第29話 急襲

 真兎が雷雲のもとへ連れて行かれたのと時を同じくして、後宮でも変化が起こっていた。こうが弘徽殿の女御のもとへと戻り、真兎について短い報告をしていた丁度その時のこと。


「――女御様」

「ええ、来ましたね」


 弘徽殿の外側が騒がしい。何人もの足音が響き、制止する検非違使の声も聞こえたが、すぐに静かになった。


「何事です」


 凛とした女御の声が響くと、外に立っている者たちの気配が静かになった。そしてその中の一人が前に出て、膝を折る姿が見える。


「女御様、お騒がせして申し訳ありません。我ら、とある事情にて、この場に馳せ参じた次第」

「とある事情、ですか」


 女郎花の君が女御に代わって問うと、外にいる何者かは頷いた。


「申し訳ありませんが、女御様方にはしばらくこの場から動かずにいて頂きたく」

「何故か、お訊きしても宜しいですか?」

「……あの御方の願いを叶えるため」

「平行線、交わらないと言うことですね」


 嘆息し、女郎花の君は肩を竦めた。彼女は女御を振り返り、目で「どうなさいますか」と問う。

 女御はちらりと背後を見てから、女郎花の君に下がるよう促した。


「ですがっ」

「案ぜずとも良いですよ。わらわに任せて」

「……はい」


 不承不承の体で控えた女郎花の君に苦笑を返し、女御は姿の見えない相手と対峙した。影の形と声色から考えるに、この後宮に勤める女房の誰かだろう。


(けれど、気配がまるで違う。わらわたちは、獣に睨まれた野うさぎと言ったところでしょうか)


 とはいえ、ただ逃げ回り震えるだけの野うさぎになるつもりは毛頭ない。

 女御は凛と背筋を伸ばし、一つ問いかけてみることにした。


「あなた方は、左大臣の差し金ですか? それとも、我が夫……帝の手の者ですか?」

「――っ」

「どちらか、答えてくださいませんか?」


 決して強い言葉遣いではない。それでも女御には言葉にはならない威厳があり、外の女たちは怯んだ。

 その隙を、女御は見逃さない。


「――香!」

「はっ」


 女御の声に即座に反応した香は、屋根の上から飛び下りるとすぐに簀の子に立っていた女たちが何者かを理解した。密かに後宮にいる者たち全員を調べ把握していた香は、彼女たちが藤壺の更衣や山吹の宮に仕える女房たちだと即座に見抜く。

 そしてその女房たちの中に、自分と同じにおいを持つ者が混ざっていることにも気付いた。


「あなたは……もしや」

「ちっ。やはり、同じにおいの奴がいるっていうのはやりづらいね」


 女房装束という美しさに重きを置いた衣服に身を包みながら、その女房は身軽な立ち回りを見せる。彼女は鴉羽の君と呼ばれる女房で、本名は志保しほ。実は鏡の妹だ。

 鴉羽の君、もとい志保は動きの邪魔になるかさねを脱ぎ捨て、身軽な単を元にした衣で跳び上がる。香に飛び蹴りを決め、距離を取られた瞬間に唖然と自分たちを見詰める女房たちに叫ぶ。


「さっさと行きなさい! あんたたちには、まだしてもらうことがある!」

「――っ、わかってる!」

「お任せを」


 志保に怒鳴られ、桃の君と呼ばれる女房は苦々しげに眉をひそめた。しかし、隣にいた早蕨さわらびの君が彼女の背を押す。


「行きましょう。我々は、目的を果たしました」

「わかっているわ」


 桃の君は頷き、早蕨の君らと共に小走りで消えていく。単を何枚も重ねる普段の女房装束ならば不可能な動きだが、彼女らもただの女房ではないらしい。極力足音を控えて去って行くのだ。


「待ちなさい!」

「待てと言われて待つならば、ここから逃げることはありませんよ。女郎花の君」

「ですがっ」


 言い募ろうとする女郎花の君だったが、女御を見て言葉を飲み込んだ。女御は、彼女が見たことのない女御らしからぬことをしていた。それは、いつも扇を柔らかく握る指に力が入っている様。表情は大きく変わらないが、扇の握り方一つで女御がどれだけの気持ちを押し殺しているのかが察せられた。


「女御様……」

「わらわたちが追ったとて、知れていますから。今は」


 そう呟くと、女御はいつの間にか静かになった御簾みすの外側に声をかける。


「香、無事ですか?」

「ええ、女御様。ただ、取り逃がしてしまいました。申し訳ございません」

「もとより、逃げることが前提にあったのでしょう。……わらわは、これから帝を訪ねて来ます。香、あなたはさっきの者たちの行方を追って。そして、月花の君を助けてあげて欲しい」

「承知致しました。女郎花の君、女御様をお頼みします」

「お任せを」


 女郎花の君の言葉を聞いた香の気配が弘徽殿から消えた。それを察してから、女御はさっと身支度を済ませる。女郎花の君も手伝いながら、一つ尋ねた。


「あの香という者は一体……」

「わらわにずっと仕えていてくれる、わらわの影ですよ」

「影……」

「さあ、行きましょう。帝に色々とお聞きしなければ」


 女御は多くを語らず、女郎花の君と共に清涼殿へと足を運んだ。


 同じ頃、香は後宮を出て屋根の上から志保たちを探していた。しかし相手が相手のためか、気配すら掴むことが出来ない。


(左大臣の姿も見えない。……儀式はもうすぐそこ。それまでに、打てる手は全て打たなければ。……ん?)


 見れば、大内裏の一角で少年が一人きょろきょろと辺りを見回している。昼前というこんな時刻に仕事をせずに外にいるなど、何か事情でもあるのかと何となく見てしまう。


「あれは……」


 知っている人物だ。そう思った香は、屋根伝いに移動してその少年の前に下り立った。当然、少年―虎政とらまさは目を見張る。


「うわっ、びっくりした……。香殿?」

「虎政殿、一つお願いしたいことがあるのです」

「お願い?」


 目を丸くした虎政に、香はある頼みごとをするのだった。

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