第30話 最後の挨拶

 弘徽殿の女御が帝のもとを訪ね、虎政と香が出会った頃、真兎はまだ気絶したままでいた。雷雲の指示を仰いだ鞍佐によって、牢に囚われている。


「……。このまま眠っていれば、現実を見ないで済むのにな」


 囚人の様子を見に来た鞍佐は呟くと、その場を去る。洞穴の端に作られた牢は、東と西に一つずつ。真兎がいるのは、西側のそれだ。

 東側には、贄となるべき清姫が入れられている。二つは遠く隔てられ、互いに気付き話をするなど不可能だった。


「最近、ようやくイイ顔するようになったね」

「……」


 時刻は夕刻へ差し掛かる。

 禊祓を今日も終えた月草を牢に放り込み、夕餉ゆうげの汁物を持って来た鏡がほくそ笑む。彼女の前には堅木で作られた格子が乱立し、その向こうには暗闇が広がっている。

 暗闇の更に奥、鏡の手にある燭台の明かりすら届かないところでうずくまる一つの影。鏡の楽しげな視線を受けるそれは、疲労と絶望で倒れ伏した月花だった。

 息は力なく、落ちた瞼に影がくすむ。毎日何度も水に濡れるためか、月草の単は白さを保っている。それが更に悲壮感を強め、鏡は満足げに微笑んだ。


「龍神様への捧げ物。そこに感情なんて必要ない。……清姫の儀まで、あと二日」


 洞穴を出ると、静寂が落ちて来る。見上げれば満ちるまで間もない月が、鏡を見下ろす。

 ふと気配に気付けば、月光の下に雷雲の姿があった。鏡は慌てて地面に膝を付き、頭を垂れる。


「雷雲様」

「鏡、清姫の様子はどうだ?」

「休んでいます。明後日の儀式には、全てが間に合うかと」

「……宜しい」


 厳かに頷き、雷雲は踵を返した。彼の後に続こうとした鏡を、雷雲は制す。


「あの方のところへ呼ばれている。お前は、鞍佐と共にあの子どもの見張りを」

「御意」


 雷雲の姿が闇に消えたのを確かめ、鏡もまた滝の裏へと姿を消した。




 空気の淀んだ牢の中、真兎は夢にいた。何か黒いもやのようなものが首や手足に巻き付き、締め付けてくる。息をするのも苦しく、真兎は必死にその何かを引き剥がそうとした。


「くぁっ……うっ……離せっ」


 もがけばもがくほど、それは絡みついて離れない。良い加減諦めろという幻の声が聞こえた気がして、真兎は歯を食いしばった。


(ここで諦める? ここまで来て、諦めろって? ふざけんなよ……っ)


 そこからは無意識だ。体の内側、胸の中に力を集める想像をする。そこに形はないが、念じれば念じるほど、がたまっていく。

 たまっていく何かは、温かく力強く、真兎を鼓舞する。そして同時に、「使いこなしてみろ」と言わんばかりに挑発するのだ。

 真兎は夢の中で手を伸ばし、遠退くそれに指先で触れた。その途端、弾けた何かが光の帯となって真兎を包み込む。あれよあれよという間に光に覆われた真兎は、ふと首や手足の痛みが消えていることに気付いた。


「何だ、これ。力が湧いてくるような……怖いような、不思議な感覚だ」

「――目覚めたのだよ、我が子孫」

「お前は……天狐?」

「その通りだ」

「でも、何か透けてる?」


 真兎の言う通り、彼の目の前に立つ白狐の体は向こう側が透けて見える程薄くなっていた。思わず手を伸ばしたくなった真兎はそれを耐え、血のような赤い瞳を真っ直ぐに見詰める。


「どうして、そんな姿に? 前に会った時は、もっと鮮明だった」

「お前が、天狐の力を受け継いだからだ。私の力をその身に宿し、目覚めを待つ力を。……もっと良い形で手渡すことが出来ればよかったのだが、龍神の覚醒と時を同じくしてしまったのは、最早必然だとしか言いようがなかろう」

「必然……」


 白狐の瞳を見詰めることで、真兎はわかってしまった。自分が力を受け継いだことで、白狐の姿をこの世に留めていた力が消えようとしていることを。そしてその現象を止める手立ては、ない。

 真兎の脳裏に、気絶する前の光景が蘇る。天狐の力を暴走させ、衝動を抑えられず自滅した。眉をひそめ、拳を握り締めて呻く。


「おれは、この力をどう使ったらいいかもわからない。それに、さっきは暴れさせてしまって、抑えることが出来なかった」

「目覚めたばかりなのだ。自分の思い通りに使いこなせなくて当然だ。これから、慣れていくだろう。お前が、護りたいと思う者のために力を使えば良い」

「……おれに、出来るだろうか?」


 自信などない。真兎が自問するのを眺めていた天狐は、ふっと音もなく笑った。


「その時が来れば、必ず目覚める。その後どうするのかは、お前次第だ。……願わくは、お前のその力がお前のかせとならないことを」

「天狐……」

「――龍神と渡り合え、真兎」


 初めて真兎の名を呼んだ天狐は、その姿を赤い光へと変える。光は粒となり、瞬く。


「あ……」


 赤い光は真兎の瞳に映ったかと思うと、そのまま目に吸い込まれていく。視界が赤く染まる瞬間、真兎は目の前に不思議な模様が浮かび上がったのを見た気がした。後世、それは魔法陣と呼ばれる類のものだ。


「何だ、これ……」


 急速な眠気が真兎を襲い、彼は耐え切れなくなってその場に崩れ落ちた。夢の世界は霧散し、地面の堅さと冷たさが真兎に現実を突き付けることになる。

 目を開けた真兎は暗さに目が慣れず、しばらくしてようやく自分がどんな場所に居るのかを知った。堅そうな木で作られた格子によって外と隔てられた、何処かの牢のようだ。


「……水のにおい?」


 それまで感じたことのないにおいを感じ、真兎は戸惑う。

 彼はまだ知らない。自分の瞳が、黒に近い焦げ茶色から深紅へと変わっていることに。

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