第42話 一つの終わり、一つの始まり
ダンッという音が耳元で聞こえ、左大臣は身を震わせた。しばらくして、何も痛みを感じないことに気付く。驚いて尻もちをついた痛みはあるものの、斬られた感触はない。
「……?」
「案じなくても良いよ。人を殺して喜ぶ程、おれは落ちぶれちゃいない」
冷えた声の主は、仰向けになった左大臣に馬乗りになるようにしてこめかみの真横に刀を突き刺した真兎だ。すぐ傍に冷たい刃があり、真兎の赤く輝く瞳に見下され、左大臣は動けなかった。
(……何故、私がこんな子どもに! 気圧されているとでも言うのか!?)
心の底では怒りが沸き起こっているが、左大臣の顔は蒼白だ。体が本能的に動いてはいけない、と警告を発しているのかもしれない。
左大臣は奥歯を噛み締め、虚勢を張った。思い出せ、自分はこの国において動かせないものなど存在しない左大臣なのだと。
「ふん。きっとお前は、後々私を殺さなかったことを悔やむだろう。お前たちが何処へ逃げようと、必ず仕留めてやるからな」
「ならば、おれは何度でも退けよう。……父上や母上、おれの家族を害そうなどと考えるなよ? あの人たちは、おれの行いとは全く関係がない」
「良いだろう。私としても、参議どのを失うのは惜しいでな」
左大臣は、参議である真兎の父行里をかっていた。落ち着いて全体を把握する力に長けた行里は、便りになる存在でもある。使えるから生かす、それだけだ。
「約定したからな」
念押しをして、真兎は地面から刀を引き抜いた。再び顔を青ざめさせる左大臣を一瞥し、立ち上がって仲間たちのもとへと歩く。
彼を迎えた虎政と月草の周囲には、左大臣に付き従っていた者たちが伸びている。軽く目を見張って肩を竦めた真兎に、虎政が言った。
「真兎、お前俺たちに天狐の力を使ったのか?」
「どういう意味だ?」
「今までなら、この影っていう役割を持つ奴らと渡り合うなんてことは出来なかった。だけど、今の今まで、俺じゃないような感覚があったんだ。誰かが背中を押してくれているような、力を貸してくれたような、そんな感覚」
「……月草も?」
話を振られ、月草も頷く。
「うん。矢のあたる回数が格段に増えて、威力も増していたように思う。絶対に真兎のことを邪魔して欲しくなかったから、その気持ちが引っ張ってくれたようにも思うけれど」
「……天狐」
呟く名は、己の祖。その存在をこの世から消してしまった狐が、もしかしたら残してくれた力ではないか。そんな想像をして、真兎は心の中で「ありがとう」と呟いた。
真兎の呟きを聞き、虎政と月草は顔を見合わせ笑みを浮かべる。
これで全てが終わった、三人がそう思った時のこと。月草の足元で、一人の男が目覚ます。
(このまま、主様が負けたと認める? そんなことは、許されない)
男は最後のあがきとばかりに、月草の足首に手を伸ばした。掴んで引き倒してしまえばまだ勝機はある、と踏んだのだ。
しかし彼の手は虎政の足に払い除けられ、更に目の前に真兎の刀の切っ先が向けられた。男の喉がヒュッと鳴る。
「……次は、これで済まない」
「俺たちの邪魔をするな」
「く、そが」
苦々しく言葉を吐いた男だったが、そのまま力尽きたのか気を失った。
真兎はようやくほっと息をつき、左大臣の方を振り返る。左大臣は地面に胡坐をかき、何故か何故か目を閉じていた。
「気を失ったのか?」
「あの男が? そんなはず……何だ、あれは」
真兎が驚愕を顔に貼りつけて呻く。彼の疑問に答えられる者は、その場には一人もいない。
あるのは、左大臣の背後から立ち昇る黒い影が揺らめいているという事実だけ。それは形を変え、徐々にその姿を現していく。
真兎は虎政と月草の前に立ち、それを見上げた。
「そんなところに隠れていたのか。……龍神」
「一つ、警告してやろうという優しさだよ」
地に響くような低音が耳を揺さぶる。真兎は顔をしかめ、真の黒へと色を変えたかつての宿敵を睨み付ける。
「警告?」
「そう。……この国は、抑える神を失った。これからは、名もなき神々が
「……」
「天狐が消え、我も消える。お前に、奴ら全てを御し切れるかな?」
龍神の影がそれだけ言い置いて消えると、地面が激しく揺れた。地響きが鳴り、滝壺の水が波立つ。パラパラと小石が落ちて来た。
「何だ、これ」
「一旦ここを離れよう、真兎!」
「ああ」
揺れに驚き目を覚ました者たちが、微動だにしない左大臣を支え移動させていく。真兎も虎政と月草に引っ張られ、森の中へと分け入っていく。
暗闇と化した森は歩きにくく、何処に向かっているのかもわからなくなりそうだ。それでも月明かりを頼りに都への道筋を歩いて行く真兎は、悪寒を感じて振り返った。
「……名もなき神々」
先程まで真兎たちがいた滝の辺りから、夜の色よりも更に深く黒々しい何かが湧き上がっていた。それは煙のようであり、禍々しい何かを大量にはらんでいる。
それが小さな神々の一部が溢れ出したモノが見えているのだと真兎たちが知るのは、もう少し先のこと。真兎は虎政と月草に呼ばれ、彼らと共に森を抜けて山を下った。
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