やねとかげ
蟹三郎乃介
2:23 p.m.
夜、喉が渇いたので寝台から抜け出てシンクへ向かい、水を一杯飲んだ。
ガラスのコップをコトッとシンクの縁に置くと、微かになにか、コップの音とは別の、何かの音が聞こえた。
瞬間俺はピタッと動きを止め、音が聞こえた背後の扉の方に、体を向けずに意識を集中してみた。
しかし、どれだけ聴覚に意識を集中しても、部屋の壁の中でコトコトと鳴る水道管の音しかわからなかったので、少し妙な気分になりながら俺は後ろへ振り向いた。
俺の脳内に俺の意識とは関係なく我が家の玄関の静止画が映し出され、眺める間も無くぼんやりと消えていった。
確かに、 キィーーーーー…… と、聞こえたはずだったのに。
相手などいないが、なにか納得のいかない気持ちになった俺は、脳内で弁明を始めた。
本当に細々とした音だったが、確かに扉の向こう側から、この部屋の空気を伝って、その音は俺の耳に入り込んだはずだったのだ。
そんなことを頭の中で呟きながら俺は振り返り、ドアノブに手を伸ばした。
しかし、一瞬その納得のいかなさのようなものが頭の中に広がって、わずかな間、俺の頭を支配した。
俺は、シンクのすぐ上の天井にくっついている白電灯にぼんやりと照らされた薄暗い部屋の中で、ほんの一瞬、少しの間だけ、ドアノブに手を伸ばした状態で固まっていた。
寝巻きに包まれた背中がひんやりと湿ったような気がした。
そのわずかな時間の中で、ついさっき、たった一度聞いただけの音が、俺の脳裏で反芻されていた。
とても小さい音だったが、確かに、確実に、耳に聞こえた音。
ほんの一瞬の間をおいて、俺の頭はひとりでに、一つの確信を弾き出した。
あれは、近くで聞こえた音だ。
今度は思わず、はっきりと玄関の映像を意識してしまう。
冷たい、真ん中の真っ暗な覗き穴以外に凹凸のない、真っ白な、家の扉。
するといつの間にか、その扉がわずかに奥へ引かれ、真っ白な長方形が傾き、壁との隙間に真っ暗な暗闇が出現する。
そうしているあいだに、扉はちょっとずつ引かれていく。
暗闇はその面積を増していき、扉に向かって周囲の空気がさっと動くのを感じる。
暗闇はなめらかにゆっくりと広がっていき、やがてまた、 キィーーーーーーー… と、あの音が感じられたかと思うと、ドアの隙間の暗闇は視界いっぱいに広がった。
その瞬間、俺はなんでわざわざそんなことを考えているんだ、と、わざわざ見たくもないドアの向こうの暗闇の映像を勝手に妄想した自分に驚きながら、少し急いでこわばった腕を伸ばし、握ったドアノブを下へと回した。
力が入った腕で、ぐいと一気に部屋のドアを引くと、真っ暗な廊下が視界に広がる。
それからすぐに、何を一人で怖がっていたんだと、何に対してなのか俺は小っ恥ずかしさからくる身体の火照りを感じながら、ドアをゆっくりと元の位置へ戻そうとした。
キィーーーーーーーー……
あの音が鳴った。確実にさっき聞いたのと同じ音だ。それも、今俺が閉じようと動かしたドアの蝶番から、鳴った。
その瞬間ぶわっと全身に薄く汗をかいたのを感じて、俺はそのまま2秒ほど静かな廊下の真ん中で固まった。
しかし、冷や汗による薄ら寒さが俺をかえって正気に戻したのか、
一体なんでこんな、小さな物音こときに怖がっていたんだ俺は。
ネットの恐怖映像の見過ぎじゃないか。
と、冷静に思い直して、今度はいっそのこと思い切り、さっきまで感じていた恐怖心に堂々と挑戦する気概で、さっきから握ったままのドアノブを思い切り押し開いた。
ドアが風を切る音と共に、またさっきまでいた部屋が視界に映った。
俺はなんとも言えない愉快さ、面白さのようなものを感じ、そして何を思ったのか、ふんと鼻から息を吐いて笑いさえしながら、俺はすたすたと、再びその部屋へ足を踏み入れた。
立ち止まると、部屋はシィンとして薄暗いだけで、さっきと全く同じように、白電灯が狭い部屋を照らしているだけだった。
俺はすっかり気分が元に戻って、なんで部屋にまた入ったんだよ、と自分をツッコミながら振り返り、ドアノブに触れようとした。
そのとき、 ぽた という小さな音が足元から聞こえたのに気づいて、俺は反射的にその方向へ顔を向けた。
一滴の水滴が、地面に落ちていた。
俺は、なんだ、袖にさっき飲んだ水でもついちゃってたかな、と考えて、先ほどと変わらない調子で改めてドアノブを握り締め、ドアを引いた。
ドアが引かれる。
キィーーーーーーー……
と、またあの音が響く。
そのまま部屋と廊下の境目を踏み越えたとき、俺は何の気なしに後ろを、部屋の方を振り返った。
すると、白電灯に照らされた部屋の床の一部が、なぜか真っ黒く、大きく染まっていた。
俺が何かを考える間も無く、すでに動かされた腕によって閉められたドアが視界を占領したことを認めると、足早に寝室へと戻った。
そしてそのまま布団を頭まで被ってくるまり、眠りについた。
翌朝、俺は飲み水を取りに再びあのシンクがある部屋へと足を踏み入れた。
部屋はシンクの上部についている窓から差し込む日光によって、全体が明るく照らされていた。
昨日ほんの数分とはいえ、あんな経験をした後なのによくも躊躇なく部屋に入れたものだと寝ぼけたままぼんやりと考えながら、俺はコップをコトッとシンクの縁において、真っ白く眩しい窓を見つめた。
窓の向こうに、小さな、黒いものがくっついていた。
磨りガラスに張り付いたそれは、小さなトカゲだった。
その時、そういえば、と部屋の白電灯を消し忘れていることに気がついた。
部屋の壁のスイッチを押し電気を消すと、部屋が少しだけ薄ぐらくなったが、柔らかな朝日に照らされた室内はまだ十分に明るかった。
俺はふと、ただ何も考えずに、頭を少し上げて白電灯を見ようとした。
白電灯より先に目についたものがあった。
天井に、大きなトカゲの足跡が、どす黒くこびりついていた。
やねとかげ 蟹三郎乃介 @kanikaniparapara115
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