第3話 旅立ち(前)

「え? ワンド先生が、事故?」


 それは夕食を終え、背もたれに身を任せて、まどろんでいた時のことだ。鳴り響く電話の受話器を取ると、よく知った人物が予期せぬことを告げたのだ。


『そうなんです。会議が終わった後で、他にもはねられた人が何人かいたらしいんです。父は幸い、骨折だけですんだんですけど』


 ソードの声は震えてこそいるものの、取り乱した様子はない。命に別条がないことに、とりあえず安心したのだろう。


『意識の無い人もいるみたいで。ちょうど通りかかった人が通報してくださったみたいで、処置は早かったんですけど』


「ね、ソード。私も今から、そっちに行くわ。どこの病院なの?」


『父が、小さな声で言ったんです。塔へ行きなさい、と。恐れることはない、と。エステスさん宛ではないかしら』


 状況だけを並べていく彼女は、こちらの問いに明確な答えを示すことはなかった。


『こちらのことは心配ならさず、ハミット島へ向かってください。それでは』


 口を開く前に、一方的に切られてしまった。慌てて掛け直すが、繋がらない。

 自分の動揺する様が伝わったのだろうか。いつの間にか傍にきていたエンプレスを寝かしつけて、布団に潜り込む。

 しかし、なかなか睡魔は訪れなかった。


 ◆◆◆


 夜間では目立つことのない色に塗装されたホバーカーは、自分たちを気にすることなく走り去っていく。自身と同じように怪我をしているのか、精神的に大きな傷を負ったのかは定かではないが、車を追おうとする者は誰1人としていなかった。


「ああ」


 声を出そうにも、喉に引っ掛かりを覚え、うまくいかない。むしろ、意識があること自体が奇跡かもしれない。指の先を動かすことさえできず、痛みばかりが能に訴えかけられる。

 意識を外へと集中させなければ、すぐにでも闇の中に引きずり込まれそうな気がした。


 誰か。

 なぜか。

 無事なのか。


 端的な言葉だけが、脳内を上滑りする。思考をめぐらせるなど、到底無理な話だった。

 まぶたが下りかけたその時、視界の中にある己の手の傍に、何者かの足が降り立った。茶色の革靴は同僚のそれとは違い、まるで年季が入っていない。知らない人物の足だった。

 力を振り絞って、その場で唯一立っている人間を確認しようと試みる。

 最後に見たのは、白い……。


 ◆◆◆


 白い光に誘われて、目が覚める。いつにも増して寝つきの悪い夜だったが、それでも、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。何か夢を見ていたような気がするが、意識が覚醒するのと同時に霧散して忘れてしまった。

 伸びをしてから起き上がり、居間へと向かう。画面を立ち上げると、ちょうど教授たちの事故の報道を取り上げているところだった。


「ひき逃げ」


 死者が出ていないことは幸いだが、こんな時代に、ひき逃げをする人がいるだなんて。

 そう思ってしまうほど、近年のホバーカーの性能は高くなってきている。そのうえ、この国の個人での所有台数は極めて低く、事故が起きることは稀だ。逃げたとしても、すぐに捕まるだろう。

 そんなものは、被害関係者には何の慰めにもならないけれど。

 重い息を吐いたところで、通報者の話が耳に入ってきた。被害者の1人が見た記憶によると、その人物はいつの間にか傍に立っていたという。白い髪だけが、闇の中で印象的だったらしい。救急隊が来たかと思うと、忽然と姿を消してしまったようだ。


「その人が犯人? てことは、ないか」


 実際に、その人の通報が速かったおかげで、教授たちの命に別条が無かったのだ。疑ってかかるのは、不謹慎というものかもしれない。

 しばらく報道番組を眺めていたが、宣伝に切り替わったところで立ち上がると、新聞を取りに行く。今は電子伝達機能も充実しているが、父が生きていた頃の名残で紙新聞を愛用している。

 郵便受けの蓋を開くと、新聞と一緒に小さな紙切れが入っていた。疑問を抱きながら開いてみると、流麗な文字で病院名が記されていた。


「これ、もしかして」


 慌てて家の中に入り、コンピューターを立ち上げて、病院の場所を検索する。大学と家との中間辺りに、目的の建物はあった。中心街からは外れているものの、結構大きな病院らしい。


「やっぱり、先生の入院先?」


 しかし、なぜ紙切れが郵便受けに入っていたのだろう。ソードがあの様子では教えてもらえるわけがなく、生徒の誰かなら回りくどいことはせずに電話などの手段を取るだろう。

 他に入院先を知っている人物といえば。


「通報者、とか?」


 白い髪が特徴的な知人など、思い当たらない。母の知人という可能性も、あるかもしれないが。


「どうして、号室まで分かるのかしら?」


 直後に行方をくらませたはずの人物が、なぜ。

 信じてみるべきか、否か。迷ったのは、ほんの一瞬だった。

 疑ってかかったところで、何も始まりはしない。第一、相手がこちらをだましたところで、何か得をすることがあるとも思えないのだ。

 そうと決まれば、行動は速い。エンプレスを起こして朝食を取り、身支度をする。ハミット島に向かう荷物はあらかじめ準備をしておいて、病院まで持っていくことにした。地図で確認したところ、家より病院の方が港に近かったからだ。鍵と火元を確認して、時計を見る。今なら、エアバスにも待ち時間無しで乗れるかもしれない。

 悪いとは思うが、妹を急かして家の外に出る。まだ朝と呼べる時間帯であるせいか、歩いても暑気は感じられない。それでも、妹と繋いだ手は汗ばんでいた。

 停留所に着くと、発車時間とバスの号数を確認する。出掛け前の読み通り、さほそ待たされることなく、目当てのエアバスに乗ることができた。

 見慣れた景色が、徐々に見知らぬものへと変わっていく。家からそう遠くない場所に、このような住宅街があったのかと驚いてしまう。自分の世界は狭いものなのだと、妙なところで自覚させられた。

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