り、私は園舎の隣にある小さな礼拝堂で待機した。

 礼拝堂と言っても、プロテスタント教会のものだから、よく見たら壁に十字架がかかっているという程度の、事務室のようにシンプルな部屋である。


 牧師先生の奥さんであるM先生がいつも、同じ空間にいてくれた。

 私が本好きだと母から聞いていたのだろう。M先生はご自分の本をたくさん用意してくれていた。その中に、私の心をがっちり掴むものがあった。


 松谷みよ子先生の『ちいさいモモちゃん』シリーズと、工藤直子先生の『ともだちは海のにおい』。

 他にもいろいろあったが、この二冊がとにかく印象に残っている。


 『ちいさいモモちゃん』シリーズは、可愛らしくファンタジックなお話が続くかと思いきや、急に死神が出て来て怖い雰囲気になったり、謎のオオカミさんがパパとして登場したり、子供同士のいざこざがリアルに書かれていたりと、他の幼年童話とは何かが違った。

 パパの靴だけが帰ってくるようになって、ママの元気がなくなる。

 大人になってから、作者の松谷みよ子先生が、夫婦関係でかなりご苦労されていたということを知った。モモちゃんシリーズには離婚の顛末がきちんと盛り込まれていたのだ。ちなみに、お話に出てくるモモちゃんも妹のアカネちゃんも、実在のお子さんをモデルにしている。

 何より好きなのは黒ネコ・プーの存在だった。時にシニカルに人間社会を見つめながらも、何かあればモモちゃんとアカネちゃんを真っ先に守るプーが好きだった。


 『ともだちは海のにおい』は好きで好きでたまらず、大人になってから買った。

 物語と詩が交互に出てくる変わった形式のおかげで、詩の存在を知った。

 広い海の中でイルカとクジラが出会い、かけがえのない友達になるというシンプルな話だ。でも、出てくる言葉やエピソードがたまらなく優しくて共感できた。現実に友達は一人もいなかったが、本当の友達というものがどういう存在か、この本で知った。最後、二頭は互いにお嫁さんをもらうことになる。それまでの友達付き合いが変わってしまうことを感じて、たまらなく寂しく悔しかった。お嫁さんなんてもらわずにいつまでも二頭で遊んでいたらいいのに、と思った。

 今でも手に取って読むと、胸がキュンとなる。


 M先生は、私が大好きなこの二つの作品を、家でも読んでいいよと貸してくれた。

 何度も何度も読んだ。気に入ったものは何度でも読むタチなのだ。


 後に、母について職場に行かなくなってからも、M先生とのやり取りは続いた。

 例のお気に入りをまた貸してくれた。お手紙が添付されていて、太陽が朝ですよと呼びかける詩が綴られていた。お礼に私からも本をお貸しした。『海からとどいたプレゼント』という児童文学作品。

 昔の戦争のお話が出てきて心に残ったので先生も読んでください……という意味の手紙を書いた。詩も添えた。嫌われ者の青虫が、いつか綺麗な蝶になるんだと心密かに思っている、という内容。

 M先生はお返事にも詩を書いてくださった。自分のことをグランマと呼んで、時計がボンボン鳴って、お孫さんに寝る時間ですよと呼びかける詩。

 子供の私に真摯に向き合ってくださったM先生のお陰で、母の仕事終わりを待つ時間は嫌ではなかった。とても感謝している。


 余談。


 ある時、こんなことがあった。

 礼拝堂に母が迎えに来る。滅多に会うことのない牧師先生も一緒だった。

 私はその日、読書ではなくお絵描きをしていた。読書と同じくらい絵を描くのも好きだったのだ。

 その頃の将来の夢は、画家になることだった。絵描きさんではなくという言い方にこだわっていた。ルノワールやゴッホなど有名どころの画家しか知らなかったが、ああいう絵を描く人になりたいと明確に思い定めていた。


 そのことを牧師先生に、母が話した。すると牧師先生は私のことをじっと見つめて、衝撃的なことを言ったのだ。


「この子は将来、マリア様の絵を描くでしょう」


 予言である。

 ええ!? 私も母もびっくりして、思わず顔を見合わせた。


 私は思った。

 そんなこと言って、私が画家にならなかったらどうするんだろう。なっても、マリア様の絵を描くとは限らないし……。


 最後の晩餐でイエス・キリストは、「この中に私を裏切る者がいる」と予言して、その者はユダだと暗示した。

 この逸話を見聞きするたびに私は、自分が予言された時のことを思い出し、「いや、崇拝している相手からそんなこと言われたら、ユダだって裏切らざるをえないじゃん。予言外れたら大変じゃん……」と思うようになった。

 ユダ忖度そんたく説である。


 後にピグマリオン効果、ゴーレム効果、占い師や詐欺師の心理テクニックを知った時にも、この時の体験が頭の背後をちらついて、理解を助けてくれた。


     *


 幼児期に信徒でもないのに礼拝堂に通い、家に帰れば仏壇があり、大晦日には地元の八幡神社へお参りをし、時折母に連れられてとある新興宗教の集会に参加していたお陰か、私は宗教というものにさほど忌避感を抱かず、さりとて深入りするでもなく、それぞれのエモい部分を上手に楽しんで、文化的な視点から内容を深掘りすることを厭わない感覚を手に入れた。


 クリスマス時期には母がピアノで聖劇の歌曲を練習しており、私もすっかり覚えて一緒に歌った。四月には卵の殻を綺麗な色に染めたイースターエッグを頂いた。

 母の職場のお陰で、通常の生活ではなかなか得難い、貴重な経験を重ねることができた。実に幸運だったと思っている。


<ルート2・母の職場 END>

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