バクロ。

 年が明けたある日のことだった。



「これに君も書いてくれ」


「…な、何で…あなた、これは…これは…」


「違わないだろう」


 

 突然夫から渡されたのは離婚届だった。


 それと足して、この三か月あまりの不貞の証拠を並べられ、慰謝料の額に驚いた時、漸く仕組まれていたことに気づいた。


 それを言おうと顔を上げれば、死んだような瞳の夫がいた。


 私はとてもじゃないけど、声が出せなかった。



「実家と山中さんどっちに送ろうか」



 当然のように名前は知られていた。荷物のことだろうけど、こんなに淡々とした夫は見たことがなかった。



「…山中…さんのところに…お願いします」


「わかった」

 


 でもこれが夫の仕業では無いことは、今までの付き合ってきた歴史で分かってしまった。


 果南だ。果南しかいない。



「あなた…ごめんなさい」


「…」



 夫は、私からの謝罪は受け取らない。


 自分が楽しいだけで、私は最近の夫の表情を見ていなかったのだろうか。


 仕事が忙しいとクリスマスから今の今まで、果たして以前のように心配していただろうか。


 目は虚で、頬はこけ、見るも無惨な様子で、あのクリスマスの日から、一向に回復してなかった。



『──あなた…大丈夫ですか?』


『──仕事でね。今日も夜は要らないから』



 果南の家に行っていたのではなかった? 


 仕事のせいでもなかった?


 声を掛けたい気持ちも、寄り添いたい気持ちも、まだある事に驚いた。


 それどころか、考え直して欲しいとさえ。


 でも加害者が被害者に寄り添って何の意味がある。


 バレる、というよりバラされた事に憤りを感じているのか、それともこれが本当の気持ちなのか、プロポーズの時の結婚生活への不安と似たような気持ちになった。


 その時は朔くんが、寄り添ってくれた。慰めてくれた。受け止めてくれた。


 二人で愛を作ろうと言ってくれたことを強烈に思い出す。


 私を守ると、そう言ってくれた。


 当たり前のようにあった安心感にいつしか慣れきっていたのだろうか。



「…お世話になりました」


「ああ」



 バタンと閉まる扉の音が鳴り響く。いつも聞いていたその音は、私の恋の四年、愛の二年の終わりの合図だった。





「果南…?」


「や。終わった?」



 トボトボと駅に向かう途中の公園に、果南がいた。



「…いつからなの…?」


「ん? 最初からだよ?」


「…最低」


「えー? 心外だなあ。ナンパされてついて行っておほおほ言ってたの葉月じゃない」


「………彰さんもグルだったの…?」


「最初はね。ま、別に良いじゃない。あ、けど途中からは本当に愛してるって言ってたよ」


「…そう」


「ま、口だけかもだけど。ナンパ野郎だし。ふふ。まー慰謝料の振り込み次第だね。頑張ってね」


「…」


「はぁ。朔さん、可哀想だなぁ。慰めてあげないとなぁ…でも朔さん落ち込んでるし、わたしも初めてだし、どうしようかなぁ〜」



 果南の話す仕草に、何か違和感を感じた。



「…え? 果南…あの日は朔くんと…」


「うん? あっはははは。誠実な朔さんがそんな馬鹿な事するわけないじゃない。ちゃんと断られたよ〜」


「…嘘…」



 じゃあ朔くんは…どうして…。



「嘘なんてわたし一度も吐いてないよ? そうそう、朔さんこう言ってたの。例え彼女が浮気しても心は僕にあるはずだってさぁ」


「妻との出会いから六年だ。結婚して二年、それはそんなに軽くないって言うからさぁ」


「証拠見せても頑なだからさぁ」


「そんなのどこにも無いってさぁ」


「あの聖夜のトロトロの葉月をさぁ」


「全部ライブでさぁ」


「見せてたんだよね」



 果南はそう言って、楽しそうにくすくすと笑った。

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