第2話 父の友人(後)
その時、壁に掛けられている電話が鳴った。ワンドは一言自分に詫びて、応答する。数分間のやり取りの後、電話を切った彼が苦笑いを浮かべて、こちらを振り返り見た。
「すいません。会議のことを、すっかり忘れてしまっていました」
それは、自分に謝っている場合ではないではないか。張本人以上に慌てて、立ち上がる。
「いえ。私こそ長居をしてしまって、すいませんでした」
「いえいえ。あ、器はそのままにしてくださって結構ですよ」
言葉に甘えて、そのまま揃って教授室の外に出る。
「エステスは、塔に行くつもりですね?」
性格を知っていての確認に、強く頷く。
「明日にでも、行こうと思います」
「それは、行動的ですね」
愉快そうに、ワンドは笑った。嫌味ではないことくらい、承知している。
「明日、エンプレスを連れて、私の家に来てください。今回は事が事ですから、彼女は連れていかない方が良いでしょう。お母さんのこともありますし」
「すいません」
「いえ。ついでに、私が考えている可能性についても、明日お話しすることにしましょう。それまでには、多少はまとめておきますよ」
朗らかな親代わりには、感謝の言葉が尽きない。会議に向かう彼の背中が角の向こうに消えると、深々と頭を下げた。
「あ、そうだ。病院」
妹のエンプレスの面倒と母の看病を、彼の娘に任せきりなのを思い出した。帰りが早い今日くらいは、彼女の負担も軽くしたい。
頭を勢いよく上げて、会議室とは反対方向に歩きだす。靴のかかとが床と忙しなくぶつかる音が廊下中に響くが、気にしない。どうせ校舎内には、ほとんど人が残っていないのだ。
そのまま階段を下り、受付の前を素通りして屋外に出る。日が傾いたのか、熱さが少しだけ和らいでいた。
校庭の中心にある停留所から、病院経由のエアバスに乗り込む。中は、袖が無いと肌寒さを感じるほど冷房が効いていた。なるべく風が直接当たらない席を選んで、座る。片手で足りる程度の客を乗せたエアバスは、程なくして発車した。見慣れた景色が、流れていく。
やがて速度が緩まったかと思うと、白い大きな建物の前で停まった。空気が抜ける小さな音と共に視線が下降して、扉が開いて、階段が地面へと下ろされる。それを使うと、真っ直ぐに建物へと向かった。
屋内に入ると、病院独特の空気に包まれる。今でこそ気にならなくなったが、慣れない内は消毒液の匂いに顔をしかめたものだった。
薄暗い廊下を奥へと進み、昇降機で3階まで行って、右へと進む。三つ目の4人部屋が、母親が入院生活を送っている場所だ。中に入ると、母の傍らに末の妹のエンプレスと、ワンドの娘であるソードが付き添っていた。
「エステスさん、こんにちは」
頭を下げたソードの真っ直ぐな青銀の髪が、肩に落ちる。その隣りで、エンプレスはわずかに笑顔を見せた。視野のほとんどを失ってからの彼女は、家族以外には滅多に表情を見せようとしない。
「こんにちは」
ソードにほほ笑み、エンプレスの頭を撫でて、母の前に立つ。ここに運び込まれた時は青白い顔をしていたが、今はだいぶ回復している。ただ、少々やつれたので、以前より歳を取ったようにも見えた。
「学校は?」
「今日は、試験で半日だったの。明日から、長期休暇に入るわ。だから、久し振りにお墓参りに行ってこようと思って」
努めて明るい声で告げると、母が筋張った手を伸ばしてきた。顔を近づけると、頬を優しく撫でてくれる。
「そう。ジャッヂメントに、よろしくね」
「分かってるわ」
「エステス。あまり、無茶はしないで」
その言葉に、目を軽く見開く。あえて言わないが、ハミット島での一件を知っているのだ。
「それも大丈夫よ。たぶんね」
絶対とは言い切れないことを承知のうえで、母は頷いて笑ってくれた。性格を知っていて、半分諦めているのかもしれない。
あまり長居をしても身体に負担を掛けてしまうだけなので、二言三言話して、3人揃って病室を出た。
「お母様のことは、私達に任せてください」
自分より三つ年上のソードは、謙虚で聡明な人だ。冴えた瞳に慈愛の色を浮かべて、自分達家族を責めることなど一切しない。
「いつも、ごめんなさい」
「いえ。私達にできることは、これくらいですし。父も、実は楽しみにしているんですよ。初恋の人、みたいですから」
ソードは、ワンドと同じ色の髪を揺らして、楽しそうに笑う。こちらとしては、柔和な恩人の意外な過去に、呆れ半分、納得半分といったところなのだが。
「あー、なるほどね」
だから、彼は掛かるはずの負担も嬉しそうに受け止めるのか。もちろん、過去の恋心のためだけに後見を請け負っている、というわけでもないだろうが。
停留所でソードと別れ、自分より二回りも小さい手を引いて、エアバスに乗り込む。流れていく景色を眺めながら、昔に母が漏らした言葉を思い出していた。
『彼が後見人になってくれたのは、罪滅ぼしのためなの』
それは、どういうことなのだろう。自分も兄も幸せに育ったし、父も母も笑顔だった。どこに『罪滅ぼし』の必要があったのか、幼い記憶の中には見当たらない。
もっと昔の、2人が同級生だった時に、何かがあった、ということだろうか。
「知らないことって、結構あるのね」
ため息混じりに、零れる。
それを掬い上げないような妹ではなかった。繋いだままの手を、軽く引かれる。
「お勉強?」
「うん、そうね。研究のしがいがあるのよね」
エンプレスに、というよりは、弱い自分に苦笑を漏らす。
自分が知らない、両親と教授の過去。
これまでは気にもしなかったことだが、今は知らなければ原点がつかめないような気がするのだった。
◆◆◆
会議慣れをしているとはいえ、やはり解放されると伸びの一つもしたくなる。屋外の空気に触れれば、尚更だった。
凝った肩を回していると、他の教授仲間も同じような動きをしていることに気付いた。見慣れた顔ぶれは、自分と同じように歳を取っているのだと、こういう時は特に実感する。
「何を笑っているんだ、ワンド?」
口元の震えは、隠しきれないらしい。傍にいた男が、怪訝そうな顔をして、こちらを見ている。
「いえ。みんな、歳を取ったものだと思いましてね」
「何を言う。自分だって、似たようなものじゃないか」
それぞれが自覚しているのだろう。さも愉快だというように、笑いが起きる。
その中でも頭の片隅では、歳を取ることのない友人の顔と謎を解くための鍵が、いくつも並べられていた。それらを整理し、並べ替え、熟考する。
「そうか。あれは、上ではないのか」
よほど普段出さないような声をしていたのだろうか。我に返った時には、居合わせた全員の視線を集めていた。
「どうした?」
「あの砂漠ですよ。私は、てっきり友人の墓の上に塔が建ったものとばかり思っていました。しかし、事実は違うのです」
問われたことをきっかけにして、早口にまくし立てる。世界で初めて発表する論文を語るような、そんな興奮が自分の中にあった。
「砂漠? 昼間やってた、あれか?」
「そうです。ああ、これを知れば、あの子の役に立つかもしれない。いや、既にあの子は、知っているのかもしれません」
「『あの子』とは、誰のことだ?」
「もちろん、私の教え」
突然、辺りは騒音に襲われた。横からの強烈な光線に、目が眩む。
「危ないっ」
誰かがそう叫んだ時には、既に手遅れだった。
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