第26話 秘密

 それから五日間、真兎はみっちりと香から鍛錬を叩き込まれた。たった五日で何が身につくのかと疑われるかもしれないが、本人のやる気もあってか、真兎は五日目が終わる頃には香に蹴りをあてられるようになっていた。

 とはいえ、これはまだまだ練習でしかない。香は時がないことを悔しく思いつつ、真兎に向かって口を開く。


「よく頑張られましたが、これでようやく影の者たちと渡り合えるだろう、といった段階です。おそらくあなたが今後対峙する存在は、私のようなものには及びもつかないような大きなものになるでしょうね」

「そうかもしれません。ですが、おれは戦いのやり方を何も知らなかった。今は、少しだけ知っています。それだけでも、きっと大きな違いになりますよ」


 鍛錬最後の夜、二人は焚火たきびを前にしてそんなことを話していた。

 ぱちぱちと日の爆ぜる音が聞こえる以外、大きな音は聞こえない。静かな夜だ。

 頭上には名も知らない星々と、大きな半分程の月齢の月が輝いている。その月が満ちた時、新年が始まると共に清姫の儀が執り行われるのだ。


「――その時まで、あと数日といったところですよね」

「真兎殿、本当に明日行かれるのですか?」


 鍛錬によって傷だらけになっている真兎の体は、疲労もたまっているはずだ。一日休んでも間に合うと言った香だが、真兎は首を縦には振らなかった。


「はい。滝の正確な位置もわかりませんし、ぎりぎりに出て儀式に間に合わなければ本末転倒です。香殿のお蔭で、戦う術を得られましたし。ありがとうございます」

「……私は、主の傍を長く離れるわけにはまいりません。でも、あなたも月草の君も、大切に思っています。どうか、二人で帰って来てください」

「必ず」


 その夜、真兎は早めに休んだ。

 火の番を買って出た香は、緊張感をはらんだ少年の寝顔を眺めていた。そして、とある変化に気付いて目を細める。



 香の目の前で、真兎の体が白く輝いている。この現象は昨晩もその前も起こり、彼女をおののかせた。

 白い光は月のように控えめで、真兎の姿が見えなくなるほどではない。代わりに、光ることで何が起こるのかがしっかりと見えてしまう。

 真兎の体は光を伴うことにより、ゆっくりとではあるが傷を癒やしていくのだ。


(幼い頃、鍛錬の痛みは翌日も続いた。毎日癒えきらずに重なって、何度も熱を出して倒れた。……最初は気の所為だと思ったけれど、やはり女御様のおっしゃる通りなのかもしれない)


 香が真兎の邸から巻物を持ち帰った時、女御はその巻物を一読して言ったのだ。


「月花の君は、天狐の血を引いているのですね」


 その意味を香が知ったのは、真兎が巻物を読んだ時のこと。彼自身からも夢に見たことについて聞き、確信を得た。

 真兎は天狐の血を引いているだけではない。彼の父よりも祖父よりも、おそらく誰よりものだ。

 だからこそ、限界まで身体をいじめ抜いた翌日も同じだけの鍛錬を積むことが出来た。


(しかも、光は少しずつ強くなっている気がする。これが良いことなのか悪いことなのか、私には判断が付きませんが……)


 吉か凶か。それがわかるのは、先のこと。しかしそう遠い時ではない、と香は思った。

 そんなことを考えている間に、真兎の体の傷はほとんど癒えてしまった。彼自身がその不可思議さに気付いているかどうか、香は訊くべきか迷っている。


「……いえ、動揺させるべきではありませんね」


 首を横に振り、香は月を見上げた。丁度焚火の火が消え、残った煙が闇の中を昇っていく。

 吸い込まれそうな夜の中、香は意識を半分起こしたままで眠りについた。




 何度目だろうか。もう、数えることすら億劫になってしまった。

 月草の君は毎日昼夜問わずに繰り返される禊祓みそぎはらえの儀式に耐えながら、徐々に心がすり減っていくのを感じている。始めこそ心の中で何度も何度も真兎の名を呼んでいたが、冷たく体を凍えさせる泉の影響か、その心の声すらも冷え切ろうとしていた。


「……かはっ」


 一人、頭まで水に沈められて浮き上がる。咳き込みながらも泉の中に立つ月草を陸地から眺め、女が呟く。


「あなたも頑張るねぇ。その瞳の光、まだ諦め切れないと見た」

「……」

「おや、無視か」


 くすくすと笑う女を振り返りもせず、月草は彼女らから教えられた祝詞のりとを口にした。覚えて淀みなく唱えられなければ命はない、と脅されたのだ。


 ――天にまします龍の神よ。我らにさちを与え給え。我ら、御身にその身を捧げ、この国を護り助けしたまとならん……


 長い長い口上は、この国を創り出したという龍神を称え祀るためのものだ。神職なら誰もが唱えられ、祭りや儀式の際によく耳にする。


(……わたしはもう、神なんて信じない)


 自分に課せられた役割が何か、月草は彼女をここに連れて来た者たちから何度も聞かされている。月草は、龍神が国を守ることと引き換えに捧げられ、生を終えるのだ。

 古来より、最も高貴である帝の血を引く女がにえとしてその役割を果たしてきた。とはいえ、毎年毎年誰かが命を落としてきたわけではない。長く、姫君は龍神の妻として神職の役割を担ってきた。

 しかし数百年に一度、龍神の力が衰える時に贄が捧げられる。贄を得て、龍神は再びこの世に並ぶもののない存在として国を守ってくれる。それが、龍弧国の裏側だ。


(わたしは、死ぬの? 真兎、あなたに会えないままで……?)


 もう涙は枯れ果てた。月草はポタポタと髪の毛から滴る雫を手の甲で拭い、薄い単を翻す。

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