第2話 父の友人(前)
目的の人物を捕まえることができたのは、思った以上に早かった。友人と別れた後、迷わず生物学部教授棟に足を向けたことが幸いしたようだ。
「ワンド教授」
青銀の髪を輝かせた男は、振り返ってこちらを確認すると、笑顔になった。綿毛を連想させるような柔らかい表情。皺こそ増えているものの、出会った頃から変わらない、穏やかな空気をまとった人物だ。
「やあ、エステス。来るかもしれない、と思っていたところですよ」
公私共に世話になっている壮年の男には、自分の行動が読めていたらしい。
「教授も、ご覧になったんですね」
「ええ。ここでは何ですから、私の部屋に行きましょうか。ちょうど戻るところだったんです。お茶をご馳走しますよ」
これは、ありがたい申し出だ。彼が淹れるお茶は、存外いけることを知っている。
思わず、笑みを零してしまった。
「お邪魔します」
ワンドが頷くことが合図だったようにして、並んで歩きだす。真上から照る光が、白い肌には少し痛いくらいだ。なるべく木陰を選び、間近な入り口から校舎内へと移動した。
「そう言えば、試験の出来は、どうでしたか?」
急に痛いところを付かれて、内心で焦ってしまう。
「まあまあ、だと思うんですが」
どうせ採点で明らかになることだが、ここは無難な答えを返しておいた。本人を目の前に、まさか「できるわけないでしょう」と怒り出すわけにもいかない。
応用がかなり含まれている彼の出題には、全員が苦難し、似たような成績、だとは思うのだが。
「ふふ。君の答案を採点するのを、今から楽しみにしておきますよ」
「いじわるですね」
古くからの父の友人だというこの人物は、人が悪いところがある。身内以外にはあまり見せないし、そんなところも嫌いではなかった。ただ、正直に言うと、たまに胃が痛くなる時もあるが。
仕方ないと笑っていれば、ワンドの教授室は、もう目の前にあった。
「どうぞ。いつものように散らかってますけどね」
「本当ですね」
鍵と扉を開けてくれた男に対して言うべきことではないが、つい出てしまった。
「いじわるですね」
先ほど自分が放った言葉をそのまま返されるが、それは彼自身が悪いのではないだろうか。本が所狭しと置かれたこの部屋は全体的に雑然としていて、質の良い紺色の服をまとった彼の清廉さとは結び付かないほどなのだから。
「この辺りにでも、座って待っていてください。すぐに、お茶を用意しましょう」
ワンドは申し訳程度に本を寄せて長椅子の一部を空けると、すぐに奥へ行ってしまった。苦笑しながら、今まで本があった場所に座る。値が張るだけのことはあって、身体を預けると心地が良い。
教授用に設けられた一枚板の机も、革張りの椅子も、本に埋もれてしまえば台無しだ。この部屋に来ればいつもの光景なので、すっかり慣れてしまったが。初めて訪れた時は、驚いたものだった。
ただ待っているだけ、というのも退屈だ。
まず、お茶が置きやすいように、机の上の本を横の山に移動させる。
しばらく考えて、一番上にある本を手に取ると、めくってみた。それは、鳥の生態について書かれたものらしい。説明と共に、色とりどりの写真が並んでいる。
今でこそ専門外ではあるが、生物学を目指した理由の一端は、鳥だ。これも一つの勉強であるし、つぶらな瞳にも興味を惹かれる。
次第に読み込んでいくと、手前から声を掛けられた。顔を上げると、甘い香りと共に、ワンドの笑顔があった。
「お待たせしました」
慌てて、本を山に戻す。
「いえ。そんなことは、ありません」
言葉通りで、気を遣ってなどいない。本当に、待っているという感覚が無かった。危うく時間を忘れて、文字と写真を追い続けてしまうところだった。
「そうですか」
ワンドは向かい側に座ると、器に口を付けてから窓の外を見た。
「ちょうど、こんな時期でしたか。早いものですね」
明確な言葉が無くても、何のことだかが分かる。父の葬儀だ。
葬儀と言っても、まだ10歳になったばかりの頃のことで、形式はおろか棺の形さえも、ろくに覚えていない。ただ、なぜか砂の上に立っていた記憶だけがある。
父が亡くなった後のワンドは、父と同じく同級生だったという母と4兄妹の後見人になってくれた。自身にも家族がいるにも関わらず、金銭面においても、他の面においても、ずっと支え続けてくれている。
「本人の希望とはいえ、行くにはあまりに遠い。エステスも、あれ以来訪ねたことがないでしょう?」
「はい」
先から、ワンドは促してくれている。ここにきて、言い渋っているのもおかしい。
甘酸っぱいお茶を喉に流し込んで、意を決した。
「あの塔のことなんですが」
あの映像からすれば、砂漠のほぼ中央。砂と高台以外には、何もない地帯だったはずだが。
「やはり、あれは父の墓の真上に建っているのでは?」
疑問というよりは、確信に近いものだった。
家族は昔、ハミット島で暮らしていた。父の墓は、島の北部にある。その一帯は砂漠で、自分たちは過去に一度だけ、そこに立ったのだ。
「ええ。たぶん、間違いないと思います」
ワンドの言葉と共に、午後の授業開始の鐘が鳴る。今日はどこの課も、午後の授業が無い。当然、自分たちも慌てる素振りはしなかった。
「いつ、そんな仕掛けが施されていたのか。あそこ自体、人が行くような所ではありません。誰かがやったとして、気付かれる可能性は極めて低いことでしょうが」
「誰か、ですか」
ハミット島には、『エース・オブ・ペンタクル』と呼ばれる、空を飛び続ける研究所がある。そこの所員で、手に負えることなのだろうか。
しかし、彼等と父は、ほとんど繋がりが無い。父とワンドは、若い頃こそ研究に没頭していた時期があるようだが、それも兄が産まれる前の話だ。今更そのようなことをして、何の得があるというのだろう。
では、自分の身内はどうだろう、と考える。
母も父やワンドと同窓のようだが、今は体調を崩しがちなうえ、自分に気付かれずに動けるはずがない。
父が不思議なほど、科学に批判的だった影響もあるのだろう。兄は、自分と同じ、生物学に進んだ人だった。もし、下の妹2人が健全でいたとしても、そのような知識をどこから得られるというのか。
残念ながら、考えたところで心当たりが無い。
「ワンド教授には、心当たりがあるのでしょうか?」
彼は雄大な海を思わせる色をした目を目蓋の裏に隠して、確認するように数回頷いた。
「二つ三つ、あるにはあるのですが。まだ、確信を持てずにいるのです」
自分には何の手掛かりも無いが、彼には確実こそ手にしていないものの、霞の向こう側にある影が見えているのだ。父と共に歩んだ時間の差なのだろうか。
もしかしたら、この後見人は、自分にまだ話していないことを多く持っているのかもしれない。現に、元科学者の父を科学嫌いにさせた理由さえ、実の娘は知らないのだから。
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