第25話 夜間の鍛錬

 鍛錬としてまず行われたのは、香が投げる太い枝を躱し続けるという鍛錬だ。視界の悪い森の中、しかも夜中という刻限に何処から飛んで来るかもわからない枝を躱し続ける。


「ぐっ」


 何度目かの枝を躱そうとした時、真兎は足元の木の根に足を取られて転びかけた。転ぶのを避けるために足に力を入れた直後、額を枝が直撃する。その痛みに足を止めている暇は与えられず、足下に投げつけられた枝を躱すために地を蹴った。

 転がるように森を駆け、無限に追って来る枝を避け続ける。時に生えている木の幹で弾き、跳んで木の枝の助けを借りてより遠くへと逃げていく。真兎は息を弾ませながら、後ろを振り返らずに物音だけで枝の投げられる方向を聞き分けていた。

 勿論、最初からそんな芸当が出来たわけではない。


「さあ、もう少しですよ」

「――っ」


 後ろから横から、真兎を鼓舞する声が聞こえて来る。その声の主は一人だけのはずだが、どういうわけか四方八方にいるような感覚に陥っていた。

 真兎は走り過ぎてうまく呼吸をすることが出来なくなりながら、懸命にただ足を動かす。そうして限界を何度も乗り越えていく中で、真兎の神経は研ぎ澄まされていく。


「っ!」


 ほぼ無意識のまま、真兎はその辺りに転がっていた小石を掴む。そして振り向きざまにそれを投擲し、香の投げた枝を撃ち落した。

 しかし、それだけでは終わらない。パンッという音が静かな森に響き渡り、香は自分のこめかみぎりぎりを小石が飛んで行ったのだと気付くのに少々の時を要した。


(思いの外、呑み込みが早い)


 真兎は無意識だったが、この手の鍛錬を自ら何度も己に課している香は、真兎の類まれな才に気付いた。

 ごくりと喉を鳴らすと、新たな鍛錬へと移行することを告げる。


「次、いきます」

「はいっ」


 枝にぶら下がっていた真兎は跳び下り、素早く体勢を整え直す。そうやって警戒の色を濃くする真兎に、香は二つ目を告げた。


「――に勝って下さい」

「は?」


 闇雲に応戦するには、香は戦闘力が強過ぎる。真兎は木刀を構え、それと対峙した。

 香が用意していた敵は、真兎の予想を超えて来た。


「……香殿」

「時は一刻を争います。ですから、手っ取り早く力量を計らせて頂きますね。——私自身で」


 そう宣言するか早いか、香は軽い動作で一気に真兎との距離を詰めた。

 真兎が腕を交差させて耐え抜くよりも早く、香の蹴りが彼の胸を突く。一瞬息が止まり、真兎は自分が蹴り飛ばされたことに気付けなかった。思い出した時には木の幹に叩きつけられている。


「かはっ」

「まだです」

「ぐっ」


 ドンッと木が揺れる。数枚の木の葉が落ちて風に運ばれ、数十羽の鳥が飛びたった。

 体をひねって間一髪のところで香の拳を躱した真兎は、至近距離で右手を握る。勢いをつけて殴りかかろうとした矢先、それは香の片手によって抑え込まれた。


「……っ」

「私は、何があっても主を守り切ることを己に課し、生きています。ですから、付け焼き刃に簡単には屈しませんよ」

「付け焼き刃だって何だって、おれは、やるんだって決めたんです!」

「――!」


 真兎は香に抑え込まれた拳を支えてにして、ぐるんっと体を一回転させた。その勢いで右の拳を離させ、更に上からの踵落としを放つ。


「くっ」

「まだいきます!」


 腕を交差させて踵落としを緩和させた香が呻き次の体勢に移るより速く、真兎は体をひねって空いていた左足で蹴りを決める。

 こめかみにそれを受けた香はたまらず、先程真兎がぶつかったのとは別の木の幹に叩きつけられた。香は目を丸くしていたが、やがてクスッと笑うと素早く立ち上がる。


「なかなかやります、ね」

「香殿の教え方が良いんでしょう」

「……切り返しもうまくなりました」


 柔らかく微笑んだ香は、しかし次の瞬間には真剣な表情に変わる。


「だから、私も本気で参ります」


 そう宣言すると、香の姿が消えた。

 真兎がキョロキョロと彼女の姿を探す暇はなく、感覚だけで腕を交差する。すると丁度左右の腕が重なった場所に香の拳が叩き付けられた。

 ビリッという衝撃が走り、真兎は倒れそうになったのを耐える。更に追撃してくる香の蹴りを受け流した。

 じんわりと腕に赤みが広がり、痛みが駆け上がって来る。しかし、そんなことに気を取られている暇などない。真兎は自ら撃って出るため、香の蹴りを躱して接近を試みた。


「はあっ!」

「弱いですよ!」


 至近距離での拳は、確かに香の鳩尾を捉える。しかしあと一歩のところで彼女の手に阻まれ、すぐさま真兎は引いた。

 そして、何度でも向かって行く。


「……っはぁ、はぁ」

「今日はここまでにしましょうか」


 月が眠る頃、ようやく香が一日目の鍛錬の終わりを告げた。瞬間、真兎はその場に座り込んで肩で息をする。それどころか、胸の奥でヒューヒューという痛みを伴う音を聞き、顔をしかめた。


「いっ……なん……こ、れ」

「喋らないで。急速に動く量が増えて、体が追い付いていないんです。ゆっくりは出来ませんが、徐々に体と心を慣らしてください。……水を」

「――っ」


 いつの間に汲んできたのだろうか。真兎は香に差し出された器に入った水を飲み干すと、ようやくひと心地ついた。

 落ち着くと、今度は眠気が襲って来る。そんな場合ではないと自分に言い聞かせるが、真兎の意図に反して瞼は重くなっていく。

 それに気付いた香は、ふっと柔らかく微笑んだ。


「休んで下さい。休まなければ、月草の君を救いに行くことなど出来ません」

「は……い……」


 そのまま、真兎の記憶は途切れた。

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