第3話 旅立ち(後)

 目的の停留所に着くと、バスを降りる。紙で示された病院は、母が入院している所よりも少し小さい。しかし、敷地内の景観から、細かいところまで手入れが行き届いていることが分かる。

 既に、外来が始まっているらしい。建物の中に入ると混雑していて、妹が人とぶつからないように気を配らなければならなかった。

 念のため、総合受付でワンドの名と自分の身元を明かして、号室を確認する。紙切れに書かれたものと、同じ番号だった。


「とりあえず、悪意は無し、ということかしら」


 まだ腑に落ちない点がいくつもあるが、とりあえず昇降機を使い、病室へと向かう。号室を確認し、病室の前にある入院患者の氏名を確認したところで、昨日のソードの言葉が蘇った。


『父が、小さな声で言っていたんです。塔へ行きなさい、と』


 突然動きを止めたことを不審に思ったのか、エンプレスがこちらを見上げてくる。


『恐れることはない、と』


「お姉ちゃん?」


 戸惑う妹に、急に意識を取り戻した。


「何でもないの」


 きびすを返すと、来た廊下を戻り始める。


「お姉ちゃん? 入らないの?」


 焦った様子のエンプレスに、前を向いたまま答える。


「うん。先に、やらなきゃいけないことを思い出したの」


「やらなきゃいけないこと?」


「塔へ行くのよ」


 足早にロビーまで引き返すと、電話を掛ける。相手は、海の向こうにいる知り合いだ。


「ハイプリースティスよ。久し振り。ええ、元気よ」


 こんな状況下では、母はともかく妹までソードに任せることなどできない。だからといって、砂漠に妹を連れていくのも考えものだ。

 頻繁に連絡を取る間柄とは言えないため、心苦しくもある。しかし今は、家族の事情を知る彼女に預かってもらうことが最適だと思った。


「悪いけど、お願いがあるの」


 相手は物腰の柔らかい声で、快く了承してくれたのだった。


 ◆◆◆


「行きましたか?」


「うん。門の外に向かってるよ」


 残念ながら、寝ている自分には、窓の外を覗くことができない。白中心の部屋の中とは違い、鮮やかな色が広がっていることだろう。


「私も、寝ている場合ではありませんね」


 起き上がろうとしたところで、「やめておきなよ」と制止の声が掛かる。声の主は相変わらず、窓の外を見ていた。

 厳密に言うと、少し違うのかもしれないが。


「無理すると、動かなくなるかもしれないよ? せっかく助けてあげたのに。おもしろくない」


「それでも、動かないといけない時があるんですよ。それに」


 思わず、笑みが零れる。窓際の彼の言葉を借りれば、『おもしろくない』状況にも関わらずだ。


「痛みが無いんですよ。困ったことに」


 麻酔が効いているのか、別の理由かは分からない。しかし、おそらく後者だろうと確信していた。

 窓の傍から、わざとらしいほど大きなため息を吐く音が聞こえる。この部屋の入院患者は、2人。うち1人は、まだ深い眠りの中にいるようで、静かなものだった。


「困ってるように聞こえないんだけど? 自嘲の笑みとか懺悔なら、よそでやってくれる? 僕は、、だからね」


「すいません。言いたいことは、足のことではないんですよ」


 話の流れでそうなっただけで、彼の機嫌を損ねたいわけではない。


「エステスを導いてやってほしいんですよ。事の真相へ。あなたなら、どんな船よりも先回りすることができるでしょう?」


「命令なら、お断りだよ。僕に命令をして良いのは、白い鳥の長だけだ」


「そうですね」


 あっさりと自分が引き下がったことに戸惑ったのか、拗ねたのか。

 しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。ついに、こちらを向くことは無かったが。


「僕は、おもしろいことの味方だ。気が向いたら、助けてあげるよ」


 それを最後に、彼は窓の傍から姿を消した。正しくは、飛び立った、と言うべきかもしれないが。


「そう言いつつも、放ってはおかないでしょう。きっと」


 笑みを浮かべて、まぶたを閉じる。今日1日くらいは、優しい悪魔の忠告通り、ゆっくりと休ませてもらうことにしよう。

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